カトルセ・アニョス

 

 僕が生まれ、そして育った街には、米軍基地はなかった。四国の山奥でもなかったし、路地はあったが、単なる細い道だった。僕が生まれた年、東京でオリンピックが開催されたが、新生児室にいた僕には関係のないことだ。六年後、千里山で万国博覧会が催されたが、小学生になっていなかった僕には無意味だった。ごく平均的な貧乏世帯の子供には小学校の遠足以外にこの一大イベントに関わる機会はなかった。小学生、そして中学生になって、千里山の公園には何度も行った。だが、跡地を見て何になると言うのか?

 万博の前年に安田講堂が陥落し、その三年後にはあさま山荘事件が起こったが、幼稚園児や小学生にはもとより何の意味もない事件だった。少しでも意味のあった事件といえば、長島の引退だったが、いずれにせよ、僕たちが野球を見る年齢になった頃には、この選手の全盛期は終わっていた。華々しいところを見ることができたのは百恵ちゃんくらいのものだ。

 結局のところ、僕たちが物心ついた頃には、日本は激動の時代を完全に終えていた。社会の根幹を動かすような事件は少なくとも身の回りには何一つ起こらなくなっていた。少年雑誌がセンセーショナルに書き立てる人口爆発、食料不足の問題だけが、まだ小学校低学年だった僕たちの幼い心を不安に怯えさせ、恐怖漫画だけが僕たちを心底から震撼させた。けれども、ホラーブームは一過性のものだったし、スーパーマーケットが系列の店舗を爆発的に増加させ始めると、食糧危機という言葉はあっさり命を絶たれた。

 

 小学校の最後の二年間を教わった担任教師は典型的な日教組教師で、多数決による民主社会を教室に出現させ、学級憲法なるものを作らせたが、それは僕たちを自縄自縛の状態に陥らせただけだった。人の悪口を言わないことという条文が、生徒同士でひそひそ話することさえ禁じてしまった。健康的な生活を送ろうという条文が、朝に大便が出たか否かまで申告しなければならない事態を招いた。多数決で、「たんたん狸の……」という歌をたとえ自分の家の中でも歌ってはならないと決まった。クラスメートの一人のあだ名が「たんたん」だったからだ。小学校を卒業した時、心底ほっとしたものだ。

 だが、中学校に行ってみると事態は全く同じだった。それどころか、生徒会という自治組織が、全校レベルで小学校と同じことを始めた。またしても大便の申告だ。おまけに校門のところに生徒会役員が立って、ソックスにワンポイントが入ってないかどうかを確かめる。運動靴にメーカーのマークが入っていたら、書記がベンジンを持ってきて、それを消す。生徒会が打ち出したスローガンは「自分たちの手で」だった。

 僕の通っていた中学校は比較的成績優秀な公立校で、生徒の三分の一は教室での授業を無視して、有名私立高校に入るための受験勉強に精を出していた。別の三分の一は、教室での授業をそつなくこなし、地元の公立高校に進学するつもりだった。最後の三分の一は、教室での授業についてこれなかったが、ほとんどの者が私立高校なら進学できた。真面目にやろうが、やらなかろうが、ともかく高校にはいけた。だから、新聞に受験戦争という言葉が登場するたびに僕たちは鼻で笑っていた。

 

 政治的にも社会的にも、そして日常生活でも、危機感や躍動感を欠いたぬるま湯のような世界に僕たちは浸りきっていた。教師たちは、生徒会を使って、生徒たちに「自分たちの手で」自分の首を絞めさせていたが、その締め付け具合もたかが知れていた。折しも、校内暴力事件が頻発し始め、新聞には毎日のように不良少年をめぐる特集記事が掲載されていたが、その論調は個性を押しつぶす管理教育のひずみに敏感な少年少女が非行に走る、というもので、僕たちはそれを読んで、それこそ腹を抱えて笑った。上着のすそが膝までかかる学らんを着、太い学生ズボンをはいた彼らが、女にもてたいために非行に走っているくらいのことは同年代の者なら誰でも知っていたからだ。ワンポイント靴下やロゴ入りのスニーカーが履けないくらいでつぶれるくらいの個性ならない方がましだ。

