山車

                              1998.07.19

 パキとは全く関係ないんやけど、今、吾輩の住んでいる鴫野は祭の真っ最中で、朝の六時半頃から山車が走り出して、鐘太鼓がデンデンガラガラと鳴り出す。しかも、その山車ちゅうのが一台やのうて、三台あって、これが狭い町中を動きまわるもんやさかい、一日中街に音が満ち溢れるという状態になる。で、山車を引っ張る法被姿のいなせな兄ちゃんというより爺ちゃんが、町中そこここに溢れかえる。たぶん、昨晩の酒が残ったままなんやろ、異様に元気やで。祭りが終わったら、たぶん2,3人は死ぬんちゃうかと思う位や。ガキも大喜びで山車について回って、声援を送っとる。

 で、こんなやかましい街におったら、どうしても日常生活は送られへん。別に祭に参加しているわけでもないのに、吾輩も何となく、落ち着かれへんわけや。だいたい、こうやって、文章を書いてる最中にも、入れ替わり立ち替わり山車が我が家の近くを通るさかい、全然集中できひん。表現が全然浮かばへんようになる。しやけど、それが不思議に嫌でない。ええもんやな、と何となく思てまうわけや。もう一週間前くらいから、練習かなんか知らへんけど、鐘太鼓の音が響いとって、祭が本格化したのが昨日や。たぶん、明日もまだ続くと思う。この緩やかな盛り上がりが、部外者にとっても気持ちええもんなんやな。山車が近づいてくるたびに、ベランダに出てみたり、太鼓のリズムを口でまねしてみたり、という有様や。

 で、こうやって数日を過ごしてみると、祭というのはローカルでなおかつグローバルやな、と思う。たとえば、鴫野のまつりは一応だんじりやねんけど、岸和田のやつみたいな荒っぽさはなくて、その点ではいかにもこじんまりとして、地方共同体的なんやが、その地方共同体が非日常に突入して行く盛り上がり方ちゅうのが、なんか普遍的な印象を与えるんや。祭りて異常に単調や。単調で単調でどうしようもないくらい単調やねんけど、くどい。そのくどさがある点を超えると、急に盛り上がりにつながる。一週間くらいにわたる練習も、ほんとは練習と違て、臨界点までくどくなり切る準備なんやろな。で、おそらく、この単調さとくどさと盛り上がりという結びつきて、たぶん世界的なもんやないやろかと思うわけや。ちゃうかな? たとえば、カーニバルなんかも、世界的に知られているんは、盛り上がった時点やろ。たぶん、盛り上がるまで異様に単調なノリの期間があるのと違うかなと思うわけや。ま、別に単なる吾輩の思いこみかも知れへんけど、、、世界的にというのは大分怪しい気もしてきたな。ま、そんなことはどうでも良えんや。要は、今吾輩が目の当たりにしてる祭りを見る限り、祭いうのは、非日常を飼い慣らすことやねんな、そう思たいうことや。祭と正反対のものいうたら、やっぱり、ペシャワールの「のどかなカラシニコフ」やな。非日常は暴力的な急速さで日常に割り込むもんやちゅうのが、あの検問所あたりの雰囲気からようわかったけど、祭りの場合は、異常な単調さを異常に長く続けることで、徐々に日常生活を崩して行くもんなんや。で、あの「のどかなカラシニコフ」の怖さみたいなんを、民俗学的に避けようとしたんが祭なんやと思う。とここまで書いて、ホンマかなちゅう気もしてきたけど、、、ま、ええか。