8月4日

 

 タラップを降り、白く光るアスファルトの向こうに長々と横たわる、到着ゲートを目指

して歩いていると、目眩を起こしそうなほどに熱い。強い日差しは全てのものをカラカラ

に乾かし、空気さえも燃え出しそうなほどだ。実際、滑走路の方を眺めると、巨大な陽炎

が飛行機の機体を揺らめかせて、あたかも、この世の全てが炎に包まれているようだ。

 飛行場の玄関を出ると、僕たちの名前を書いたボール紙を掲げる男がいた。出迎えだ。

すぐ声を掛け、握手する。男は僕たちの手荷物を受け取って、車に向かい始める。ところ

が、その時、マフィアがずかずかと近づいてきたのだ。口ひげを生やし、サングラスを掛

けた、大柄な男。どう見ても、こいつはカタギじゃない。僕は全身の筋肉を緊張させ、目

をカッと見開いて、すぐ逃げ出せる体勢を作ろうとした。が、すでに遅かった。男は僕よ

りも三倍は太い腕をニュっと突き出して、僕の手をひっつかみ、やおら、ブルンブルンっ

と振り回し始めたのだ。たたたたた助けてくれっ!!!と迎えに来ていた男に叫ぼうとし

たら、当の男は車の陰に隠れてこそこそしている。なんと言うことだ。人生最大の危機で

はないか。マフィアはまだ、僕の手をつかんで放さない。顔を見ると、眉がつり上がり、

犬歯がむき出しになっている。一体、僕がどんな悪いことをしたと言うのだ。もしかした

ら、何か気に障ることでもしたんだろうか。お願いだから、そんな怖い顔を近づけないで。

手を離してくださいよ。

 その時、それまで知らんぷりしていた出迎えの男が近づいてきて、「これが俺のボスだ」

と言い、マフィアが「クエッタは気に入りましたか」と尋ねてきた。どうやら、怒り顔と

思ったのは笑い顔だったようだ。手を振り回したのは握手だったらしい。最初に出迎えて

くれたのは、単なる助手で、このマフィアこそが本当の出迎え人だったのだ。僕は引きつ

った顔に、手を押しあてて、笑い顔に作り替えると、「初めまして、クエッタはとても良

いところです」と答えた。

 マフィアの車は上等だった。トヨタの四輪駆動車で、トラックのような荷台が付いてい

る。座席は総革張りで、おまけに車内にティッシュ・ペーパーまで置いてある。パキスタ

ンでは、座席が革張りであること以上に、ティッシュを日常的に使えることの方が良くス

テータスを表している。ホテルでもティッシュを室内に常備しているところは少ない。つ

いでに言うと、トイレに紙があるのもまれなことだ。僕たちが宿泊したクエッタ・セリー

ナ・ホテルは、その意味で、最高級ホテルだ。ティッシュもトイレット・ペーパーも完備

していて、おまけにシャワーでは湯が使える。空港から車で十分余りの、このホテルに着

くと、僕のFamily NameとGiven Nameの両方で部屋が予約されていた。もちろん、二部屋

使うわけには行かないから、一部屋はキャンセルしなければならない。それだけのことで、

たっぷり二〇分はかかってしまった。悶着が一段落すると、二時間後に迎えに来ると言っ

て、マフィアは一旦帰っていった。

 ようやく、部屋に落ち着いて、煙草に火をつけると、灰皿がなかった。最高級のホテル

でもこれだ。いつでも何かヘマをしないと気が済まないのだ。冷蔵庫の中には瓶ジュース

が満杯なのに、栓抜きが置いてない、などというのも普通のことだ。洗面所のシンクに灰

を落として一服した。さすがにこれでは不便なので、Cちゃんが灰皿をとってくると言っ

て、部屋を出て、すぐに戻ってきた。

「この部屋、禁煙やで。」

 実際、扉にはNON SMOKINGの札が貼り付けられている。こっちは何も指定していないの

に、なんと言うことだ。空港ならともかく、ホテルの場合、ことにそれが最高級ホテルの

場合、NON SMOKINGはちゃんと意味を持っている。部屋を替えてもらわなくてはならなか

った。

 