 何も起こらない淀みきった学生生活とそれをめぐる見当はずれな論評が中学時代の僕たちを取り囲んでいた。けれども、そうしたものへの苛立ちが原因で、僕たちは改造拳銃を作り始めたのではなかった。中学二年生の終わり頃、仲間の一人が持っていた、S&W・M36の銃口にドリルの先をあてがったのは、単純に、クリント・イーストウッドが演じるダーティ・ハリーが格好良かったからだ。そして、その試みは失敗した。途中まで順調に金屑を吐き出し続けた電動ドリルは、突然それ以上押し込めなくなり、刃先が空回りし始めた。穿たれた銃口を覗くと、底の方に全く質感の異なった鋼が光っている。銃身に斜めに溶かし込まれた特殊鋼は、技術室のボール盤を使っても、貫くことができなかった。僕たちはため息をついてあきらめた。

 

 数日後の朝、和やんが前日見た映画のことを話し始めた。

「死体が何ぼでも生き返って来るんや。手とか足とか撃ってもあかん。パンッとだけ撃って、殺した思っとったら、急に後ろから襲いかかってきよる。フルオートでM16を撃ちまくってやっと動かへんようになるんや。そやけど、もっと凄い銃もあったで。ライオット・ショットガン言うてな。暴徒を鎮圧するための散弾銃やねん。これでゾンビの頭撃ったら一発や、上半身何も残らへん。」

 僕たちはその週末に、この『ゾンビ』を見に行った。ある日突然、死体が次々に蘇り、人間を襲い始める。主人公たちは様々な銃器で生きる屍に応戦するが、次第に追いつめられて行く。デパートの屋上からヘリコプターに乗り窮地を脱することができたのはたった二人だった。銃の無力を象徴するこの絶望的な結末にも関わらず、僕たちが夢中になったのは、個々の場面で圧倒的な威力を見せつける銃だった。

「あんな風に、ショットガンをバカスカ撃てたら気持ちええやろな。」

「M16のフルオートの方がしぶかったで。」

 帰り道の電車の中、僕たちは興奮しきって話し続けた。

 

 週が明けると、和やんはM16のモデルガンを持ってきた。この会社役員の息子は、映画を一回見ただけで一月分の小遣いを使い果たす僕たちとは全く異なった金銭感覚をもっていた。授業時間中、和やんは薬莢に火薬を詰め、全弾をマガジンに詰め終えた。放課後、掃除用具のロッカーに袋に入れ隠してあったM16を取り出すと、和やんは弓なりに曲がったマガジンを小気味の良い音を立てて装填し、自動小銃を腰だめに構えた。

「ええか。撃つで。」

 仲間三人が見守る中、和やんはフルオートで撃ち始めた。銃声と薬莢の落ちる音が規則正しく交互に響く。火薬を炸裂させた反動で薬莢を排出させる仕組みだった。教室中に硫黄のにおいが立ちこめる。全弾が撃ち尽くされると、僕たちは床に散らばった、まだ生暖かい薬莢を競って拾い集めた。新品の時には黄色く光っていた真鍮のかたまりが、硝煙滓をこびりつかせて、鈍い光をたたえていた。

 次は自分たちが撃たせてもらおうと、両手を薬莢で満杯にして駆け寄った僕たちに、和やんはがっかりしたように言った。

「やっぱりモデルガンはあかんで。全部撃ててへん。」

 和やんがバナナマガジンを引き抜くと、中にはまだ三発分の薬莢が残っている。けれども、僕も堀もタマも、和やんが心底落胆しているとは思わなかった。正確にコンマ三秒ごとの排莢を繰り返すダイナミックなメカニズムをもつモデルガンを僕たちは始めて目にしたのだから。本体にスプレー式のマシンオイルを丁寧に注し、改めて紙火薬を全弾に詰め込んだ僕たちは、順番にフルオートの手応えを味わった。何度も使いまわされた薬莢は真っ黒に汚れ、いくらこすっても元の輝きを取り戻すことはなくなった。

