4/25

***************************************

♂♂♂の世界の世界で、みんなが「酒を呑んだら七面鳥は赤くなるか」で論争し、あっという間に、飛行機が着陸したかと思うと、白服に出迎えられ、乗り込んだ車がカーチェースし、ホテルに到着するや出てきたコーラの数が多すぎて、義兄が「パキはきくで〜〜〜」と述べた次第

**************************************

 ほとんど徹夜の状態で大坂―バンコック間を飛び、気温39度の炎天下バンコックの街を歩きまわることで、トランジットの空き時間をつぶした後、カラーチーに飛ぶPIAの飛行機に乗り込んで、私たちは最後の力を使い果たした。乗客はパキスタン人の男達ばかりで、Cちゃんと一緒だった私たちは、むさ苦しい視線をうんざりするほど浴び、ようやく、飛行機が飛び立ったと思ったら、乗務員までもが全員男だった。♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂♂。男オンリーの世界は、馴れない者には、それだけで、丸三日の徹夜にも匹敵するほどの疲れをもたらす。この世界では乾き切ってウルメイワシ寸前のばあさんでさえも潤いを与えてしまいそうだ。私はあまりの疲れに卒倒するようにして眠り込んでしまった。で、気が付くと、誰かが怒鳴っている。目を開けてみると、酒に酔ったパキスタン人がスチュワートにからんでいた。ステュワートは謝るばかりで、おっさんは言いたい放題だ。が、そのうち、その二人を取り囲む人々までが騒ぎ始めた。誰かが「お前、酒に酔って、人にからむんは、ようないぞ。だいたい、イスラム教徒の俺らは飲んだらあかねんぞ」というと、言われた本人ではなく、別のやつが「何偉そうに言うてんねん。お前かて顔が赤いやんけ」そうすると言い返されたやつとは違う男がやおら立ち上がって、「あほ、顔が赤かったら酒飲んだちゅう証拠になるんか。ほなら日光の猿はみな酒飲んどるんか。七面鳥はどないやねん」すると、騒動の張本人が「誰も七面鳥の話なんかしてへんわい」それに対して別のやつが、「お前、馬鹿にすんのんか。こらあほ。こいつは酒飲んだら七面鳥でも赤なるんかって聞いとんのや。なあ」「お前あほか、誰がそんなこと言うてんねん」「こら、誰があほや」で、スチュワートが「まあまあ、七面鳥の話はこっちに置いといて」そうしたらまた別のやつが、「お前がそもそもからまれとるんやろ。何落ち着き腐ってんのや」

もう機内は乱闘寸前である。そこにベルト着用のライトが点いた。皆席に就く。えらく素直だと思った途端、飛行機がガクンと滑走路に着地した。ライトから点灯してからものの1分ほど。ベルが鳴って発車しますと言ってから、二分も三分も扉を開けたままにしている、大阪環状線とはえらい違いだ。きっと、パキスタンの環状線は「しま、、、」と言ったとたんに扉を閉めるのだろうと思った。

機外に出る時、辺りはすでに暗くなっていたが、暑気は収まる風もなく、機体と到着ゲートを結ぶトンネルのような通路はむしむしとしていた。

ゲートにたどり着いて驚いたのは、そこにすでに出迎えの人だかりがあったことだ。税関を超える前だと言うのに、ポーターと思しき白服の男たちが、めいめい客の名前を書いたカードをもってうろうろしている。この国には税関がない。少なくとも近代的な意味での税関は存在しない。私たち三人を出迎えた白服の男たちは、パスポートを預かると、ノーチェックでパスポートコントロールをすり抜けさせてくれた。出迎えのなかった旅行者たちがねちねちと取り調べられているのを尻目に、荷物を探しに行く。見つかったら指し示すだけだ。後は白服の男たちが全部やってくれる。ほとんど手ぶらで空港を出た。出て、そして仰天した。一目でイスラム教徒と分かる白装束に身を包んだ男たちが、空港の入り口を取り囲んでいたのだ。別に物乞いたちというわけではない。おそらくは親族や友人を出迎える一般の人々だろう。だが、ほとんど同じ様式、同じ色の衣服に身を包んだ男ばかり数百人の集団に取り囲まれた空港の玄関口は、それだけで異常事態だ。義兄、それに我々と同じ飛行機のファーストクラスで到着したRさん、前日に到着したKの三人と合流すると、私たちはともかく出迎えの車に乗り込んだ。 東南アジアに何度も旅行したことのあるHチンや旅慣れたRさんは別にして、ヨーロッパしか旅行したことのない私とCちゃんは空港の雰囲気に圧倒されていた。車に乗り込む私たちは、サファリに裸で放り出された人が格子付きのバスに大慌てで乗り込むような面持ちをしていたに違いない。