 ルーム・サービスでコーヒーを頼んで、今度こそ、本当にくつろごうと思った時、部屋

の扉がノックされた。

 こういう場合、無防備にロックを外してはいけない。扉を開きざまにノックアウトされ

て、金を奪われることもあるからだ。関西空港のロビーなんかでも、海外でのトラブルを

紹介したビデオが流されているが、こうした場合、まず、フロントに来客を確認する電話

を入れろと指示している。だが、本当にそんなことをする人がいるのだろうか。僕の場合

はそんなことはしたことがない。ただ、開いた扉の後ろに、顔の半分と全身を隠すように

するだけだ。相手がノックアウト強盗なら、肩で扉を閉めてロックすれば良い。

 さて、扉を開いてみると、戸口に立っていたのは、人の良さそうな顔立ちの人物で、M

Aだと自己紹介した。義兄が手配しておいてくれた案内人、かつて義兄がクエッタで働い

ていた時の同僚だ。扉を全開して部屋の中に導き入れる。

 MAはベッドの上に腰を降ろすと、

 「さて、今日はどうするかね? どこに行きたい? それに明日の予定はもう立てたの

かい?」

 そんな風に矢継ぎ早に質問した。僕とCちゃんは当惑した。実を言うと、先のマフィア

男は、ホテルを去り際に同じ質問を僕たちにしたのだった。それで、今日はクエッタ市内

観光とショッピングで、明日はズィアラットというところに行く、と言う具合に予定はす

っかり決まっていた。

 どうやら厄介なことになりかけている。

 義兄は、もともと、MAにクエッタ案内を依頼した。ところが、僕たちの飛行機が到着

する時間だけはどうしても都合が付かないということだったので、義兄は空港への出迎え

だけを別の人物に頼んだのだ。ところが、この別の人物、すなわちマフィア男への依頼に

当たっては、もう一人別の人物が間に立っていたため、どこかで話がこんがらがったらし

い。彼はクエッタ案内を全部引き受けたつもりでいる。

 けれども、そういう経緯を僕たちが理解したのは、MAを眼前にしてからだった。僕た

ちは、マフィア男をMAと思いこんでいたのだ。もちろん、義兄から、空港への出迎えだ

けは別の人物が来ると聞かされてはいたけれど、セリーナ・ホテルに到着して、旅程を尋

ねられた時、てっきり、突然都合がついてMAその人が出迎えにも来てくれたらしいと思

ったのだ。こうした勘違いの原因は、僕たちが、マフィア男の名前を聞き取れなかったこ

とにある。聞いたことも見たこともない、固有名詞を一発で聞き取るのはまず不可能だ。

僕などはちょっと変わった名字なので、日本人相手でさえ、名前を教えるのに、三、四回

は繰り返さなければならない。そして、それは結構煩わしいものだ。だから、空港で自己

紹介された時、名前を何度も聞き直して相手をうんざりさせようという気にはなれなかっ

た。ホテルに送り届けてもらうだけだと思っていたからだ。彼の名がUだと知ったのはず

っと後のことだ。

 僕たちが事情を説明すると、MAはにやりと笑って言った。

 「別に問題はないよ。その男は何時にここに来るんだい。ちゃんと説明してやる。それ

に明日は、ズィアラットじゃなくて、イランとの国境に向かう道を走りたいんじゃないの

かい。君たちの兄さんはそう言ってたぜ。」

 僕たちは地図を開いて、明日の予定をもう一度検討し始めた。そして、義兄の勧めてい

たイラン国境への道――四方を地平線に囲まれた壮大な平原を、見に行くことに決めた。

 