 だが、三日もすれば、僕たちはこのかさばるモデルガンに飽きてしまった。同じ週の土曜日に和やんは三駅離れた町の専門店で、ライオット・ショットガンも買ったが、二、三発試射した後、堀があっさり言い切った。

「これ、あかんで。一発ずつ弾込めせなあかんて、やっぱり鈍くさいわ。」

 タマも追い打ちをかけた。

「この銃身、水道管やで。」

 この野暮ったいシルエットの銃は、全パーツがABS樹脂でできていたのだ。

 

 こうして僕たちは弾の出ない銃は面白くないという当然の結論を引き出し、ある者は親に小遣いをねだり、別の者はスーパーのレジ打ちをし、もう一人はお年玉の貯金を切り崩して、いちはやく和やんが手に入れていた、サンダーボルトを同じように購入した。至近距離なら、牛乳瓶を撃ち割ることができるほどの威力をもつ空気銃だ。僕たちは、すぐ的あてには飽きて、この銃で撃ち合いを始めた。弾丸が軽いプラスティックなので、四、五メートルも離れていれば、撃たれてもそれほど痛くはないのだ。

 

 平野にぽつんと取り残されたような丘を大規模に切り開きはしたものの、資金繰りに困難を生じてそのまま放置された広大な造成地が、僕たちの戦場だった。三方を崖に囲まれ、唯一の出入り口を高い門扉で閉ざされた、その荒涼たる地域は、秘密の抜け穴を見つけたものにとっては、誰の目も届かない安全地帯だ。そこは砂漠だった。崖も地面も、薄い板状に砕ける、青色の脆い石でできており、その石は雑草の繁茂さえも許さないやせた土地を作り上げていた。地価の安い田舎の新設中学に特有の広い運動場よりも十倍は広く、丘の頂上からまっすぐ切り落とされたような崖は、高さ数十メートルにも及ぶ。しかも、整地が終了しておらず、ところどころブルドーザーが切り崩しかねて残された岩山が残っていたり、深い沼のような水溜まりがあったりする。撃ち合いを楽しむにはまさに絶好のロケーションだった。

 けれども、僕たちの興奮は一週間も経たないうちに冷めてしまった。いくら荒涼としているといっても、そこはもう僕たちには馴染みの遊び場所だったし、撃たれたら死に真似をするというルールを子供じみているとして採用しなかったため、撃ち合いはゲームの面白味を決定的に欠いていた。

 サンダーボルトを延命したのは堀だった。通学路途上の空き地に山のように積まれた廃品テレビの中から、その空気銃の口径にピッタリのコンデンサーを見つけてきたのだ。

「ええか、見てろよ。」

 堀はそう言って、五メートルほど離れたグラスを狙った。コンデンサーの弾丸は何度も大きく的をはずした。

「もう少し近くから撃ったらええねん。」

 待ちくたびれた僕がそう言うと、

「見とけて言うてるやろ。」

 と堀は居丈高に怒鳴り、ついにグラスを撃ち抜いた。プラスティック弾とは比較にならない重量をもつコンデンサーの弾丸は破壊力抜群だ。インスタントコーヒーの空き瓶やグラスを苦もなく砕く。僕たちは岩の上に標的を並べ、撃ち割ったガラス製品の数を競い合った。

 

 それから数日後、タマがサンダーボルトの代わりに鉄パイプをもってきた。パイプの一方の端が、平たくつぶされている。タマは釣り用の錘と爆竹をもう一方の先端から入れ、つぶされた端の隙間から爆竹の導火線を引っ張り出した。一メートルほど前方のガラス瓶にねらいを付けて、パイプ全体を石で固定する。

「行くで。」

 そう言うと、タマはライターで導火線に点火した。火種はつぶれたパイプの細い切れ目に滑り込むようにして姿を消し、銃声を響かせた。ガラス瓶は割れない。真ん中にクモの巣のような弾痕を残して、そのまま瓶の形を保っていたのだ。

