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超光速の車でペシャワールに向かう途中、インダス河を見て、「まだ流れていたのか」と驚いた後、銃をもったガードマンに守られて、女が珍しい地域を突き抜け、ハイバル峠で人混みにもまれた帰り道に苦難を経験し、帰った後で、「のどかなカラシニコフ」に背筋を冷たくして、Rさんと挨拶をかわすことなく眠り込んだ次第

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 早朝、人の声に一瞬目覚めた。ぼそぼそと話す声、何を言っているのか全然分からない。そして再び眠り込んだ。次に目覚めたとき、外はすっかり明るくなっており、時計を見ると、昨日打ち合わせた起床時間になっていた。Cちゃんは隣でまだ寝息を立てている。私は起き出し、カーテンを勢い良く開けて、ぎょっとした、窓からほんの数メートルのところに軍服姿の男が立っていたからだ。彼はゆっくりと右手をあげて、側頭部のあたりでとめ、敬礼した。そこで初めて、彼がガードマンだと気づき、そして、早朝のささやかな喧騒の意味を理解した。24時間警護の彼らは早朝に勤務交代するのだ。畳一枚分ほどの詰め所を与えられているにも関わらず、彼らは決してその中に入ろうとはしない。私たちが借りている寝室の大窓を出たところにパイプ椅子を置いて座りこむ習慣だ。勤務交代に伴う引継ぎも我々の枕元から数メートルのところでなされたはずだった。

 皆を起こして回る義兄の声が聞こえた。Cちゃんも起き出した。慌ただしく朝食を済ませると、すぐにマイクロバスのような車に乗り込む。今日は、パキスタンとアフガニスタンの国境近くにあるハイバル峠に行くことになっているのだ。途中でRさんを拾い、一路ぺシャワールに向かった。あっという間にイスラマバードの町並みは後方に消え、大きな河に沿うように車が走り始める。これがインダス河だった。中学生の頃、四大文明の発祥の地には必ず大河があって、などという枕詞の後に、ティグリス・ユーフラティス河、黄河、ナイル河とともに覚えさせられた、あのインダス河だ。私は、こんな風に回りくどく考えて、自分が教科書の世界に入ってしまったような気がした。この奇妙な感覚は、その体験のある人間としか、きっと共有できないだろう。とにかく妙なのだ。アレクサンダー大王とかジュリアス・シーザーに突然出会ったような感じだ。きっと、こういった人物に偶然出会ってしまったなら、まず、誰もが「まだ生きていたか」と驚くだろう。ちょうどそんな風に、「まだ、流れていたか」と思った。もちろん、私は馬鹿ではない。四大文明を生んだ他の河川とともに、いまだインダス河が健在であることくらいはちゃんと知っていた。だが、自分の生活から圧倒的にかい離した世界に属していたものが、眼前にぽんと現れた時、そこから生じる違和感を簡潔に表現する言葉は、「まだあったか」、なのだ。

 その感覚はおそらく、そうしたとてつもないものを、自分が目にすることは一生あるまいという、ある種の諦めから生じたものだと思う。短い人生の中で、自分が実際に接することのできるものは限られている。だから、たとえば、死を期限と考えた場合、たとえば、インダス河を見るのは間に合わないだろう、とか、北極点を見るのは間に合わないだろう、と感じる。ちょうど、老人がひ孫を見るのは間に合わないだろう、と感じるように。だから、実際に、インダス河を見てしまうと、本来間に合わないはずのものだから、「まだあったのか」、となってしまう。もちろん、ここには奇妙なねじれがあって、本当は、インダス河を見ている自分はまだ生きていたのか、なのだが、実際の感じ方としてはインダス河が間に合ってくれたように思うのだ。