 予定が決まっても、まだ、Uが来るまでには時間があるので、色々な話をした。一つだ

け印象に残っているのは、英語はどの程度話せるんだい、というMAの質問に、

 「私たちは英語があまりうまく話せません。とくに早口で話された場合には、私たちは

ぜんぜん聞き取れません。私たちは日本では十年近く学校で英語を勉強しました。けれど

も、私たちは英語をうまく話せません。」

 と答えると、MAはまじめな顔をして、

 「学校で勉強することと、実地に使うことは別問題だ。十年勉強したって、話せないの

は当たり前だ。使ってないんだから。むしろ、それだけ勉強したんだったら基本はちゃん

とできているはずだろ。後は使うだけだよ。基本が大事だ。基本がね。」

 僕たちも真面目な顔をして頷くと、MAは付け加えた。

 「それに、君たちが僕の英語を聞き取りにくいのはよくわかるね。だって、君たちが学

んだのはアメリカ英語だろ。でも、僕たちの話すのはブリティッシュ・イングリッシュだ。

結構、発音が違ってるんだ。」

 そこで、僕たちは思わず吹き出しそうになった。まず、僕たちは、英語一般が聞き取り

にくいのであって、別にアメリカン・イングリッシュか、ブリティッシュ・イングリッシ

ュかということはさして問題ではない。その意味で、MAは僕たちを買いかぶりすぎてい

るわけだけが、それに加えて愉快だったのは、MAの英語もブリティッシュ・イングリッ

シュとは思えないということだった。

 一般に、パキスタン人たちの英語は、三つの特徴をもっている。まず、第一に、Wがワ

行ではなく、ヴァ行で発音される。第二にRが完全には母音化せずに、ラ行で発音される。

第三にthが、あの舌を噛みそうな発音ではなく、タ行やダ行で発音される。その結果、た

とえば、WORLDはヴァールルド、WEATHERがヴェダールに聞こえる。こちらの耳も悪いから、

たとえば、アルビというのが理解できなくて、何度も聞き直した末に、問題の単語がARMY

だとわかったりもする。そうした意味で、MAもしっかりお国訛りに浸った英語を話して

いたが、彼自身はそれをブリティッシュ・イングリッシュだと信じているのだ。

 もちろん、僕はMAの英語が訛っていると言って馬鹿にしているわけでもない。むしろ、

様々な構文を自在に操り、多くの語彙、多様な熟語表現を駆使する彼に、尊敬の気持ちさ

えもっている。rとlも聞き分けられず、どんな母音でも日本語の五つの母音に還元してし

まう僕に、パキスタン人たちの訛りを笑い物にできるはずがない。ただ、日本人はアメリ

カ人やイギリス人のような英語を話せることを誇りにするが、他の多くの国々では、自分

たちの国固有の発音に自信をもっている、ということが何かの新聞に書かれてあった。だ

から、「僕たちの話すのはブリティッシュ・イングリッシュだ」というMAの誇らしげな

口吻に、思わず笑ってしまったのだ。案外、「他の多く国々」の人たちは、自分たちの国

固有の発音が、植民地時代に培われたイギリスの発音だと信じて自信をもっているのかも

知れない。

 

 ふと、時計を見ると、もう約束の時間だった。ロビーに向かうと、Uはまだ現れていな

かった。

 「パキスタン人が、三時に来ると言ったら、三時半だね。僕は時間を厳守するけど。」

 MAが片目をつぶって言った。そういえば、今日の飛行機も十五分フライトが遅れたけ

れど、放送も何もなかった、とCちゃんが言うと、

 「十五分だって? そんなものパキスタンではしっかり時間を守ったうちだよ。十五時

間なら、騒がないといけないけれどもね。」

 などと、言っているうちに、Uが姿を現し、早速MAは相談を始めた。パシュトゥー語

なので、僕たちには全く話の展開が理解できなかった。ひとしきり二人で話した後、MA

が事の次第を説明してくれた。

 「明日はやっぱりズィアラットに行かないと駄目みたいだね。もう用意しちゃったって

言うんだ。それと、市内観光だけど、そんなもの、狭い街のことだからすぐ終わってしま

うよ。それより、近くに綺麗な湖があるから、そこに行こう。」

 二人のうちのどちらが、僕たちを案内してくれるのか、その肝心なところについては、

何も言わない。ともかく、すぐ出発だ。僕たちは、トヨタの後部座席に乗り込み、助手席

にはMAが座った。どうやら今日は二人で案内してくれるらしい。車が走り出すと、MA

とUはしきりに何かを話しては笑い始めた。初対面とは思えないほどの盛り上がりようだ。

もちろん、二人の言っていることは僕たちには全く理解できない。時折、思い出したよう

にMAは後ろを振り向いて、英語でガイドをしてくれる。

 「ほら、あの山を見てごらんよ。女の人が横たわってるみたいだろう? だから、”ク

エッタの女王”って言うんだ。」

 確かに横たわった女の人を横から見たみたいな形だ。

 「このあたりは軍の基地だ。」

 機関銃を抱えた大勢の兵士たちが、車の真横を走り抜けて行く。

 やがて、時折道ばたに、赤ん坊ほどの大きさのある果実を売る露店が目に入った。あれ

は何かと尋ねると、

 「西瓜だ。食べたいか?」

 下痢が怖いから首を横に振って、いや聞いてみただけだよ、と答える。ところが、Uは

露店の一つの前で車を止めて、その西瓜と、それからメロンと桃を買って、車の荷台に無

造作に詰め込んだ。それからひとしき店員と話している。

 「同じ学校だったんだ、彼の方が五つ年上だけどね。」

 MAが店員を指さしながら言った。Uは先輩の店でメロンを買ったわけだ。

 

