8月5日(水)

 

 クエッタは小さな町だ。車を走らせ市街に出るのに、さほど時間は掛からない。そして、

その僅かの時間のうちに周囲の景色は一変してしまう。コンクリートでできた建物も、高

い鉄塔もない。道路の上を走っているというのに、見渡す限り他の車さえ見えないという

ことになる。町を出ると田舎になるのではなく、突如として原野になってしまう。時折目

に入るのは、遊牧民たちの集落と、山羊の群、それに義兄の表現を借りれば「泥の家」だ

けだ。「泥の家」とは、石を積み重ねその上に泥を塗っただけの家屋のことだ。屋根はで

きあがった壁の上に木材を渡し、その上に、わらを混ぜた泥を塗りたくる。セメントなど

を一切使っていない証拠に、放棄された家屋は長年の雨風に浸食されている。オール天然

素材の家なのだ。泥の山を背景にした「泥の家」は、まるでカメレオンのように周囲の風

景にとけ込んでしまう。遠目には蟻塚か何かのように見える。そもそも、人間や羊立ちさ

えもが、広大な原野を背景にすれば、蟻のように見える。

 「ほら、セリーナ・ホテルだ。」

 MAが「泥の家」を指さして言う。クエッタ・セリーナは「泥の家」をモチーフにして

作られているから、外見は良く似ている。もちろん、本物の「泥の家」には、噴水をあし

らった庭も、ライトアップするための無数の電飾もないのだが。

 「私たちは、次回は、あのセリーナに泊まりたいです。」

 笑ってそう答えると、MAも笑っていた。

 山に囲まれた平原の一本道をひた走る。言葉にするとあまりに単調な、このドライブは、

しかし、僕たちを飽きさせなかった。何かの大物にとりつく蟻の群のように、大地の一部

を黒く染める山羊の群、複雑に入り組んだ町を作り上げる「泥の家」、初めて見る、それ

らのものが刺激的だっただけではない。車が前進するに連れ、山々もまたその姿を変えて

いった。急カーブを曲がると、不意に世界が一変し、一面赤く染まった丘が立ち並ぶ。ソ

フトクリームのような形をした丘が、いくつもいくつも見渡す限り続く。そこへ、また、

突然、今度は浅い青緑に染まった丘が眼前に現れる。大地が波打ったような丘だ。不思議

としか言いようのない光景だった。その驚きを表すのに僕たちは「ディズニーランドみた

いだ」という表現しか思い浮かばなかったほどだ。もちろん、この驚異的な景色がディズ

ニーランドに似ているはずがない。ディズニーランドの方が、へたくそな模倣にすぎない

のだが、そうしたおとぎの国は、人工物でしかありえないという思いこみが、僕たちには

染み込んでしまっているのだ。やがて、眼前に白い丘の群が現れた時、僕たちはもはや、

あんぐりと口を開けるほかなかった。

 この不思議な丘の地域を抜けると、今度は、僅かではあるが樹木と草花の茂る地域にな

った。薄紫のラベンダーのような花を咲かせる草が、そこここぽつぽつと生え、さらにま

ばらに松のような木が茂っている。それを指さしてMAが言った。

 「ジュニパーだよ。何千年も前からの生き残りだ。今じゃ、このパキスタンとアメリカ

にしか存在しない古い種族だ。成長がもの凄く遅いんだ。一年に一インチくらいしか伸び

ない。だから、小さな株でも、もの凄く年をとってるんだ。」

 乾ききった土地にへばりつくように生え、何千年も掛けて一人前の大きさに育つジュニ

パーの茂みを眺めるうちに、車は「ズィアラットへようこそ」と書かれた門をくぐり抜け、

急な坂を上り始めた。たどりついたのはプロスペクト・ポイント、ズィアラットで一番良

く景色の見渡せるところだ。そこには、樹齢何千年にもなるはずの、ジュニパーが生えて

いた。厳しい環境の中で生き延びたためだろう、幹はねじ曲がって、大地に水平に伸びて

いた。展望台から見下ろすと、向かいの山が一面ジュニパーに覆われている。けれども、

それは日本で見られるような緑に包まれた山ではなかった。むしろ、雪が降り積もり、背

の高い僅かばかりの樹木だけが顔を覗かせているような山だ。雨水の豊かな日本の場合と

は違って、この乾燥した地域では、単位面積あたりの樹木の本数が極端に減る。木々は互

いに相手の邪魔にならないよう、距離を取り合っている。そして、その木々の間には灌木

も、草さえも茂らない。地面がむき出しのまま白く光っている。ジュニパが強力に水を吸

い上げるため、他の植物が生存する可能性が全くないのだろう。

 「こいつからは石油がとれるんだよ。」

 Uがジュニパーの細い葉を摘んでそう言った。戦争末期には旧日本軍も、極端なオイル

不足に陥って、松の根を集めた。松ヤニを生成すると油がとれるのだ。確か松根油といっ

たはずだ。こんな乾燥した地域に生きるジュニパの濃い樹液にはきっと油分がたっぷりと

含まれているに違いない。

 