 やがて、義兄がそわそわし始めた。十時にぺシャワールに着かねばならないのに、車が遅いと言うのだ。正直言って私は驚いた。今まででも、舗装していない道路を走るにしては十分すぎるほどのスピードが出ていたからだ。Jが運転手にウルドゥー語でせっつく。運転手はこともなげにアクセルを踏み込んだ。突如として車外を眺めてるのが苦痛になった。あらゆるものが、残像を残して通り過ぎて行き、景色はすべて幾筋かの線条と化す。フロント・グラスから外を眺めると、視野が狭くなって、しっかり見ることのできる世界はほんのわずかだ。ドップラー効果が生じ、世界が真っ赤に見え始めた。というのはもちろん嘘だが、とてつもないスピードで車が走り出したのは本当だ。道は一車線なのだが、対向車線を利用して前の車をどんどん追い抜いて行く。時には二台三台をゴボウ抜きにする。このドライブを楽しめる人はあまりいないはずだ。どんどん抜かすなあ、などと思っていたら、真っ正面に対向車がわっと現れる。凄いのは、そんな状況でも運転手が追い抜くのをあきらめないことだ。そのままスピードアップして、対向車とぶつかる寸前に元の車線に復する。相手の車は金切り声音を立てて迫った来たかと思うと、次の瞬間唸り声を残して遠ざかって行く。私などはもう少しのところで、これまでの人生が走馬灯のように眼前に現れそうになった。

 おかげで、九時四十五分頃、ぺシャワールに着いた。車はパール・コンチネンタル・ホテルに入り、私たちはとある人物に挨拶した。ぺシャワールからハイバル峠に向かう途上の町々をおさえる有力者だ。この人の協力がなかったら、私たちは峠に行くことができなかっただろう。峠に向かう道はもろに部族地区を突き抜けるのだから。ここからは銃をもった護衛も一人同行する。私はいよいよ凄いところに行くのだなと緊張した。まだ幼さの残る少年のような護衛だが、いざとなれば、カラシニコフが火を噴く。それだけが頼みの綱だ。その私たちの気持ちを見透かしたように、「何かがあったら、真っ先に護衛が逃げるらしいで」とこともなげに義兄が言った。

 車窓から見える景色は一変した。インダス川ももはやなく、視界一面に広がったのは泥で作った家並み、アフガニスタン難民たちの町だ。通りを歩く人々の様子も違う。パキスタンの人々は、一様に白っぽい服(もともとは真っ白なのだろうが、洗濯をあまりしないから、薄い灰色に見える)を着ているが、この町の住人たちは暗色の布に身を包まれている。

 やがてカラシニコフをもった人間が、うじゃうじゃいるようなところにたどり着いた。検問だ。関係者以外立ち入り禁止地区の始まりだ。JとCちゃんは、頭から布をかぶる。厳格なイスラム教徒が多い地域だから、住人たちを刺激しないようにしなければならないのだ。実際、町を歩く数少ない女性たちは皆、頭からすっぽりと大きな布をかぶって歩いていた。目のあたりだけがメッシュになっていて、外を見られるようになっている。もちろん、外側からは顔も見えない。

 車は山岳地帯に入り込み始めた。時折追い抜いて行くバスの乗客たちは、皆私たちの車を覗き込んで行く。JやCちゃん、つまりは女を見るためらしい。義兄は私たちに写真を撮るところを見られるなと言った。特に女性は絶対に撮るな、と言う。とにかく、女を隠しておくべき地域なのだから、写真なんか撮ったらどんなことが起こるか分からない。逆から言えば、顔を隠していないJやCちゃんが、土地の男たちの好奇心の的となったかも当然なのだ。日本の感覚で言えば、スカートを捲り上げて、あるいは乳房をさらけ出して歩いているようなものなのだろう。この土地の人が日本にきたら、谷岡ヤスジの漫画みたいな血柱を鼻から噴出して、あっという間に出血多量で死んでしまうかも知れない。