 車が再び走り始める。もはや窓の外の景色は一変していた。町並みも基地も露店さえも

ない。あるのは見渡す限りの荒れ地と泥の山だ。泥の山、、、そう言うと誤解を生むだろ

う。逆だ。山全部が泥の塊なのだ。非常に乾燥した気候のためか、樹木が殆ど育たない丸

裸の山が風雨に浸食されるがままになっている。それがクエッタの山であり、そうした泥

の塊がクエッタの四方を囲んでいるのだ。クエッタの年間降水量は195ミリに過ぎず、大

阪の年間降水量1318ミリと比べると、どれほど乾燥した気候かが良くわかる。が、それで

も、その僅かばかりの雨は、何千年、何万年もの時間を掛けて、山々の地肌に裂け目のよ

うな深い溝を幾本も穿っている。山の麓には、そうして削り取られた土が遠方へ遠方へと

迫り出していて、縁台を形作っているが、その縁台もまた、浸食を免れない。より軟弱な

堆積構造のところはなだらかにえぐられ、相対的に堅固な堆積構造をもつ部分はなだらか

に盛り上がり、あたかも、風に舞いあげられたカーテンのようにうねった地形を作り上げ

ている。より激烈な浸食を被る高地と、比較的緩やかな浸食を被る低地は、このようにし

て、はっきりと異なった様相をもつ二つの景色を上下に並べた異次元世界を形成する。険

しく切り立った崖の連続が上層、なだらかな斜面の連なりが下層である。とはいえ、下層

にしても、さして牧歌的な雰囲気はない。緑に包まれない泥の堆積は、むしろ、むごたら

しい。そして、風雨の暴虐が下層部も容赦しないことは近くに寄ってみれば、すぐ、はっ

きりとする。なだらかに見えたはずの斜面にも、老人の顔を覆う皺のような水路が見られ

るのだ。

 ハンナ湖は、その荒れはれた景色の中に、巨大な水たまりのように広がっていた。セル

リアンブルーに少し灰色の絵の具を混ぜたような湖水の周りには、ほんの少しだけ、樹木

と草が茂っている。けれども、それらの緑も湖が作り出したものではない。軍服に身を包

んだ兵士が、ホースをもって樹木の間をウロウロしているのが見える。湖の水を汲み上げ

て木々を養っているのだ。

 そこには日本的な意味での自然美は一切ない。むしろ、乱開発されて無惨に地肌をさら

け出した山を思い浮かべた方が、少しでも、このハンナ湖周辺の有様に近いだろう。ただ、

規模は異なる。幾らブルドーザーが強力でも、いくつもの山々をあれほど無惨に白茶けさ

せるのは無理だ。僅かばかりの建物と、緑、それにほんの数人の人影がなければ、これは

核爆弾で滅びた後の地球だ。そんな風に思った。

 

