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砂漠の中をジープで走り、シガルの街で「世界の当たり前の姿」って何だろうと考えつつ、村の子供たちから「ワンペンコール」を受けて、やっぱり豊かな品揃えが大事だと自己確認した後、サトパラ湖の鱒に舌鼓を打ちつつホテルに帰って、Jと数字の練習をした次第

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 早朝、ボーイが扉をノックする音で目覚めた。前日起こしてくれるように頼んであったのだろう。身支度を整えて外に出ると、曇天で肌寒かった。Hちんは私たちが起こすまで寝ていたし、Jは朝食よりも睡眠を優先させた。みんなくたびれている。私はまだ腹具合が不安だった。昨夜義兄は結婚指輪を失くしたらしい。Jは大いに不機嫌だったそうだ。当然だろう。実は義兄はカラーチーのパール・コンチネンタルにも結婚指輪を置き忘れたのだ。私たちより遅い時間にイスラマバードに到着したPが指輪を預かってきてくれたお陰で大事には至らなかった。今回はそんな助け神は現れない。昨晩随分長い時間探したそうだが、結局見つからなかった。何となく気乗りのしない一日の始まり。

 けれども、ジープに乗って走り出すと、誰もが元気になった。岩だらけの砂漠を整地しただけの道は結構ジープを揺れさせたが、見慣れない景色は私たちを興奮させ疲れも不調も忘れさせてくれた。ほどなく、スカルドゥの街に到着する。ゴチャゴチャした商店街を好まないJを残して、私たちはショッピングをすることにした。この近辺の人たちが身に付けている毛織物のベストと帽子が欲しい。何軒かの店を冷やかした後、私たちは、目当てのものを見つけた。刺繍の入った帽子をつかんで幾らだと尋ねると70ルピと言う。200円そこそこではないか! 刺繍の入ったベストは300ルピ。千円あまりだ。全部毛織物なのに! 私たちは気に入ったやつを片っ端から買うことにした。で、値段の交渉。店主は最初なかなか値段を下げようとしない。けれども、千ルピ札を三枚手渡して、「これで十分だろう」と言うと、3000ルピは親父の提示した値段よりもかなり額が少なかったにも拘わらず、何も言わなくなった。ただ、札束を見つめてぶるぶる震えていた。おそらく、そんな大金は初めて見たに違いない。親父が口から泡を吹いているのを良いことに、私たちは店を出た。

 スカルドゥを後にすると、しばらくは草木が生え、小川がせせらぐ美しい田舎町が続いた。すぐ側には何千メートル級の高山が聳え立っている。ここに住む人たちは、きっとそれが世界の当たり前の姿だと思っているのだろう。私たちが超高層ビルの林立する町並みを普通の景色だと感じるように。どちらの方が豊かな暮らしだろうか? 少なくとも私には、その問いに答えを出すことはできなかった。自然に囲まれて暮らすほうが豊かだと言える人は、大抵の場合、自然を知らない。草木や小川だけを自然だと考える。けれども、このオアシスのような地域をほんの少し離れただけで、後は岩と砂ばかりの砂漠がえんえん続くのだ。私には、そうした自然の厳しさに絶え得るような精神力も体力もないと思った。月か火星にでも迷い込んだかと思うような景色の中を、車がなければ、二日も三日もかけて、隣町に移動しなければならない。その時の自分の姿を想像してみれば良い。

 シガルに到着して、その思いは一層強くなった。舗装もされていない道の両側には石を積んで泥を塗った家が建ち並ぶ。一週間とか二週間という風に期日を決めてならば、住むことのできる日本人もいるだろう。だが、一生となると? もちろん、私はシガルを遅れた町として馬鹿にしているのではない。砂漠の中のオアシスのようなこの町は、木々にも河にも恵まれ、人々は一様におっとりとして、せかせかしたところが全くなかった。子供たちも純真で、少なくとも日本のような形でナイフ殺人が起こることは絶対にないだろう。

 シガルの子供たちは本当にかわいい。彼らは外国人に興味津々で、知らん振りをしていると、少しずつ距離を狭め私たちに近づいてくる。ところが、こちらが近づいて行くと、パニックになって逃げ出すのだ。ようやく慣れて、側に寄ってくるようになったかと思うと、妙にはにかんだりする。そして突如として「ワンペン」のコールが始まった。最初は何のことか分からなかったが、ボールペンをくれということなのだ。身長が120センチくらいしかない、しわくちゃの爺さんが、上着にさしたボールペンをこ自慢げに指さしている。この村ではボールペンがステータスシンボルなのだ。別の爺さんは何が気に入ったのか、しきりにうんうん肯いて、にこにこと私たちを見ている。一ダース200円くらいのビッグボールペンを持ってこなかったことを私は心底残念に思った。