 窓外の景色は素晴らしかった。ほとんど植物も生えないような荒れ果てた岩と砂ばかりの山だったが、それがいかにも大地の起伏、土の襞を感じさせ、じかに地球を見ているような気分にさせられた。村落ももはやなく。時折、道端にダンボール箱の山が築かれ、そのまわりに人がたむろしているだけだ。箱は明らかに家電製品を入れるものだった。義兄は密輸品だと言った。アフガニスタンから価格の安い物品が大量にパキスタンに流入しているのだ。ときおり、一台の自転車に二三台別の自転車を連結させて坂を下ってくる人にも会うが、この自転車も密輸品だ。銃を構えた兵士たちに守られる検問所などものの役にも立たない。いや、それ以前に国境を守っているはずの軍隊も彼らを見逃している。なにがしかの金でフリーパスになるのだ。私たちがカラーチーの税関を潜り抜けた時のように。

 急勾配の上り坂が終わり、車は村落に入った。地面にへばり付くようにして立ち並ぶ家々はみな泥でできている。時には、車道の遥か下に地下都市のようにして街が繰り広げられている。幅広の溝を掘って、両側の土を掘り抜き、家にしたという感じだ。何を生業としているのか分からない大の男たちが、そこここにうろうろしている。ここの人々は何百年も、いやもしかすると何千年も前から、同じような家に済み、同じような生活を続けてきたのだろう、そういう感じがする。経済成長も技術発展もほとんどない社会、働くことも、遊ぶことも、生活することも、生きることも、すべてが同一平面上にならび、確固たる定義も、概念的上下関係も持ち得ないような社会がそこにあった。もちろん、外の世界に応じて、この村の様子も変化しただろう。電気が通じているようだったし、大きな岩塊に、唐突にペプシのロゴがペンキで書かれてもいた。学校に通う子供たちもいるようだ。だが、何か根本のところが今に至るまで変化しなかったようなのだ。旺盛な生命力とか猛烈な生活臭というようなものが村中を包んでいた。村全体が生きるって大変だけど、とても良いもんなんだ、と言っているみたいだった。幼少時、自分の身の回りもそういったものがあったな、と思うのは私の単なる勘違いだろうか。いずれにせよ、何か懐かしいような気分になったのは事実だ。

 車はあっという間に村を通り過ぎ、ついに私たちはハイバル峠にたどり着いた。そこには大きな観光バスがとまっていた。アフガニスタンとの国境を見渡せる高台が、午前七時頃の大阪環状線京橋駅のように、日本人たちで混み合っている。おっちゃん、おばちゃん、にいちゃん、ねえちゃんが、わいのわいの、うじゃらうじゃらと絡まりあっている。ひとしきりの騒動の後、皆で並んで記念撮影を終えると、昼食は近くの村で食べまーす、などとガイドが大声で指示する。全部本当である。そのうち、一人の女性がやってきて、Rさんと一緒に写真に写りたいと言い始めた。ともかく恐ろしい喧燥と混乱、アフガン国境を見渡そうとしても、見えるのは見慣れた偏平な顔ばかりだ。一体何が起こったんだ? Rさんが先の女性に尋ねたところ、この人々はパキスタンでハンセン氏病患者の治療か何かに尽力している団体だった。貢献を認められて政府から特別許可を得ることができたらしい。つまりは単なる観光客ではなかった。だが、やっていることを見る限り、パリ・ノートルダム寺院の前で見かける団体旅行客と何の変わりもなかった。個人の旅行者なら保ちつづけるような緊張感が全くなく、団体の中に小さな日本、地下鉄でも居眠りできる国の雰囲気が出来上がっているのだ。女性たちは髪も隠してはいなかったし、男たちは周りに気を配る風でもない。ヨーロッパならこうした団体では財布を掏られる者とか、カメラを取られる者が頻出する。果たして、R氏が言った。

 「ああいうのが、機関銃でパラパラパラっと撃たれちゃんだろうな」

 私たちは苦笑いして、ようやく人気の引いた高台からアフガニスタンとの国境を眺めた。本来ならこの峠こそが国境になったはずだが、イギリスがインドの防備を考えて、峠を下ったところに国境線を引いたらしい。アフガニスタンから軍隊が責めてきても、峠に至るまでに随分時間がかかる。その間にインドは迎撃の準備をすれば良いという算段だ。高台の前方に見えるいくつかの岩山にはペンキで大きく数字が書かれている。砦の番号か何かだろう。川には戦車が溯れないよう、コンクリートの突起が林立し、眼下に広がる斜面のあらゆる場所に地雷が埋まっているに違いない。守りは万全だった。ただ、守っているのが、今やインドの敵となったパキスタンだというのが皮肉なところだ。