 再び走り始めた車は、とんでもない悪路に入り込んだ。バスケットボールよりもずっと

大きな岩がごろごろした道だ。しっかりと体を支えてないと、すぐに天井で頭を打ってし

まう。道路と言うよりも、単に樹木が取り払われた細い荒れ地をたどっているのだ。

 「これはすごいハイウエイですね。」

 舌を噛みそうになりながら僕がそう言うと、

 「いやいや、こいつはスーパーハイウエイだよ。パキスタン中に張り巡らされてるんだ

ぜ。」

 とMAが切り返す。30分も経つと、もはや車では絶対走れない道になった。車を降り

て、歩き出したのは川の上だ。ほとんど水が枯れており、きめ細かな砂と礫に覆われてい

る。しばらく歩くと、石を積み上げて、樹皮で屋根を葺いた家が見えた。さらに歩みを進

めると、ついに行き止まりだ。僕たちは5階建てのビルディングみたいな大きさの岩の上

にいた。

 「ここが、ズィズリだ。ここを下るともっとすごい景色が見られる。」

 MAの説明を聞きながら、下を覗き込むと、同じような大きさの岩が幾重にも重なって、

谷間を作っている。じっと見ていると吸い込まれてしまいそうだ。カメラを取り出して二、

三枚写真を撮ったが、諦めていた。この迫力は絶対に写せない。実際、後で現像してみた

ら、岩が石ころみたいに写っていた。

 車へと引き返す途中、先の石造りの家を詳しく見てみることにした。

 「こいつはこの地域に特有の家(LOCAL HOUSE)だ。エア・コンディショニングされて

るんだぜ。」

 MAが説明してくれた。エア・コンディショニングというのは冗談ではなく、厚い石造

りの家は日差しを遮るため、本当に涼しいのだろう。中に入ってみたかったが、人の家だ

からさすがにそれはできない。カメラにその姿を収めるだけにとどめた。

 車の近くに戻ってくると、この付近に住んでいる父子連れに出会った。父、息子とも人

の良さそうな顔つきだ。とはいえ、最初僕は、祖父と孫だと思った。父親は60歳を越え

ており、息子は10歳そこそこだったからだ。Uがランチボックスを出してきた。中には

パイやサンドウィッチが入っている。Uがパイの一つを子供にやると、子供は恥ずかしそ

うに受け取る。ふと、その腰元を見ると、パチンコがぶら下がっている。ちょっと日本の

物とは形が違うが、きっとパチンコだ。僕はMAにあれは何と尋ねると、色々と説明した

後、LOCAL GUNだと言って、自分で笑った。Uが子供から借りて、実際に石を飛ばして見

せてくれた。やっぱりパチンコなのだ。

 僕はバッグの中にクッキーがあったことを思いだし、子供にあげようと思った。ところ

が、たしか、クッキーがあったね、とCちゃんに確認した途端、クッキーという語を耳ざ

とく聞きつけたUが、

 「ああ、クッキーならここにある。食べたいか? 食え、食え。」

 と袋包みを差し出す。しまったと思ったが後の祭りだ、僕は一枚だけお愛想にクッキー

を食べなければならなかった。UもMAも日本語は分からないが、僕たちの会話を一応聞

いている。そして、自分たちに聞き取れる単語があると、嬉々として自分の思いこみ通り

の行動にでる。彼らにとっては、客を歓待するとは、第一に存分に食べさせ、飲ませるこ

とだ。だから、たとえ、「ペプシで喉がべとつく」というような話であれ、ペプシという

単語を用いたら最後、必ず、もう一本ペプシを飲まなければならなくなる。なんせ、断っ

ても、聞いてくれない。

 「ペプシか? 遠慮するな、飲め飲め。喉が乾いたか? 飲め、飲め。」

 となる。僕たちは日本語で話すときにも、なるべくカタカナ言葉を使わないようにしな

ければならなかった。

 この話と重ね合わせて、UとMAがどれほど僕たちを歓待してくれたかが、良くわかる

事件が起こった。ランチボックスを食べ終えて例の悪路を引き返すと、車は一件のゲスト

ハウスに入った。そして、平然と昼食の注文を始めたのだ。僕はてっきり先のランチボッ

クスが昼食だと思っていたから、Uに勧められるままに、パイを二つとサンドウィッチを

一つ食べてしまった。出てきた料理は、良くできていたが、殆ど僕には味がわからないか

った。失礼にならない程度の量を胃袋に詰め込むのに四苦八苦したからだ。それでも、M

Aに

 「もっと食べなきゃ。」

 と言われてしまった。正直に先のランチボックスを昼食と思って存分に食べてしまった

んだと言うと、

 「ああ、あれ。あれは昼食じゃなくて、ジョークだよ。」

 「では、私はそのジョークを食べ過ぎました。」

 「まあ、その話はそっちに置いといて、このチキンうまいよ。もっと食べろよ。」

 という具合である。そして、ようやく皿がさげられた後、いやにゆっくりしているなと

思っていると、新たな皿が出てきた。デザートのフルーツだ。ブドウと桃が山盛りだ。昨

日、僕が残った桃を持って帰ったから、フルーツが好きだと思ったのだろう。僕は気が遠

くなりそうになった。

 

