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市場で買い物をして物売りと物乞いに取り囲まれた後、大慌てで飛行機に飛び乗って、イスラマバードに到着し、酒を呑みながら色々な話をしたけれど、赤子の物語以外、何も覚えていなかったの次第

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 朝、目覚めると、昼だった。今日はイスラマバードに向けて出発しなければならない。私たちは買い物に行くことにした。Kを誘ってみると、下痢で死んでいた。Rさんに電話をしてみると、暑さでくたばっていた。しかたがないから、生き延びた三人でタクシーを雇って、街中に繰り出す。ショッピングをしたいと言うと、運転手はカーペットの店に私たちを連れて行った。小物や皮ジャンパーなんかも置いている。値札は一切なし。店構えが結構立派で、ちゃんと玄関や窓がついているからきっと高いだろう。何も買わずに店を出て、運転手に町の中心地に連れて行けと言った。すると驚いたことに英語を全く理解しない彼はちゃんと私たちを市場みたいなところに連れて行ってくれた。きっと、よう分からんけど、知り合いのぼったくり店に連れて行ったのがばれて怒ってる、と思ったのだろう。今度は掛け値なしの現地の店だった。それだけに凄まじい。上を下をで大騒ぎのような商店街で私たちは車を降ろされ、その途端に、物乞いの餓鬼どもがわらわらとまつわりついてきた。最初は丁寧に「ノー」と言っていたのだが、どんどんまつわりついてくるので、だんだん恐くなって、「ゴーアウェイ」と二三度大声で怒鳴って追い散らしてしまった。これは、物乞いたちに取り囲まれた経験がなかったせいである。その点経験豊かなHちんは物腰が違った、いかにもやさしいそうな風をして浮浪児どもを引き付け、やおらズボンのポケットから拳を抜いたかと思うと、目にも留まらぬ早さでなにがしかの金をくれてやるのだ。

 さて、雑多な品々がうずたかく積まれた店がひしめく市場のようなところへ入って行くと、そこには欲しくなるようなものが沢山あった。ただし値札はやっぱり一切ない。端から吹っかけるつもりなのだ。私たちは値切って値切って値切り倒した。向こうの値段の下げ方も凄い。幾らだと聞いて「200ルピ」と言うから、帰ろうとすると、いきなり「100ルピでどうだ」と駈け寄ってくる。最初の値段が全く根拠のないものだったことがこの時点でばれてしまう。パキスタン人は商売の駆け引きを知らない。

 私とCちゃんは、本革のミニリュックとシルクのテーブルクロスを買った。Hちんは何やら用途の分からない錫の花瓶を買ったりしていた。そして、車に戻ると、そこにはまたしても物乞いたちがひしめいている。年端の行かない女の子達ばかりで、しきりにおなかをさすり、口に食べ物を入れるふりをし、我々の方に手を出す。お腹が痛くて、何も食べられないから、あなたに食べ物を全部あげる、という風には誤解しようもない。私とCちゃんは無視して車に乗り込んだ。Hちんも助手席に座る。だが、心やさしい彼は少女と目があってしまった途端に、金を差し出していた。もらえなかった少女はすでに走り始めた車の窓にへばりついて離れない。一人にやればこうなるのだ。けれども、娘のいるHちんが、彼女たちを何とかしてやりたいと思う気持ちは痛いほどわかった。Hちんが優しくて、正義感の強い人だということがだんだん理解できてきたのだ。やがて、Hチンは優しさのオーラに包まれるあまり、大人の物売りたちにも付きまとわれることになるが、それは宿命というものだろう。タクシーがスピードをあげ、車道のど真ん中に少女たちは取り残された。彼女たちが、清潔な服を着て、お腹いっぱいにおいしいものを食べられる日は永久に来ない。一生乞食暮らしだ。この国では、貧乏人が成功するのは、ラクダが針に糸を通すほど難しい。

 ホテルに帰ると大急ぎで身支度し、カラーチー空港に向かう。すでに離陸時刻は寸前に迫っていたから、私たちは猛烈にあせっていた。ところが、Kは下痢を通り越して、本格的に疫病にかかりつつあった。一所懸命歩いているのは分かるのだが、足が上がっていない。Cちゃんが荷物をもってやったが、それでも全然前に進まない。そして手荷物の最終チェック。Kの手荷物は突き返されてしまった。なんとKはJALのタグをつけていたのだ。義兄が「これ付けてへんと飛行機に乗れへんで」と大声で言いながら、PIAのタグをまわしたのに、タグなら何でも良いと思い込んで手持ちのやつを付けたらしい。これで飛行機に乗れるかどうかが決まるのに、どんなタグでもいいわけはない、という至極当たり前の判断が、苦しさのあまりできなかったのだろう。結局、係員は大目に見てくれ、私たちは何とか飛行機に駆け込み乗車した。Kは座席に就くなり眠り始める。義兄やRさんが何度もエグゼクティブ・クラスの座席から足を運んできて、抗生物質をのませたりしていた。イスラマバードで医者にかかったKは細菌による下痢と診断された。熱が四十度近くも出ている。この後、Kはしばらく義兄宅で静養生活を送り、熱は下がったが、下痢からは快復できず、予定を大幅に切り上げて日本に帰ってしまった。

 イスラマバードでの宿は、義兄の新居だ。Rさんだけはホテルを予約していたが、夕食は義兄の家で一緒にとった。大量のビールと蒸留酒を確保してあるので、のみ放題だ。Rさんはどんどん杯を仰ぎながら、パキスタン料理を誉めちぎった。やたら辛いのではなく、辛さに深みがある、と英語でJに感動を伝えている。皆も同意見だった。カラーチーでの酒盛りの時よりも、皆が打ち解けていたので、自然話が盛り上がり、楽しい夜となった。だが、一体どんな話をしたのかが、どうしても思い出せない。パキスタンやアフガニスタンの政治的・社会的状況について義兄が話していた事実だけは覚えている。記憶に残っているエピソードは次のようなものである。

 ある地域ではアラブのどこかの国に赤ん坊を輸出している。石油成り金たちはその輸入品をラクダの腹に縛り付けるのだという。何のために? ラクダを早く走らせるためだ。ラクダが走れば大揺れするから、赤ん坊は泣き声を張り上げる。泣き声に驚いたラクダは更に足を速める。赤子は一層大声を出す。ラクダはそれにもっと驚いて、、、という悪夢のような循環が起こる。そうやってラクダを競争させるのだ。もしラクダが転倒すれば赤ん坊はぺしゃんこである。運良くラクダが無事ゴールに辿り着いたとしても、その後赤ん坊が適切な養育を授けられる可能性は皆無だろう。また、同じ地域で、赤ん坊は麻薬密輸のためにも利用される。内臓をすべて抜いて、体内に麻薬を隠し、税関をすり抜ける。葬儀のために愛児の遺体を輸送するという風を装うのだ。

 こんな風に徹底的に道具化された赤子の物語が、場を盛り上げるはずはない。きっと他に愉快な話もしたに違いない。だが、私は上の話しか覚えていないのである。