 最初は、誰も鉄パイプを手にもって照準を合わせる度胸などなかった。だが、それは慣れの問題だ。爆竹は大きな音を立てる割に、破壊力は少ない。手の中で破裂しても、手のひらで机を力任せに叩いたほどの衝撃だ。僕たちは腰だめに鉄パイプを持って、一メートルほど手前のガラス瓶を撃ち出した。

「もっと離れたところから撃たへん?」

 タマが言いながら、三メートルほど後ずさりし、導火線に着火するとすばやく狙いを定めようとした。鉄パイプの先端から鉛玉が落ち、爆竹がタマの足元で破裂する。僕たちは大笑いした。

「へたくそやな、先を下げるからや。貸してみい。」

 堀は鉄パイプを受け取ると、タマの時よりも滑らかな動作で、着火、照準あわせをこなした。銃口から煙が出る。それと同時に、堀は顔を押さえてしゃがみこんだ。間延びしたように、銃声が響く。僕たちは背筋に冷たいものを走らせ、堀の周りを取り囲んだ。押さえた手からどろりとして黒ずんだ血がぽたぽたと流れ落ちるありさまを僕たちは呆然と想像したが、堀は顔から手を離して言った。

「あかん、こっちにも煙が来るで。」

 導火線を通すために残されたわずかな隙間から、硝煙滓を含んだ爆風が顔に降り注いだらしい。堀の目は赤くなっていた。

「だいたい、先っぽから玉がおちたりする中途半端なもんはあかんな。」

 僕がそう言うと、和やんがうなずいて、

「やっぱりモデルガンに穴開けなしゃあないで。」

 と、今はすっかり魅力を失った、サンダーボルトを蹴飛ばした。

「いや、それがあかんのは、この前でわかってるやんか。無理やで。」

 タマが反論する。

「無理や言うても、こんな中途半端なもんやったら狙われへんやんけ。」

 実際に痛い目にあった堀がタマを睨む。

「別に銃身に穴開けんでええんちゃうか。」

 僕はふと思い付いて言った。残りの三人が声をそろえた。

「穴がなかったら、どっから弾出るんや。」

 言った後で、和やんが目を輝かせて言った。

「今のて、何や卑猥やったな。」

 タマと堀が笑い出す。僕の提案は、単なる冗談だと思われたらしい。

「そやないんや。」

 涙を流して喜んでいる三人に僕は冷静な声で言った。

「銃身なんか切ってしもたらええ。その代わりに鉄パイプをつなげるんや。」

 もう誰も笑わなかった。

「できそうやな。」

 タマが言う。

「あんなもん切れるんか。」

 堀が素っ頓狂な声を上げた。

「簡単やで。金のこで十分切れる。この前、技術の時間にドライバー作った時、あれくらいの太さの真鍮棒を切ったやろ」

「今すぐやってみよか? 金のこやったら、うちにあるで。この前失敗したM36でやってみよ。」

 和やんが言った。

 

 中学校の入学式の日、僕たちは仲間になった。そしてその日のうちに誘われて、和やんの部屋を訪れた。それは夢の城だった。和やんは母屋から離れた自分専用の簡易住宅を建ててもらっていたのだ。八畳以上の広さをもつ、その部屋は浄化槽式のトイレと、小さなキッチンまで備えていた。玄関から見て左手の奥にはベッドが置かれており、玄関のある側の壁面に向けて学習机が配置され、その横には雑誌や単行本がぎっしり詰まった本棚がある。その向かいの壁面には、巨大なオーディオコンポがセッティングされ、隣には洋服ダンスが置かれている。右手の壁面はキッチンとトイレだった。

「ガスは危ないから通ってへん。水と電気はあるで。」

 うらやむ僕たちに、和やんが自室に関して発したコメントはそれだけだった。自分がどれほど恵まれた環境にいるのか理解していなかったのだろう。タマは弟と一部屋を分け合っていたし、堀は一人っ子であるにも拘わらず自分の部屋をもっていなかった。僕は個室をもらっていたが、本棚一本と机とベッドを置けば畳一枚分のスペースも残らない四畳半だった。