 帰り道、Uが突然、枯れた川の中に車を突っ込ませた。まず、がっくんと車が落ちるよ

うにして川底に入る。おいおい、一体どうするんだ。思わず動揺してしまう。と、車の行

く手には、高さ一メートルほどの直角の段差がある。川の向こう岸だ。

 「幾ら何でも、これは無理や。登られへんで。」

 Cちゃんが思わず日本語で叫ぶ。ところが、Uは平然とその段差に突進し、車は、の〜

しのし、のしのしのしっ、と言う具合に、その段差を乗り越えてしまった。

 「なんで、そんなことができるねん!!!」

 僕たちは思わず関西弁で突っ込んだ後、涙を流さんばかりに笑った。今から考えても、

Uは凄い運転テクニックを持っていた。幾ら四輪駆動車とは言え、一メートルの直角の段

差を一発で乗り切ることのできる素人――そして、ズィズリーに向かう「スーパー・ハイ

ウェイ」を走ることのできる素人――など、日本には存在しないだろう。玄人でもあやし

いものだ。

 さて、こうやって、難路を越え、僕たちは向かったのはタンギーという場所で、そこに

は、雨水によって岩山に穿たれた溝がある。溝と言っても、それは岩山全体のスケールか

ら見た場合の話で、近くに寄ってみると、巨大なものである。幅はせいぜい三メートルほ

どだが、深さが10メートルや20メートルはある。水は相対的に硬度の低い部分を削っ

て、流れて行くから、溝はまっすぐには穿たれない。水が岩の柔らかい部分だけを削るう

ちに、微妙に川の進行方向が変わり、その結果、溝の壁面は縦にも横にもグニャグニャと

曲がりくねることになる。溝の中を歩いていると、空が見えなくなることも往々にしてあ

り、そんなときにはまるで巻き貝の中を歩いているような気分になる。

 十数分歩いて至った、溝の最も奥まった部分では、滝が流れ落ちていた。その部分で岩

の硬度が変わるのだろう。溝全体が柔らかそうな堆積岩でできていたのに対し、滝は黒く

濡れ光る硬そうな火成岩の上をなでていた。

 

 ふたたび車がクエッタに帰る道をたどり始めたとき、僕はあらためて、周囲を囲む山々

を見た。細い皺のように山肌に走る水路。その一本、一本があのタンギーのような岩の裂

け目を作っているのだ。そう思うと、あらためて水は硬い物質だと感じた。

 帰り道は来た道と同じだったが、それでも僕たちは退屈しなかった。黄昏始めた陽光の

中に浮かぶ山々は、昼間とは全く異なった様相を見せていた。とくに、あの不思議な丘の

地帯は、横からの光を受けて、大地に見事な陰の模様を描き出していた。

