<ダンスはうまく踊れない>

 全員が満腹になったところで「お開き」、なわけはない。

「ズガガ〜ン、ドコドコドコド〜ン、キュウイ〜ン。」

 ついにバンドが本気をだした。ボーカルがパーティーを仕切るようだ。やれやれ、司会者のいない野放し宴会も、これでようやく秩序が生まれるというものだ。

 演奏が始まると同時に、待ちかねた招待客はいっせいに席を立ち、ワサワサ、ドヤドヤ中央のフロアに集まって来る。とっくに宴会場に戻ってきていた新郎・新婦も担ぎだされている。ボーカルが何かを合図すると、日本人以外はすぐに了解し、この二人を先頭に招待客が一人ずつ後ろへ後ろへと一列に連なってゆく。私たちも、わけが分からないまま、行列に参加する。音楽に合わせて踊りながら、列をなしてフロアを練り歩くのだ。

 昔、確か坂本九の歌だったと思うが「レッツ、キッス、頬寄せて」と歌いながら、前の人の肩につかまって歩く「ジェンカ」というのが流行ったことがある。それと似ている。大阪万博の頃だ。おっと、いけない、そんな時代のことはよく覚えていない。

 オープニングパレードが終わり、席に戻って一休みしていると、音楽に合わせて腰をくねくねさせながら、濃い〜男が一人近寄って来る。

「カモン、カモン。ダンスタイムはこれからだぜ。今夜は最高、イエーイ!」

 何者なんだ?オープニングで早くもボルテージが頂点に達してしまい、もはや手のつけらない状態だ。

 ステージではアップテンポの曲が次から次へと休む間もなく演奏され、フロアでは、手をつなぐは、足を振り上げるは、お尻を突き出すは、頬をすり寄せるは、腕を組むは、足をからめるは、宙返りするは、うさぎ飛びするは、ラジオ体操始めるは、みんな思い思いに筋肉の可動範囲の限界に挑戦している。何の決まりもない。ダンスの原点だ。

 私たちはというと、いきなりのこのハイテンションについていけず、フロアの隅で小さくなっていた。周りが盛り上がっている時に、しらけて、隅でうじうじしている日本人。ああ、なんて、不様な。ここで、一発軽やかに踊って見せなくては。しかし、頭は醒めきっている。踊る阿呆になるには、気分が高揚して頭が阿呆と化さないとだめだ。4時間ボサーッと待ったあと、黙々と料理食っただけなのに、どうやってすぐに気分を盛り上げろというんだ。急に踊れったって、そんな、簡単にできるもんか。私たちの日常生活にはタンスはあってもダンスはないんだ!

 日本にも、毎年4月になると、桜の木の下で、酔っぱらった会社員が背広姿に手拭いでほっかむりをして、どじょうすくいを踊る、という伝統文化がある。考えてみると「花見」というのは奇妙な習慣だ。「そこに桜の木がある」というだけで、何をしても許されてしまう。これがイチョウや、かえでや、キンモクセイの木だと具合が悪い。松や杉など地味な木はもっといけない。柳の木の下なんかだと、みんな逃げ出してしまう。

 花見の話ではない。酔った勢いで踊るのなら、別に珍しいことではない、と言う話だ。しかし、ディスコ・ダンスや盆踊りや阿波踊りは、ドジョウすくいとはちょっと違う。酒に酔って踊る人たちもいるが、素面で踊っているうちに、踊りに酔うということがある。 これには、まず、集団で踊ることが絶対必要条件だ。集団で同じことをする、これはかなり効く。そうかといって、集団で石を積む作業は、どうも恍惚状態にはなりにくい。あまり重労働であってはいけないのだ。大勢の観衆の眼も効果的だ。だから、やぐら太鼓の回りに10人ほどしか集まっていない盆踊りや、沿道に観衆のいない阿波踊りや、欲情した男たちのぎらぎらした視線のない「お立ち台」は、恍惚状態とは無縁だ。

 集団で踊ることがアルコールと同じ作用を引き起こす、とはいえ、このパーティーの出席者たちの場合、いきなりだ。これが不思議でならない。ひょっとしたら、最初は醒めているけど、のってるフリして踊ってるうちに、本格的な酩酊状態に入っていくのかもしれない。どうだか分からないが、たとえフリでも、なかなかあんな風にのれるものではない。