 和やんは何でも持っていた。部屋には電話もあったし、テレビもあった。モデルガンは十丁近くあり、空気銃も三丁あった。照準が狂わないように腕当てが付いたアメリカ製のパチンコもあったし、アーミーナイフも持っていた。コッヘルもガソリンコンロも、シェラフもテントも持っていた。二段ベッドの上段を納戸代わりにして、それらの品物がところ狭しと詰め込まれていた。

「ジュースでも飲む?」

 僕たちがうなずくと、和やんは玄関脇のインターホンをとって言った。

「エミコか? コーラ四つ。」

 インターホンから洩れ聞こえる返事の声が耳をくすぐる。妹かと尋ねた僕に、お手伝いだと和やんは答えた。

「去年中学出てうちに来てん。」

 玄関をノックする音がする。僕たちは居住まいを正した。扉を開けて、エミコが入ってくると僕たちはがっかりした。にきびだらけで、眼鏡をかけた不細工な女だったからだ。それでも、エミコがジュースの入ったコップを手渡して行くと、「すいません」と僕たちは蚊の鳴くような声でお礼を言い、会釈した。

 帰り道、堀が言った。

「凄い家やったけど、エミコはブスやったな。あれだけが不満や。」

 僕たちは以後、このお手伝いをエミコと呼び捨てするようになり、初日のような殊勝な態度を二度ととらなかった。

 

 この日も、インターホンをとって、「あ、エミコ? ファンタ四つ」と言ったのは和やんではなく堀だ。銃身はあっさり切りおとすことができた。グリップと回転弾倉のあたりだけが残った、無様なレボルバーを見て堀がおかしそうに言う。

「短足のおっさんみたいやな。」

 和やんは無視して僕に尋ねた。

「後はどないするんや。」

「ドリルがいるな。」

 銃身の根元にはまだ穴が開いていない。それに、回転弾倉には、薬莢につめた火薬を炸裂させるためにT字型のファイアリング・ピンが仕込んである。弾丸の通る道を作るためには、これらの障害物を取り除かなければならない。

「学校のボール盤を使た方がええで。」

 タマが言ったとたん、ノックの音がした。和やんが銃の上に手近の雑誌を伏せる。にきび面が現れた。

「遅かったな。」

「ファンタが切れてたんです。」

 そう言いながらエミコが草履を脱いで部屋に上がり込み、床に座り込んだ僕たちの手元にコップを置いてゆく。奥のベッドに座っている堀にコップを手渡そうとした時だった。エミコは銃を隠した雑誌を踏んで、ジュースをこぼすまいとしたためか、くるりと百八十度回転して仰向けに倒れた。コップは宙を飛び、堀のひざの上に座り込んだエミコは、そのままずるずる滑り落ちてゆく。スカートがまくれあがり、白いパンティーが一瞬丸見えになった。すでに立ち上がっていた和やんがエミコの手をつかみ立ち上がらせる。

「大丈夫か?」

 エミコは泣き出しそうな顔を真っ赤にしていた。床は蹴散らされたファンタでぐしょぐしょだし、堀とベッドは放り投げられたファンタでこれもびしょ濡れだった。

「すぐに、代わりをもってきます。」

 堀はとくにエミコを蔑んでいるから、今にも大声を上げそうだ。僕はすばやく言った。

「ジュースはええから、タオルか何かない? とにかく急いで持ってきてくれへん?」

 

 エミコはバスタオルを持ってきた。堀の頭から肩に掛けてを拭いてやったあと、ベッドや床を拭く。

「なんで俺がこんな目に会わなあかんねん。」

 堀はまだぶつぶつ言っている。

「わざとやったんちゃうねんから、そんな言うたりなや。」

「お前、やけにやさしいやんけ。パンツ見えたからか。」

 タマがにやけた顔を僕の顔の下に潜り込ませてくる。

「なんやお前も見たんか」

 和やんが笑う。

「別にブスのパンツ見てもしゃあないやろ。」

 僕が冷たく言うと、

「そらそうや。」

 とタマも堀も笑った。

 けれども、エミコをかばってやろうと思ったのは、やはり、パンティーが見えたからだった。一瞬へそまでまくれあがったスカートの下には、思いのほか細い腰と形の良い尻、すらりと伸びた脚が、蝋細工のように白かった。堀の足元に座っていた僕は、それを間近に見てしまった。それまでの基準が根底から覆った気分だった。その時まで美人かどうかは顔だけの問題だと思っていたのだ。

