<酔うのもなかなか難しい>

 私たち日本人を除く招待客が、何故、アルコールを一滴も摂取せずに、これほど簡単に狂騒状態に突入していくことができたのか、その理由をちょっと真面目に考えてみた。

 まず、彼らは「酒に酔う」というお手軽な恍惚を知らない。いわば「酔う」ことに免疫がない。だから、踊る、となったらもうとたんに興奮して舞い上がってしまう。

 次に、花見ドジョウすくい的、盆踊り・阿波踊り的、非宗教的、集団無礼講お祭り騒ぎ阿鼻叫喚イベントが、町内会にない。肌を露にして、異性の熱い視線を浴びることで自己陶酔に陥る、なんて死んでもありえない。

 そこに加えて宗教的マイノリティーとしての抑圧された日常がある。ムスリムになることを強制されるという意味ではない。又、ムスリムでなければ、厳格な戒律に従う必要もない。しかし、イスラームを国教とするムスリム人口97%の国で、非ムスリムがどれだけ自由に生きることができるだろう?

 非ムスリムは飲酒が自由である。しかし酒屋も自販機もいない。非ムスリムは服装が自由である。しかしミニスカートもキャミソールもパンストも売っていない。非ムスリムは豚肉を食べてもいい。しかし肉屋に豚肉は並んでいない。非ムスリムは恋愛も結婚も自由である。しかし周りにはムスリムしかいない。非ムスリムはポルノもアダルトビデオもオッケーである。しかしそんなもん手にはいるわけがない。非ムスリムは礼拝に行かなくてもいい。しかし夜明け前から礼拝開始の呼び声でたたき起こされる。

 しかし、こういうことは社会の慣習だから、生まれてからずっとこういう環境の中で暮らしていれば、自国の文化として自然に受けいれていけるかもしれない。ただ、しきたりや規範は、まず家庭の中で基礎がかためられ、そのあと外の世界で完成されるものだから、「コーラン」に基ずく生活習慣を是としない異教徒の共同体で育ったあと社会に出ると、そうしたしきたりをすんなり受け入れることは、やっぱり難しいはずだ。

 今の日本のガキどもがいい例だ。家庭の中で日本社会のしきたりを強制されずに大きくなったガキどもには、社会の中の約束事など不自由な手かせ、足かせにすぎない。そんなもの無視して好き勝手に生きてやる!で通ってしまうから、これまた情けない。約束事を守ってる側に確固たる信念がないからだ。そういうガキは野放しにされ、野放しにされるとあっという間に繁殖し、繁殖するとマジョリティを形成する。全く手に負えない。困ったものだ。どうにかしなくては。

 日本のガキは、その内どうにかするとして、非ムスリムの話だ。目に見えぬ、もの言わぬ圧力として社会全体を覆っている、もわ〜っとしたイスラームの空気の中で、身になじまないしきたりや習慣にもおおっぴらに背くことなく、仲間内だけの小さな共同体を作ってひっそりと生きる、これがパキスタン国籍の非ムスリムとしての唯一の選択肢であろう。とすれば、ムスリムの世界から遮断された、身内だけの、こうしたパーティは、とてつもない解放の瞬間だ。うじうじしている時間はない。一気に全面解放だ。

 と、いうようなことを、その時は少しも考えなかった。5秒ほどためらった後、私たちもすぐに興奮のるつぼの中にすっぽりと飲み込まれ、エヘラエヘラと踊り狂っていたのだった。ああ、こりゃこりゃと。

 バンドマンも呆れるほどタフだ。休むことなく演奏を続けている。フロアの方も忙しい。子供たちだけのダンスタイムあり、男女のチークタイムあり、男どうしのランバダ風エッチダンスあり、輪になって踊るマイムマイム風フォークダンスあり。このマイムマイム風フォークダンスの時に、ちょっとしたアクシデントがあった。みんなで両手をつないで大きな円を作り、わ〜っと真ん中に集まり、わーっと広がる、パキスタン風「タンス長持ち」なのだが、なんせみんな完全にきている。わ〜っと集まった時に、誰がが4歳ぐらいの女の子の頭をけり倒してしまい、わ〜っと広がった時に、今度は、誰かが転んだその女の子を踏んづけてしまった。踏んだりけったりとはこのことだ。冗談を言ってる場合ではない。女の子は火がついたように泣き叫び、演奏は止まり、ダンスが中断され、大人達は女の子のもとにかけより、様子を尋ね、心配そうに見守っている。

 と、いうことにならないのが、パキスタンだ。女の子はヒーヒー泣いていたが、誰も気にとめない。女の子のお母さんも、「うちの娘をけり倒した奴は、どこのどいつじゃ〜!」と、怒鳴りちらすわけでもなく、落ちついた表情で娘の頭をナデナデしている。フロアでは「タンス長持ち」が続行されている。

 こうやって子供は社会の厳しさを学んでゆくのだ。