カーブル便り第三便(六月二日)

(注3)                                                 

無事帰ってきた。
這々の体(ほうほうのてい)というのはこのことかって感じ。
カーブル周辺はむちゃくちゃな戦闘状態に逆戻りしてしまった。
北西のマザーレ・シャリーフでは3000人のターリバーンが捕虜になった
という情報が入ってくる。
ターリバーンの死体が140体、道路に転がされているという話。
国連事務所が略奪され、職員がカーブルに脱出してくる(注4)。
パキスタン空軍がパキスタン人を救援に行く。
と思ったら、北東のサーラング峠で5000人のターリバーンが
罠にはまって峠の北側に閉じこめられたという情報。
峠の南側でターリバーンとマスード派が激しく戦闘をしており、
ターリバーン劣勢という情報。
前線がどんどん南に下がり、
とうとうカーブルから車で30分のチャーリーカールまでターリバーンが押しやられてきた。
北方の最前線からターリバーン負傷兵が牛や豚のようにトラックに山積みになって返されてくる。
東のパキスタン国境からターリバーン援軍がぞくぞくやってくる。
その数は2万5千人に達したという話。
南のカンダハールからもターリバーン援軍が空輸されてくる。
カーブルを通過し、北方の救援に向かう。
カーブル市内のターリバーンの武器庫からトラックがぞくぞく出ていく。
カーブル市内の対空砲が練習を始める。
国連機、赤十字機はこれで運行停止。
カーブル市内は軍事的に一時真空状態になった様子。
カーブルを守るターリバーンがいなくなってしまった。
そのためか午後6時以降停電にされていたのが、
金曜日(5月30日)から電気が付くようになった。
素人考えでは軍事的にまったく逆なようだけど、
侵入者が即時発見できるようにということらしい。
国連の警報システムがホワイトカードからイエローカードに変わった。
レッドカードに変わると全員即時脱出(evacuation)。
しかし、国連機はすでに飛ばない。
車で東のトルハム(国境)に向かうことになるだろう。
東も押さえられていたら、南のカンダハールへ向かう。
カンダハールからパキスタンのクエッタに脱出する。
evacuationというのは、おそらく日本のテレビでも
アルバニアやシエラレオネの映像が最近映ったのではないだろうか。
ああいうやつです。
しかし、各国大使館が閉鎖されていて、助けに来る国がないので、
皆自力脱出せざるを得ない。
脱出準備は全員すでに終えている。
三日分の食糧・水などを車に積み込み、ガソリンを満タンにし、
予備のガソリンを積めるだけ積む。
事務所のコンピュータのデータのバックアップを取り、最小限の荷物をまとめる。
ところが、IOM(国際移住機関)は車を発注したばかりで車がない。
取り残される可能性がでてきた。
僕一人なら国連の友達の車に潜り込むのも難しくないだろうけど、
今回はパキスタン人のローカルスタッフを一人連れてる。
二人を詰め込むのは嫌がられるだろう。
何より、今やターリバーン政権を承認したパキスタンは一番危険な国籍である。
反ターリバーン勢力に捕まると殺されるのは間違いない。
喜んでパキスタン人を乗せてくれる車があるはずがない。
で、レッドカードが出る前に脱出する決心をした。
土曜日の晩、翌朝パキスタンに向かう国連地雷除去チームの車(また!)を発見し、
便乗させてもらうことにした。
今度はスコットランド人のおやじだった。
日曜の朝7時半にカーブルを出発し、ノンストップで午後3時20分国境を通過、
4時15分にペシャワール着、ゲストハウスで倒れ込むが、そのまま帰ることにし、
ゲストハウスで冷房の効いた新しい車を一台調達してもらい、
6時15分に出発、9時半にイスラマバードの家に着いた。
料金は前回の2倍だった。
14時間の間に食べたのはカーブルで作ってもらったサンドウィッチ
(石のような食パン--ソ連の遺産--2枚の間に臭いチーズが一切れとトマトのスライスが2枚入ってた)
と途中道ばたで買った乾燥とうもろこしのつぶつぶを煎った豆みたいなものだけで、
めちゃくちゃお腹がすいた。
家に着いたら、コックがマラリアに罹っていた。もう食べる気力がなかった。
来週、イラン国境近くのヘラートに行く。
                                     02.06.97  From Islamabad
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(注3)カーブルから帰ってきてNo.2を書いた直後またカーブルに行くことになった。
このNo.3はその時の様子である。
この時以来カーブル北方の激戦はいまだに続いており、
とうとうカーブル市への空爆も始まった。
(注4)ほとんどは北方のウズベキスタンのテルメスに脱出したらしい。
余談だが、6月14日拙宅で「Evacuees' Night」と称して
脱出した国連職員を集めてパーティーを行った。
午前4時まで踊り狂う国連職員達には哀愁が漂っていた。

「後記」


これは私の私信(E-mailでの)の一部である。
てにおはを直し、注を付け加えた以外はほとんどそのままである。
もちろん、私的伝言などは削除した。
私の日常生活のほんの数日分を切り取っただけのものであり、
こういうものを公表することにどれほどの意味があるのか疑問もある。
しかし、東京外国語大学の麻田助教授及び和光大学の村山氏から
何人かの若い人達の反応を聞き、公表を承諾することにした。
これほどの情報の氾濫が起こっていながら、日本の若い人達には世界への、
現実への窓がない。
暗幕に針で穴を開ける程度のことでも出来るなら楽しいことだ、
そう思い公表も悪くはないと判断した。
最後に私が今艱難辛苦の中で喘いでいるわけではないこと
(すでにそのような前提での反応をいくつか受け取った)、
むしろ自分の恵まれた境遇に困惑しているので
あるということを予め記しておきたい。
批判、感想、質問などはいつでも歓迎する。(yoshi@i-nexus.org)

山本芳幸