 Uが思い立ったように車を止めて、道ばたの露店でリンゴを買う。どうやら、知り合い

らしい。Uはズィアラットの街でも顔が広く、しきりに車を止めては人に声を掛けていた。

一般に、パキスタン人は人とのつきあい、とりわけ挨拶を大切にする。たとえば、客を乗

せたタクシーの運転手でも、路上に知り合いを見つければ、何の抵抗もなしに車を止め、

ひとしきり話をするのだ。人と常に友好関係を保っていくことが、この国では、とても大

事なことなのだろう。車が走り出すと、MAが振り向いて、

 「この近くに、Uの友達のリンゴ園があるんだ。見に行かないか?」

 と言われた。リンゴ園なら信州で嫌になるほど見たし、それに、僕の出身地は梨の名産

地だ。だから、果樹園なんかに興味はなかった。けれども、せっかく好意で言ってくれて

いるのだから、断るのも悪いと思って、「行こう」と答えた。そして、行ってみて、やは

り人の好意は素直に受けるものだと思った。全然日本の果樹園と違っていたからだ。

 日本のリンゴの木は何度も品種改良されて非常に背が低い。ずんぐりむっくりの姿をし

ている。リンゴ園ではそれが等間隔にならんでいるのだ。そして、果実の品質を向上させ

るため、枝がたわわになるほどには実をならせない。だから、日本のリンゴ園はリンゴ畑

だ。綺麗に整序されている。一方、パキスタンのリンゴ園は、リンゴ林もしくは、リンゴ

密林だ。整地もされていない土地に、無計画に木を生やさせ、好きなだけ実をならせる。

一本一本の長い枝が、柳のように垂れさっがって、そこに無数の果実がぶら下がっている。

リンゴの種類分けさえ厳密にはされていないようだ。普通のリンゴのなっている木の隣に、

姫リンゴが実っていたりする。それに、害虫にも無頓着だ。穴だらけの果実も多い。沢山

実るのだから、悪いのは捨てるか、自分たちで食べれば良いと思ってるのだろう。農業の

ありかたそのものが日本とは全く異なっている。形が良くて、虫一つ付いていない綺麗な

リンゴを少数作って、高価に売るか、形は不揃いで、たまに虫食いもあるリンゴを大量に

作って安価に売るか。どちらか、良いのか一概には言えない。けれども、少なくとも味の

点では、パキスタンの方が豊かな農業をしていると僕は思う。歯ごたえがなく甘ったるい

日本のリンゴとは全く違って、パキスタンのリンゴは、硬く、酸っぱい。日本人の味覚は

何時の間にこんなにも鈍ってしまったのだろう。品種改良して作り上げたからには、あの

最初から傷んでるみたいなリンゴが日本では好まれているのに違いない。でも、本当に美

味しいのはパキスタンのリンゴだ。

 