 本当に文明に毒されていない素朴な人々だった。きっと、この村はそういう人だけが生きて行ける場所なのだ。文明にどっぷり浸ってしまった私たちは、三日もここで過ごせば、澄みすぎた空気と水、そして人間たちにやり切れなくなるだろう。それに、コンピューターどころかボールペンさえも容易に手に入らない社会は、やはり私の住めるところではない。豊かな自然よりも豊かな品揃えの方が、やはり、私にとっては住み心地を左右する。素朴な生き方とか自然との共生という口当たりの良い言葉に、私は文明人の多数派にもれず、羨ましさを感じるけれど、そんなことが自分にできっこないことも良く分かっているのだ。その証拠にシガルを一回りすると、もうすることがなかった。

 シガルからシャングリラに真っ直ぐ帰るにはまだ時間がある。私たちはサトパラ湖に行くことにした。またしても、えんえん続く砂漠の一本道。そもそも道というのが名ばかりで、砂漠の中に平行にポツンポツンと石が列をなしており、その平行線の間が道なのだ。道幅は時に恐ろしく狭くなり、崖に沿って進む一本道となる。車内からもほとんど直角に切り立った崖の底が見下ろせるほどだ。雇った運転手の技術は信頼に足るものだった。カーブを全く減速せずに曲がり切る。それでも、「カラコルムでジープ転落、邦人4名死亡」という新聞の見出しが脳裏にちらついて仕方がなかった。

 サトパラ湖は鏡のように光っていた。湖畔にそびえる岩山を、一転の曇りもなく映し出し、見ているものを混乱させる。水に映った山の姿が実物のように見え、どこが山のふもとか分からなくなるのだ。モーターボートに乗って湖を一周していると、自分が湖の水上に居るのか、水面下にいるのかが分からなくなってしまった。船縁から思い切り腕を伸ばして水に手をつけると、痛いほどに冷たかった。雪解け水が地下に潜り、湖底の泉から吹き出しているのだ。

ボートを降りた後、サトパラ湖でとれるマスを食べてみた。香辛料を利かせて丸ごとフライにしてある。最初二尾を五人でわけたのだが、あまりの美味しさに、もう二尾追加注文した。ホテルの夕食のことを思い出さなかったら、もっと注文していただろう。新鮮なマスは舌の上で自然に融けるふうだった。

スカルドゥに戻って、はもう一度ショッピングをし、シャングリラに帰ったのは六時頃だ。昨日は気づかなかったのだが、ホテルの敷地が始まる門のところに、衛兵が二人立っていた。客以外は入れないようにしてあるのだ。近辺の町の人が勝手にずかずか入り込んでくるとは思えないのだが、門には頑丈な扉が付いている。そんなつもりは全くなかったのだが、私たちは超上流階級に属していたのだ。考えてみれば、ホテルのボーイたちは私たちに話し掛ける時、必ず「サー」とか「マダム」を付けた。だいたい、私たちに直接口を聞くのは、ガードマンとボーイだけである。花壇の手入れをしたり、敷地内に放し飼いにされた鳥にえさをやっている人たちは、私たちに挨拶もしない。態度が悪いのではない。私たちに声を掛けることが禁じられている風なのだ。道で行き会うと、彼らは黙って道を開ける。それだけだった。徹底的な選別と階級の社会。逆から言えば、それ位守ってもらわないと、私たちは生きて行けないのだった。けれども、私たちを一番守ってくれたのは、門扉でも衛兵でもなく、当地の人々の善意だったかも知れない。失くなったはずの義兄の結婚指輪が、枕元の机に置かれてあった。ベッドの下を這い回ってボーイが見つけ出してくれたらしい。

 夕食前の一時、今度は私たちがJにウルドゥー語を教えてもらうことにした。

 「エク、ド、チン、チャル、パンチ、チェー、サート、アート、ノーーーー、ダース」

前日のイチ、ニー、サーン、シーの節で覚える。「ノーーーー」のところに来るたびにまたしてもJは笑い転げた。きっと日本人は変な民族と思っただろう。 おまけにHちんは放っておくとおかしな言葉ばかりJに教える。「アイムソーリはカンニンナやで」とか、「サンキューはオオキニや」とか。その度に私とCちゃんが、「そんなん教えたらあかん」と大声で遮るのだが、Hちんは一向めげる気配もない。「アイムソーリがカンニンでどこがまちごーてんねん」と言い張る。同じ日本語の表現でこんなに意見が分かれるのもJには不思議だったろう。パキスタンなら、多分単に言葉が違うで済むだろう。だが、関西弁と標準語の違いは、方言差ではなく地方帰属の意地の差なのだ。だいたい関東人は関西弁を日本語の一方言と思っているが、関西人は関西弁が日本語で、標準語は馬の言葉だと思っている。

 夕食はパキスタン料理だった。昨晩夕食を抜いたおかげで、私の胃腸は完全復活していた。けれども、翌日から二日間車に乗り続けなので、食べる量をセーヴして、腹十二分目くらいで止めておいた。おかげで、これ以降、腹具合に悩まされることはなかった。明日も早朝からの出発だ。私たちは早々にベッドに潜り込んだ。