 やがて車は湖を半周して、小さなゲストハウスに停車した。赤く塗られた木の壁が円筒

形を形作り、その上に円錐の茅葺き屋根がのっている。そうした建物が三つ四つ身を寄せ

合うように立っている。それだけだ。導かれて室内に入ってみると、天井がなかった。茅

葺き屋根の裏に直接、厚手の布地を張り付けてある。じっと見ていると、遊牧民のテント

の中にいるみたいだ。とはいえ、壁は漆喰塗りで、床にも絨毯が敷かれ、室内そのものは

小綺麗だ。

 しばらく待っていると、先にUが買った、西瓜とメロンと桃が出てきた。とてつもない

量だ。西瓜は赤ん坊ほどあったし、メロンは大人の頭ほどもあった。桃は小粒だが、十個

以上ある。一瞬僕たちは食べるかどうかで迷った。下痢が怖いからだ。もちろん、果実そ

のものに細菌が付いているわけではない。問題は、果実がどんな環境で、食べやすく小さ

く切り分けられたか、だ。パキスタンでは一般的に、食料を扱う場所が恐ろしいほど汚い。

たとえば、マーケットに行って、異臭が漂い、無数の蠅が飛び交っているのは食料品店街

だ。道ばたに真っ黒な布巾が落ちていると思って近づいたら、ビニル袋にびっしり蠅がた

かっていたりする。家屋の中では、一番汚いのはもちろんトイレだが、キッチンもそれに

近いものがある。薄暗くて、蠅が飛び交い、ゴキブリが走りまわっていることもある。だ

いたい、レストランでもホテルでも、出てきた皿やコップをティッシュで拭いたら、たい

ていの場合、埃で真っ黒になる。下手をすると、前に使ったときの汚れがこびりついてい

る。

 けれども、僕たちは果物を食べることにした。UやMAが期待の眼差しで僕たちを眺め

ていたし、それに彼らの好意を裏切りたくなかったからだ。西瓜もメロンも冷えていない

が、あっさりと水々しく美味しい。桃は固くて酸っぱいが、後味が良い。お義理の一口の

はずが、いつの間にか、無我夢中で食べていた。僕たちが満足したのを見て、UとMAが

立ち上がった時、余った桃を持って帰っても良いかと尋ねてしまったくらいだ。

 

 クエッタ市内に戻った頃にはもう薄暗くなっていた。初詣の時の神社の中とか、祭の時

の御輿のまわりのような人だかりで通りが溢れかえっている。車道と歩道の区別などない

から、人も車も渾然一体としてあちらへ、こちらへと流れていく。街全体が人いきれと排

気ガスでムンムンとしていた。車を降りると、足下には泥水が流れ、正体の分からないゴ

ミがそここに落ちている。唐突に大の男が寝そべって、足の傷を見せ、物乞いをしている。

十歳にも満たない薄汚い子供が、袖を引っ張り、金をせびろうとする。赤ん坊を抱えて、

垢にまみれた服を着た女が、すがるような目つきでこちらを見る。僕のカメラを見て取っ

て、若者がしきりにシャッターを切る身振りをして、俺の写真を撮れとせがむ。そんなこ

んなの人混みの中を、車がクラクションをならしながら通り抜ける。その車が後に残した

大量の排気ガスと土埃の間から、足を引きずった男が現れて、手を差し出す。店頭を照ら

す裸電球を背後に、真っ黒に翳った男が、突如として、「どこから来た」と問い掛け、そ

の横にいた爺さんが「中国人か」と尋ね、その隣の店の男が、「全部日本製だぞ、買って

行け」と大声で叫び、そちらの方を振り向くと、チャドルで顔を隠した女が通って、慌て

て視線を逸らせ、手を差し出す哀れな少女と視線をもろにあわせてしまう。そんな中を何

とか前進して、僕たちは何軒かの店でショッピングをした。高いのか安いのかわからない

が、クッションカバーとか、財布とかをCちゃんが買った。

 再び車に乗り込んでたどり着いたのはカフェ・チャイナという中華料理屋だ。義兄もク

エッタで働いていた頃には、愛用した店らしい。MAがメニュを見て、何品かを頼んだ。

料理が出てきて驚いた。量が無茶苦茶多い。とてもじゃないが、こんなに食べられないぞ、

と心配になる。案の定、僕とCちゃんがギブアップしたとき、まだ、ほとんどの更には半

分ほども料理が残っていた。ところが、MAはそれからも延々と食べ続け、結局、皿をさ

げてもらうときには、料理はほとんど残っていなかった。パキスタン人は大食漢だ。

 ところで、恐縮したことに、この夕食代はすべてMAが払ってくれた。そして結局、ク

エッタに居る間中、僕たちはホテル代とおみやげ物代以外に金を使うことがなかった。翌

日は、Uが全部払ってくれたからだ。パキスタン人は仲間と見ると、とことん親切にして

くれる。相手が愉快になれるように一生懸命になってくれるのだ。MAとUにいつかお返

しができるだろうか、今でもそう思うと肩身が狭くなる思いがするほどだ。

 

 ホテルに帰ってくると、Jと義兄から電話があった。明日はどこに行って、誰が案内を

してくれるのか、と尋ねられて、はたと僕たちは困った。ズィアラットに行くのは確かな

のだが、案内はUだけがするのか、MAも来てくれるのかが、わからなかったからだ。義

兄が、電話をして、MAも来ることがわかった時、僕たちはほっとした。Uはあまり英語

が話せないので、僕たちとしても扱いに困るところがあったからだ。とはいえ、僕たちの

英語も相当に危なっかしい。義兄の電話で、僕たちは初めて、Uと同じ学校を出たのが、

メロン売りではなく、MAだとわかった位なのだ。日本に帰ったら、ちゃんと英会話の勉

強をやり直そうと思った。