 エミコが改めてジュースを持ってきた時、僕は顔が紅潮するのを感じた。雑誌に集中するふりをする。手元にコップが置かれた時、それをつかもうとして、エミコの指に触れてしまった。耳が熱くなるのが分かった。

 

 家に帰ると七時を回っていて、祖母が文句を言った。適当に返事をして自分の部屋に篭る。鞄を開けると、数学と国語と理科の答案が出てきた。数学の六十七点というのは良くも悪くもない点数だ。国語の七十四点も同じだろう。理科の七十八点は悪い。理科は得意科目だが、今回の試験範囲は火山の種類とか玄武岩がどうやってできるかなんていう退屈な話ばかりだったから、勉強する気になれなかったのだ。

 僕は私立高校に行くつもりはなかったから受験勉強はしていなかった。仲間の三人も皆同じだ。ただ成績は違う。タマは定期試験の成績に関する限り、学年でも一、二位だ。全科目の平均点が九十七点とか九十八点なのだ。九科目のうち五科目は満点をとる。堀は僕より平均点が数点低く、和やんはさらに悪い。学年二五〇人中二〇〇番くらいだ。英語と音楽、それに国語が得意だから、まだこの順位なのだ。数学と理科、社会は常に二〇点台を保っている。

 

 八時頃両親が帰ってきて、家族で夕食をとると、僕は二階の自分の部屋に戻った。九時以降はテレビを見てはいけないというのが我が家の決まりだ。成績はとやかく言われない。僕は本棚から米川正夫個人訳ドストエフスキー全集第一巻の『罪と罰』を手にとった。本を開いて挟み込んであった写真を取り出す。通学路に近い空き地に捨ててあった、成人向け雑誌のヌード写真だ。横たわった化粧の濃い太った中年女が、セーラ服を手で持ち上げ真っ黒の乳首を見せていた。下半身は赤いレース地のパンティーを履いているだけだ。三段腹の端には盲腸の手術後がくっきり残っており、太股には青黒い血管が何本も透けている。突然襖の開く音がした。写真を二つ折りに挟み込むようにして本を閉じる。母だった。

「ノックくらいして入らんかいな。」

「おー、こわ。ふーん、本を読んでたんか。」

「何の用やねんな。」

「最近帰って来るのが遅いらしいな。おばあちゃんが言うてたで。」

「和やんの家で勉強しているんや。もうええやろ、本読みたいねんから。」

「試験が返ってきたやろ。どうやった。お父さんが聞いてこい言うてはんねん。」

 黙って答案を渡した。母も黙って受け取り、階段を降りて行く。上ってくる時は静かなくせに、降りる時は家が揺れそうだ。僕は舌打ちして本棚に『罪と罰』を戻した。どっちみち、安雑誌の貧しいグラビアには、エミコの目を打つような白い下半身を喚起させるものは何もない。僕はベッドに寝転んで、昼間の光景を思い出そうとした。想像の中のエミコは美人だった。勃起し始める。昼間も勃起した。それがばれないように、タオルを持ってきてという時にも座っていたのだ。

 

 暑い日差しの下、僕は和やんの部屋の前にいた。窓からエミコの姿が見えた。ノブを回して、室内に入る。和やんはおらず、ベッドを直していたエミコは、ドアの開く音に驚いたのだろう、びくりと振り返った。ティーシャツ姿の背にはくっきりとブラジャーの影が映っている。ジーンズの中が苦しかった。脇腹を汗が流れる。だめだ。エミコが大声を出しそうだった。駈け寄って口を塞いだ。そのままベッドに倒れ込む。エミコの手足はじたばたもがいたが、抵抗になっていなかった。スカートをまくりあげる。滑らかに白い下半身があらわになった。パンティーに指を引っかけ思い切り引っ張ると、あっさりと千切れた。もどかしくジーンズを引き降ろし、エミコの体に体重を掛ける。どうすれば良いかは分かっていた。ゆっくりと腰を押し出すと、ペニスはあっけないほど簡単に入った。が、その後どうして良いか分からない。挿入すれば、自動的に射精すると思い込んでいたからだ。上半身を起こし、ペニスがエミコの中に本当に入っているか見ようと思った。見て、驚いた。盲腸の傷痕と、波打った腹がそこにあったからだ。僕はあっと声を上げた。そのとたん、煽り立てるような拍動の音を間近に聞き、内蔵の全てが尿道から流れ出るような快感を感じた。気が付くと下着を腹に張り付けて、自分のベッドの上に寝ていた。夢精だった。