 ふと気がつくと周りに子供たちがいた。札束を見せて何事か話し掛けてくる。アフガンの札を買ってくれと言っているのだった。Rさんが買いたそうにしていたので、義兄が値切り始めた。向こうが「200」というと、こっちは「50」と言う。そんなんじゃ売れないよ、というような顔をして「180」、「170」などと交渉にかかる。これを10歳あまりの子供たちがするのである。結局、彼らはアフガンの屑銭数枚を100ルピで売ることに成功した。すごい商才だ。金を受け取った子供は取り返されないようものすごいスピードで駆け去る。だが、やはり、子供は子供だ。100ルピという大枚に目が眩んだのか、残りの札(Rさんに売ったのより三倍くらいの枚数があった)を100ルピでどうだと他の子供たちが言い始めた。価格の急落である。私はよろこんでその札束を買い取った。私としてはRさんと同じ枚数でも100ルピを払っただろう。目先の金に目が眩んで子供たちは商機を逸したわけである。もちろん、同じことを日本人の子供にできるわけがないから、彼らがたくましいのは事実だ。それに、どう転んでも、子供たちは大もうけしたのだ。アフガニスタンの札など無価値なのだから。

 ぺシャワールに戻ってパール・コンチネンタルで昼食をとったのは二時頃だった。パキスタン料理のバイキングだ。ハンバーグが抜群に美味しかった。そしてデザート。私は普段から甘いものが好きだが、気候のせいか、今や食べ盛りの女子中学生のようだ。五、六種類あるデザートを全部食べた後、特に気に入ったココナッツのムースをもう一回食べた。「普段食べさせてへんみたいや」とCちゃんが笑う。とにかく、パキスタンに来て以来、私の胃腸は絶好調で普段の二、三倍の量を食べている。だから、大便の量が凄かった。カラーチーのパール・コンチネンタルのトイレを詰まらせてしまったくらいだ。

食後、Rさんは腹具合がおかしいからと、Jとともに車に残ったが、後の四人はぺシャワールの街でショッピングをすることにした。大通りで車から降り、細い横道にそれると、上り坂が始まる。それをぶらぶら上りながら、周囲を見回すと間口一間ほどの店がびっしりと建ち並んでいた。建物はせいぜい三階建てて、それほど背丈はないのだが、道幅が一メートルあまりなので、あたりは薄暗い。時に店が途切れて、一メートルにも満たない路地が現れ、その隙間からはいくつかの窓や、扉が見える。まるで迷路のような街だ。ふと気づくと、背後でHちんが若者に英語で話しかけられていた。また、物売りだろう。やがて、道が分からなくなったので、義兄がこの若者にジュエル・ストリートはどこだと尋ねた。で、なんとなくこの若者が私たちのガイドといった風になった。件のストリートは幅一メートルしかない道に、さらに排水を流すための溝が掘られているというありさま。もちろん、舗装などされていない。

 Cちゃんがアクセサリー屋の前に立ち止まった。青い石をはめ込んだ指輪やネックレスを見ている。やがて義兄が値切り始めた。先の若者が通訳を買って出て、店の男と直接交渉する。私は、店の向かいの細い路地を覗き込んだ。狭い道の向こうには、割合広い空間が設けられていて、そこから奥の建物に出入りできるようだ。上の方を見上げると窓から洗濯物が垂れ下がっている。外界とたった60センチほどの通路でつながった家の住人たちの生活はいかなるものなのだろうか。やがて、その建物の扉が開いて一人の老人が出てきた。路地に面した壁にしつらえられた蛇口から水を出し、それを飲んでいる。建物の中には水道もないのだろうか。老人の手のひらから零れた水は、申し訳程度に掘られた幅10センチほどの浅い溝を伝って、私たちのいる通りの、幅20センチほどの溝に流れ込む。老人の側にいた犬が邪魔くさそうに立ち上がる。腹のあたりが濡れたのだろう。その時だった、私は突然の腹痛を感じたのだった。村上龍の言う通りだ「最悪なことは自分が関知できないところで進行していてそれがある時突然に姿を現す。そしてそうやって現実になったときにはほとんどのことはもう手遅れなのだ」。義兄とCちゃんはまだ店の人間と交渉している。間に立った若者は何とか商談をまとめようと、店の男を説き伏せている。腹の中のものがグルグルと動き始めた。