 リンゴ林を出てしばらく走ると、道路を横切る山羊の群と出くわした。羊飼いの子供た

ちが、しきりに棒を振り上げて、道路の外に山羊を追い立てている。車を止めてもらって

カメラを向ける。Uが羊飼いの少年に何事かを大声で言う。すると、少年は手近の黒い山

羊を一頭抱えてポーズを取ってくれた。少し暗くなって来ていたので、ぶれないかと心配

だったが、望遠で少年の姿を撮った。後で現像してみたら、写真は上出来だった。手前味

噌になって、少し気が引けるけれども、素直なのに、しっかりした骨のある顔つき、無邪

気な口元と対照的に大人の目つきをした少年の表情がすばらしい。今回のパキスタン旅行

でとった写真のうち最高のできだ。当のモデルに、一枚焼き増ししてあげたいのだが、国

境を越えて、移動して行く遊牧民のあの少年に会うことは二度とないだろう。

 現在、アフガニスタンやパキスタンなどでは子供の労働が問題となっている。親が、学

校教育を受けさせずに子供を働かせるのだ。けれども、あの羊飼いの少年を見た時、子供

が働くこと自体は決して悪いことではないと思った。日本で学校教育どころか塾教育まで

十全に受けた子供よりも、ずっと優しくたくましい目つきを、あの少年はしていた。僕な

ら、あの羊たちの一頭でも自分の意のままに動かすことはできないだろう。彼は何十頭も

の羊を見事に統率していた。学校教育は受けていなくても、きちんと生活の智のを身につ

けているのだ。もちろん、子供の労働に多くの問題があることも事実だ。彼らがひどい搾

取の対象になっていることは僕も知っている。長時間労働と低賃金、ひどい労働環境が働

く子供たちを取り巻いている。けれども、そうした問題は、たとえば子供を働かせて作っ

ているから絨毯を買うのを止めよう、というのでは解決しない。それよりも、絨毯に輸入

国側が高い関税を掛け、それを子供の労働環境を改善するのに投じた方がずっと良い結果

を生むだろう。子供を働かせて、学校教育を受けさせないこと自体が悪い、という、ガチ

ガチの先進国的発想が、絨毯の不買運動という馬鹿馬鹿しい事態を引き起こす。絨毯が売

れなければ、当の子供たちがもっと過酷な状況に置かれるかも知れないのに。

 クエッタに近づくに連れ、またしても遊牧民の集落がちらほらと見えるようになった。

午前中に見た時とまた風景が変わっている。場所によっては平原の一面に天幕が張られて

いた。

 