車が走り出して、ほっとしたのも束の間、今度は運転の荒さに目を瞠った。とにかく無茶苦茶なスピードで、絶え間なしにクラクションを鳴らし、空港と都心部を結ぶ道路を疾走していく。だが、決して粗い運転ではない。速度が極端なだけで、ゆれは大阪のタクシーよりもよほど少ない。それ自体かなりのスピードを出しているはずのバスや乗用車を苦もなく追い抜いて行く。その私たちの車を更に別の車が追いぬく。まるでカーチェースだ。だが、車が都心部に入り込み、逗留先のホテルに近づくにつれ、路上は無政府状態になってきた。真正面から対向車がやってくる。が、隣の車線にも対向車がいる。もちろん、車は前に進めない。そしてその車の間を擦り抜けるようにして歩行者たちが道路を横断していく。クラクションが鳴り続ける。交差点ではさらなる混乱。信号などないか、ないも同然で、とにかく隙間があれば、中年の主婦が列車の席に突進するようにして、ぐいぐいと隙間を広げ、ついには交差点の向こう側にたどり着くという具合で、要は、交差点上で二つの車の流れが、そのまま交わっており、偶然と勘だけで、右から左、左から右へと流れる車の奔流を塞き止め、突き進まなければならないのだ。とはいえ、それは素人目に見た印象に過ぎなかったのだろう。あの一見、混乱と無秩序が支配すると見えた往来にも、何らかの法則と論理が働いていたに違いない。なぜなら、私たちの車はちゃんと逗留先のホテルの玄関口に滑り込むことができたからだ。ただ、この僥倖とも思える到着が、いかなる法則と論理によってもたらされたかを、パキスタン滞在の最後の日に至っても、知ることができなかった。

車を降りると、そこはまたしても別世界だった。へそを出した若い女性たちが次々と車に乗り込んでいく。何でイスラム世界にこんなのがいるんや、などとと思いながら、玄関を通り抜けると、白目をむきそうになった。ロビーにみっしりと人間が詰まっていた。高い天井からは人の話し声がわんわんと響いてくる。先の空港のときとは大違いで、男女が入り交じっているばかりか、服装も様々で一様に煌びやかだ。空港の光景とあまりのギャップに何やら、わけがわからなくなって、キエーッと叫びそうになったが、叫んだとしてもきっと誰も気づかなかっただろう。ロビー全体が異様な狂騒状態に包まれていた。

チェックインの書類を書くために、ようやくソファに腰掛けると、ホテルの支配人が挨拶にやってきた。やけに丁寧で、花束まで持ってくる。テーブルには飲み物が置かれた。五人しかいないのに、コークを満たした十個近くのコップを置いていく。何か意味があるのかと思ったら、別になんでもなかったようだ。単に、足りなかったら文句を言われると思っただけらしい。義兄が「万事これやで」と言った。昨晩ちゃんと確認したはずなのに、今朝再確認したら空室がないと言われ、怒鳴りまくったらしい。で、もう怒鳴られないようにするために、日本人なら客の人数くらいきちんと確認するところを、パキスタン人は、確認なしに、なおかつ、怒られないようにするために、絶対大丈夫というだけの数のコーラを持ってくる。「どや、こんだけあったら、文句ないやろ」というところだ。肝心の、予約チェック体制の改善などは絶対に行わないから、今度予約しても、きっと同じことが起こるだろう。彼らは、自分が間違えるとは思ってもみないか、間違っても大したことではないと思っているのだ。