 結局何も買わずにその場を立ち去ろうとする義兄に、私はトイレはないかと尋ねた。むろん、義兄も知るはずがない。先の若者に尋ねてみると、俺に付いて来いと言う。知らない人間に付いて行くのは、少し心配だったが、事態は急を要していた。私はその場に義兄たちを残して、若者について行く。彼は私の苦境をあまり理解していないらしく、途中で友達に会うたびに長々と挨拶する。私は額に脂汗を流しながら待たねばならなかった。だが、だんだんと悠長なことは言ってられなくなってくる。若者はのんびりと何かを尋ねてきたが、私は一言「Hurry up!」。それでも若者はいたって上機嫌にゆっくりと街を下って行き、何度も俺に話しかける。

「だからさ、僕が聞いているのは日本が×××で、×××が×××なんだけど、君はどう思う?」

「Hurry up」

「けれども、×××が×××したら×××で×××だろ。で、お前はどうなんだ?」

「ハリ・アップ」

「××××は××××××××か?」

腹痛で何も聞き取れなくなってきた。とにかく「ハリ・アプ」。

「×××××××××××××××××××××××××××?」

「うーーーーーーーー。ハラップ」

「おお、お前はそんなに急いでいたのか。ところで行きたいのは小便か?」

自分の身に関わることになると急に聞き取れる。

「ノー」

それ以上は何も言葉が思い浮かばなかった。

「そうか、小便だけなら、もっと簡単に見つかるんだが、×××なら×××ないと。×××が×××で×××に×××けど」

関係ない話になったらしい。まだ、何か尋ねてくる。

「××××××××××か?」

「ハラップ」

「×××」

「ハラプ」

「×」

「ハラッ」

 ようやく、街の大通りに出て来た。若者は手近の人間に何かを尋ねた後、ほんの僅かの距離のところを指さして、あそこだと言った。公衆便所だ。大慌てで個室に駆け込む。安堵と筋肉の弛緩。もちろん、下痢だった。

 目先の問題が解決すると、私はいくつかの困難に直面していることに気づいた。まず、水を流すためのレバーがどこにもない。一しきり考えた後、背後を見た。水道の蛇口といかにも汚いプラスチックの水差しがある。これで流せということだろう。水差しに触れるとぬるぬるしていた。私は怖気を奮いながら、何とか水を流した。で、次の問題は帰り道が分からないということだった。何処の路地から大通りに出てきたのを私は思い出せなかった。もちろん、若者は外で待ってくれているだろうが、この後即座にもとの場所に連れ帰ってくれるとは限らない。何かを売りつけようとするかも知れない。そうした場合、帰り道が分からないのははなはだ不利だ。だが、これ以上考えても仕方なかった。帰り道が分からないのはもうどうしようもないからだ。観念して個室を出る。すると先の若者がトイレの番人に金を払っていた。そして、私をちゃんと元の場所にまっすぐ連れ帰ってくれたのだった。

 結局この若者は悪いやつではなかった。私たち相手に何かの商売をしようと思っていたのは間違いないだろう。お前は絵(写真)に興味があるか、良いやつがあるんだけど、みたいなことはしきりに言っていたし、皆と合流した後には義兄にも同じことを言っていた。けれども、車を待たせてあるから、もう待ち合わせの場所に行かなくてはならないと言うと、あっさりあきらめた。

