子供の頃、時間が経つのが妙に遅かった。大人たちは慌ただしげに動き回っていると言うのに、それを眺める自分にとっては、朝の明るい日差しが、夕暮れのほの暗い薄明かりに変わるまでに、悠久の時間が横たわっているように思えたものだ。物心付いてまだ数年も経たない頃、時間は限界を超えて荷を積んだダンプのように、恐る恐るとしか前進しなかった。どうしてだろう? 今や、時間は、車高が異常に低い流線型の車のように、向こう見ずに疾走してゆくというのに。

 たぶん、こんなにも時間に対する印象が変わってしまったのは、時間あたりの経験の量が幼児と成人ではまったく異なっているからだ。大人にとってはどうでも良い日常的な出来事が、子供にとっては目新しい大事件だ。母親が牛の絵を指さして「もー」と教えただけで、彼・彼女は同じ図柄を家中探しまくる。時には母親が気づかなかった場所、石鹸のパッケージに印刷された小さな雌牛の図柄さえも、小さな指でなぞるようにして、「もー」という声を発する。幼児にとって、世界は全て真新しい。

 けれども、やがて、多くの出来事は見慣れたものとなってゆく。目新しい物事は年を経ることに減少する。そして、それに反比例して時間は速度を増してゆく。すでに読み飽きた漫画を読むように、僕たちは身の回りの全てを飛ばし読みして過ごすようになるのだ。

 子供の頃、とんでもない未来のことにように思えた一週間先など、すぐにやって来る。一月、一年でも大して変わりはない。かつての濃密な時間の流れはもはや永久に失われたのだ。

 そんな風に、ついこの間まで思っていた。再び時間が濃く重く濁った大河のように流れることなどありはしないと信じていた。フランスやドイツ、オーストリア、イタリア、スペインに旅行した時にも、時間はいつもの通り、スパートをかけていた。もちろん、時間を長く感じることはあった。飛行機や列車の中で退屈している時、そして、旅行期間が本当に長かった時。けれども、そういう時には、時間はむしろ希薄だったのだ。後から振り返れば、あっという間に過ぎ去った時間に過ぎない。次から次へと新しい物事が降りかかって来て、それを呑み込み消化するのにくたくたになっているのに、すでに反吐の滴を垂らし始めている口の中に、なおも新しい食べ物を詰め込まれるようにして、新たな出来事と経験が体内にねじ込まれていくような濃密な時間とは、それは全く異なっていた。そうした粘液のような時間と格闘したのは、今年――1998年のゴールデンウィークを中心にした十日あまりのパキスタン旅行の時だけだった。

 そして同じ今年の八月一日から二十三日に掛けて、僕と奥さんのCちゃんはその時間減速の快感を求めて、再びパキスタンに行くことにした。