 クエッタ市内に戻った時、MAが振り向いて、

 「疲れたか? 眠いか?」

 と尋ねてきた。僕とCちゃんが、あまり話もせず静かにしていたからだ。実際、僕たち

はクタクタだった。けれども、「全然」とやせ我慢をした。まだ、面白い企画があるかも

知れないからだ。けれども、車はセリーナ・ホテルの前に止まった。

 「一旦、ホテルで休憩してから、晩御飯を食べよう。」

 「はい、わかりました。しかし、晩御飯を食べる前に、私たちは街で買い物をしたいと

思います。」

 「あ、だったら、すぐ出かけなくちゃ。店が閉まっちゃうよ。」

 そんなわけで、またすぐに車に乗り込んだ。

 「何が欲しいんだ?」

 「私たちは、オルゴールのついた、ティーポットが欲しいです。」

 「え? 何の付いた、ティーポットだって?」

 何度「オルゴール」と言っても、通じなかった。それもそのはずだ。家に帰ってから調

べてみたら、オルゴールはオランダ語のORGELが訛ったもので、英語とは全然関係がない。

何度か、ちぐはぐなやりとりをして、色々な説明をした後、急にMAは僕たちの求めてい

る物を理解した。

 「あ、ミュージカル・ポットが欲しいんだな。」

 「ああ、そう、そうです! このあたりで、人は、そのようなポットを売ってるでしょ

うか。」

 「売ってるさ。お望みなら、踊るカップの付いたのもあるぜ。」

 MAがウィンクして言い、僕たちは大笑いした。そして、実際、何軒化の店をまわるう

ちに、とうのミュージカル・ポットを見つけた。シュガーポット、ミルクポット、それに

六つのカップがついて、しめて1500ルピ。五千円弱だ。僕は即座に買おうと思った。

だが、Cちゃんが難色を示した。高すぎるというのも、理由の一つだが、それ以上に、こ

だわったのが、

 「こいつは良いよ。なんせ、日本製だからな。」

 という店の親父の言葉だ。事実、ポットの底にはMADE IN JAPANと銘打たれていた。

 「なんで、日本製のもんをここで買わんならんねん。」

 Cちゃんはそう言って、決して首を縦に振らなかった。僕としては、あのMADE IN JA

PANは絶対に嘘だと思う。日本からわざわざパキスタンにティーポットを輸出するはずが

ないし、第一、ポットに描かれた模様は明らかに中国風だった。パキスタンではMADE I

N JAPANは最高級品のマークみたいなものだ。誰かが、勝手に中国製のポットに刻印し

たに違いない。店を出る時、せっかく案内してくれたMAとUに、少し申し訳ない気がし

たので、買わなかった理由を説明した。

 「私たちはポットを買いませんでした。なぜなら、カップが踊らなかったからです。」

 MAはひとしきり笑って、Uにもそのジョークを訳してやった後、尋ねた。

 「じゃあ、次は何を買う?」

 結局、その日買ったのは、Cちゃんの服だ。二着で1400ルピ。ポットが買えたのに

と、僕はまたしても考えてしまった。昨日から、Cちゃんの物ばかり買っているのに、気

づいたMAが言う。

 「なんだ、君は全然買ってないじゃないか。よし、俺が許す。この店で何でも好きな物

を買え。」

 僕たちは大笑いした。MAが指さしたのは、おもちゃ屋だったからだ。

 