 車は一路イスラマバードに向けて走り始めた。ここ数日寝不足の毎日だったため、皆がぐったり疲れて眠り込んでしまった。だが、突如車がS字型のカーブを切って、私たちの朦朧とした意識を一気に覚醒させた。運転手は相変わらず猛スピードで先行車を追い抜いていた。陽光は赤みを帯び始め、車内をほどよく暖めている。私の意識は再びとろけ始めた。そこへまたしてもSカーブ。目を閉ざしていた私には、車が左方向に跳び退いたような気がした。起きていたらしいCちゃんと義兄が声をあげる。

「今のはもうあかんと思たで。」

 おちおち寝ていられなくなった。で、起きていると車内ののんびりとした温もりと裏腹に、腹部は冷気に包まれ、急激に緊迫しはじめた。どこかにトイレはないかと尋ねる。Jが運転手に伝えた。しばらくして、車はドライブインのようなところに乗りいれた。私が車を降りるとRさんも降りてきた。どうやらRさんもせっぱ詰まっていたらしい。大慌てで何ルピーかを店員に握らせて、トイレはどこだと大声で叫んだのはRさんの方だ。店員が店の奥の方を指差す。で、私とRさんは隣り合った個室に飛び込んだ。トイレを出てからRさんが言った。「いやあ助かったよ。僕も行きたかったんだけど、こういうのって言いにくいでしょ。」建物の外に出るともう夕暮れだった。広大な平原とそこを真っ直ぐ走る道、真っ赤に染まった空を背景に草をはむ馬たち、どれ一つをとっても別世界のものだった。

 イスラマバードに戻るともう七時をまわっていた。義兄の家を守る護衛が軒先で夕食を作っている。「何遍止めろ言うてもあかんねん。どもならん」と義兄が言った。確かに軍服姿の男が、電熱器とコッヘルを使って、立て膝で慌ただしく食事を作る姿が、軒先にあるというのは奇妙でなんとなくお茶目だった。私たちは声をたてて笑った。

 夕食に中華鍋の出前を頼むと鶏肉や野菜が山盛りになった大皿が三枚もきた。十五人前くらいある。「なんでこんなに頼んだん」とCちゃんが言うと、義兄は「これで四人前やで」と言った。六人では一皿あまりしか食べられなかった。

 後は何時ものように、酒を飲んでの歓談。ぺシャワールやハイバル峠を見たこともあって、皆が興奮していた。とりわけ良く話したのはRさんだ。今日の運転の凄さを何度も強調し、身振りで追い越しの様子を見事に再現した後、パキスタンの運転手をレーサーにしたら、あっというまに優勝するのではないか、と言った。

 「人間のスピード感覚というのは幼少年期に決まってしまう。だから、成人してからいくら頑張っても駄目。この国の人なんか、小さい頃から鍛えられているから、凄いよ、きっと。」

 実際、梅田や難波のあたりを時速4、50キロで走っただけで、後部座席の客が荷物のように転がってしまう運転しかできない、日本のタクシー・ドライバーとは桁違いの技術だった。

 そのうち話題が、ハイバル峠に入る前の検問所のことに移った。

 「ガードを連れて行ったなんて言ったらさ、緊張でばりばりに張り詰めたようなところに行ったように思われるんだけど、実際には違うんだよね。みんなカラシニコフもって、くつろいでるんだからさ。だけど、こういうところが恐いよ。あの雰囲気からいきなり銃撃戦になったりするんでしょ。みんな銃に慣れてて、クワをもつような感覚なんだ。単なる道具なんだよ。そのことが恐いよ。いきなりパラパラパラパラって撃っちゃったりするわけでしょ。結局、異常事態てさ、どんどん緊張が高まってドカンと来るんじゃなくてさ、ああいうふうにくつろいでいるところにポンっと起こっちゃうんだ。」

 こんな風にして話はどんどん盛り上がって行ったが、私は突如睡魔に襲われて席を立った。うとうとしかけた頃にRさんを見送る皆の声が聞こえた。考えてみると、明日からRさんは別行動なので、これが一緒に過ごす最後の晩だ。そんなことを考えているうちに意識を失った。