私たちが宿泊したのはカラーチーで最高級の部類に属するパール・コンチネンタルというホテルで、向かいはこれも最高級のシェラトンだ(Rさんだけがこっちに宿泊)。一泊で、パキスタン人の生涯賃金を上回る宿泊料をとられる、かどうかは知らないが、ともかくパキスタンの物価から考えれば莫大な金を要するのが、この二つのホテルだ。どれくらい莫大な金額かというと、ダブルで一泊すると、6840ルピー、日本円で二万円以上もとられる。これだけの金があれば、パキスタンでは牛なら三、四頭、羊なら七、八頭、人間なら四、五十人は買える。だから、一般庶民は家族を売り払っても絶対に宿泊できない。玄関口で見かけたへそ出しルックの女性はどうやらインドの大金持ちらしい。

その夜はRさんも招いて義兄の部屋で酒盛りをした。イスラム教は飲酒を禁じているから、パキスタンでは酒を入手するのにやたら手間がかかる。仕方がないから、日本から持ってきた。ところで、日本で焼酎の紙パックを探すときには相当苦労した。何を考えているのか、焼酎には大抵、英語の説明やのみ方を示す写真がついていて、酒だということが丸分かりなのだ。もし、荷物を開けられたらジュースだといってごまかすつもりだったので、選択には細心の注意を払わねばならなかった。だが、そんな苦心など何の意味もない。何がしかの金で白服を雇えば、税関はフリーパスだった。うるさくて鼓膜が破れるほど金がものを言う国、それがパキスタンだ。

 乾杯が終わると、義兄は開口一番、「気い付けや。パキは利くで〜。日本の感覚でおったら、えっらい目に遭うで」と言った。

 「だいだい、日本やったら考えらへんような、うっとしい奴が沢山おるねん。弱気なんか見せたら絶対あかんで。難癖付けて来よったら、お前より俺の方が偉あて金もっちなんや、ちゅう態度で押し通さなあかん。それくらい、やったらんとあいつら分からへんな。かなわへんっちゅうことを示されたがってるんや、パキ人は。」

 Rさんがそれを受けて言った。

 「本当にそうなんだ。俺もさ、某国でバンドメンとレコーディングの交渉したんだけ、そいつらと会う時には、最高級の背広着て、葉巻くわえて、両脇に女侍らさないとだめなんだ。私はあなたの音楽を愛してます、なんて言っても通じないんだよ。俺は偉いんだ、別にお前たちでなくっても良いんだ、代わりなんて幾らでもいるよ、って態度で示さなくっちゃ、ついて来ないんだよ。」

 「基本的に、信頼関係なんかないから、力関係が全てなんや。力を示さんことには、ここの人間も動かへん。」

 「それって、僕たちの業界でも同じなんです。俺は偉いんだ、知らないことなんかないんだ、尊敬しろ、ってやらないと、最近の学生は付いて来ないですよ。」

 「えっ。じゃあ、日本の若者たちもそうなってきているわけ?」

 「もちろん、全く同じじゃないですよ。なあなあじゃやって行けないっていうところはグローバルスタンダードに従いつつあるんですけど。考え方は無茶苦茶甘いわけですよ。パキとか他の国だったら、甘い考えなんて、はびこる余地がないでしょ。

 「徹底的な上下関係があって、基本的に信頼関係なんかゼロやからな。」

 「何時も、最悪の場合っていうのを考えないと駄目だね。」

 Cちゃんが、私の言葉を継いで言った。

 「ところが、日本の学生たちは、そういう最悪の場合なんて念頭にないんですよ。もともと日本にあった暗黙の了解みたいなのは、全然通じなくなっているのに、何があっても、誰かが何とかしてくれるだろうとか、そうそう無茶苦茶なことにはならないだろうなんて考えているんですよ。」

 「俺なんか、何時も最悪のことばっかり考えるよ。うちの息子なんかさ、宅急便でーすって来ても、バットもって玄関に行くよ。」

 「僕も同じや。今日白服に迎えに行かせたけど。みんな信じひんのちゃうか思たで。僕やったら絶対信じひんからな。」

 「僕もパスポートを渡せって言われた時は、ちょっと躊躇いましたね。けど、最悪の場合でも、税関通られへんで日本に送還されるだけでしょう。まあ、命に別状内から良いかって。」

 「そやから、それがうっとしいんやて、パキは。送還に至るまでに、どんなけ手間かかるか分からへんで。」

 確かにそう言われればそうだ。パキ恐るべし。

 私たちは四時過ぎまで飲み続け、紙パックをあらかた空にすると、眠りに就いた。