 買い物を終えると、車は大通りをはずれて、裏手の細い道の方に入って行った。レスト

ラン街だ。とは言っても、カフェチャイナのような上等のレストランが並んでいるわけで

はない。店頭で焼いた串を道ばたで食べるというような、庶民的な街だ。立ち並ぶ、屋台

の一つを指さして、MAが言った。

 「よし。今晩の晩飯はここだ。」

 僕は腹を抱えて笑った。いつもの調子で冗談を言っていると思ったからだ。けれども、

Uは車を止め、店員がすぐにテーブルと椅子を道ばたに持ってきた。本気だったのだ。

 「とにかく、まず、一本串を持ってこさせるから、試して見ろ。もし、駄目だったら別

の店に行こう。」

 MAは僕たちの心配そうな表情を見て取ってそう言った。出てきた串は、羊の骨付き肉

だ。一口食べて思わず日本語で叫んだ。

 「美味しい。」

 「大丈夫か? 行けるか?」

 「行けます、行けます。これはとても美味しいです。」

 「よし。じゃあ、三種類あるから、三十本頼もう。」

 皿やナンが運ばれてきた。待っている間に急に暗くなった。停電だ。唯一の電灯が街灯

と店から漏れ出る光だけなので、それがないと真っ暗だ。空を見ると星が見えた。そうこ

うするうちに、串が運ばれてきた。羊のすり身を団子にしたシシカバブ、羊の骨付き肉を

焼いたチャンプ、辛いタレに羊肉をつけ込んだ焼いたティカ。どれもこれも、思わずうな

り声が出るほど美味しい。暗闇の中で手探りしながら、むさぼるように食べた。やがて、

皿が空になった。僕たちが満腹した時点で、皿の中身がなくなるなんて変だな、そう思っ

たのは正しかった。実はまだ、十五串しか食べていなかったのだ。店員が近づいてきたな

と思った途端、皿には元通り料理が山盛りになっていた。

 「さあ、食え。気に入ったんだろ。さ、食え、食え。」

 MAが言う。Uなどもっと直接的だ。チャンプを掴むと、にゅうっと顔の前に差し出し

てくる。お腹が一杯だと言っても承知しない。これは逃げ出さないと行けない。とりあえ

ず、差し出されたチャンプをほおばると、すぐにカメラを取り出して、言った。

 「私たちは、ちょっと、街の様子を写真に撮ろうと思います。」

 街の連中は気の良い連中たちばかりだ。僕たちがカメラをもってウロウロしていると、

「俺をとれ」とか「こっちに来いよ」とか、そういう意味の身振りをする。中には英語を

しゃべるおっさんも居て、

 「おいおい、この俺を撮ってくれよ。見ろよ、こいつは俺の息子たちなんだぜ。一緒に

撮ってくれよ。」

 などと言う。あまり言葉は通じないけれども、物珍しさも加わってか、みんな友好的な

態度で僕たちに接してくれた。ただ、今考えてみると、僕たちがUと一緒にこの街に来た

ことが大きかったのかも知れない。彼が、この街でどれほどの大物かはわからないが。ち

ょっとした顔なのだろうと言うことはわかる。食事の時、店員が彼に差し出したポットに

はウオッカのスプライト割が入っていた。

 写真を撮り終えて席に戻ってみると、まだ、料理が残っていた。Uの手が伸びてきて、

シシカバブを差し出す。MAが「食え、食え」を連発する。僕たちは、苦しくなるほど腹

一杯に食べた。客をそういう目にあわさないと気が済まないと言うのも、厄介な性分であ

る。けれども、彼らの気はまだ済んでいなかったのだ。通りの真ん中で急に車を止めたか

と思うと、

 「アイスクリームを食うか?」

 もちろん、僕たちは両手を振って、NO, NO, NO, NO, HOと言った。けれども、MAは構

わずに、店員を呼んで注文を出してしまった。すぐ車に山盛りのアイスクリームがのった

グラスが四つやって来た。脂っこい料理を食べた後のアイスクリームは案外美味しかった。

Cちゃんはさすがに半分足らずを残していたが、僕は全部食べてしまった。

 

 ライト照らされて眩いほどの噴水に取り囲まれたセリーナホテルに車を止めると、MA

とUも車を降りてきた。明日僕たちは午前中のうちにイスラマバードに向けて飛び立つの

だが、MAは仕事で見送りに来られない。別れの挨拶に、

 「あなたのおかげで、私たちは本当に楽しくてエキサイティングな時間を過ごしました。

どうも、ありがとうございます。」

 と言うと、MAはうんうんと頷いて、そして、僕を抱きかかえた。これがパキスタン人

の親しみを込めた挨拶なのだ。

 

 明日は僕たちを見送ってくれる。そう思っていたから、Uとは別れの挨拶をしなかった。

けれども、翌日僕たちを空港に運んでくれたのは、彼の手伝い人――迎えに来てくれた時

のあの男――だった。僕たちは、Uにお礼を言い、挨拶をする機会を失ってしまった。も

しかしたら、永久に。

 僕たちはMAとUの二人のおかげで、本当に沢山の経験をした。飛行機が空港を飛び立

ったとき、その同じ空港に降り立ったのが、ほんの三日前のことだとは思えなかった。彼

らとのつきあいがたった二日間だったとは、今でも信じられないほどだ。僕たちの時間は、

気づかないうちに、いつの間にか走るのを止めていた。歩くことさえ止めて、這うように

進んでいたのだ。