 窓の外はまだ暗く。僕は布団の中で汗にまみれていた。身じろぎすると、掛け布団の奥からむっとする匂いが鼻孔と口を塞ぐ。すでに冷たくなった下着を脱ぎ、押し入れたんすの引き出しから新しいのをとりだした。いつもながらのことだが、汚れた下着の処理に困る。結局そのまま洗い物籠にほうり込んだ。もう一度布団にもぐりこみ、夢の中のエミコにはにきびがなかったなと考えた。再び勃起してくる。もう一度同じ夢を見ることができたらと願う。もちろん、そんなことは起こらなかったし、朝目覚めた時には、一晩のうちに二枚も下着を汚すことがなくて良かったと思った。

 

 授業が終わると、僕たちは人気のない技術準備室に入った。様々な工具が所狭しと置かれたこの部屋の管理は、案外杜撰だ。施錠はしていないし、技術担当の教師もめったにやって来ない。職員室で何かの事務をしているか、体育館で女子バレーボール部を指導しているかのどちらかだ。おまけに、職員室は第一校舎の一階にあり、技術室は第二校舎の三階にある。ここで何かをしていても、他の教員の目に付くこともまずないのだ。それでも僕たちは、随分気を使った。電灯は点けなかったし、万一教員がやってきた時のために、室内に残されていた直径一五ミリの真鍮棒、直径五ミリの鉄棒なども、手元に集めた。授業でドライバーを作るのに用いた材料だ。もし、教師が入ってきたら、もう一度ドライバーを作ろうとしていたと言い訳するつもりだった。

 僕たちが使いたかったのは、万力と電気ドリルを組み合わせたようなボール盤と呼ばれる電気工具だ。万力部分で素材をしっかり固定し、レバーで垂直にドリルを上下させると、まっすぐな穴を空けることができる。僕はドライバーを使ってモデルガンを解体し始めた。プラスティック製のグリップと金属製の回転弾倉、安全装置をはずす。そうすると、銃はほぼ平べったい板の形になり、万力でしっかり固定することができるのだ。準備が整い、ドリルの回転スイッチを押し、ゆっくりレバーを降ろすと、ドリルは一瞬のうちに、直径一〇ミリの銃口を開けた。続いて、回転弾倉の五つの穴を塞ぐ、T字型のピンを削り取る。これで銃弾の通る穴が確保された。横で見ていた和やんがきく。

「この後はどないするんや?」

「パイプをくっつけるんや。」

「どうやって?」

 僕は黙り込んだ。くっ付けようがない。

「エポキシ接着剤やったらどうや。」

 タマが言うと、堀が

「バレル(銃身)ごとぶっ飛ぶんやないやろな。」

 と不信をあらわにした声を上げた。鉄パイプ銃で痛い目にあったのを、タマのせいだと思っているらしい。だが実際、接着剤では不安だ。

「アロンアルファでもあかんか。」

「接着面が小さいからあかんやろ。」

 和やんの提案を僕は一蹴した。

 タマがあっと声を上げて言う。

「おい、銃弾はどないするんや。弾がなかったら撃たれへんぞ」

 その通りだった。仲間の期待と興奮が急速に冷めていくのを肌にちりちり感じる。あかんな。自分でも思った。その時、考え込む風だった和やんが言った。

「たしか、銃の雑誌に拳銃の弾を解説したとこがあったで。見たことある。」

 僕は浮き足立った。

「すぐ、見に行こう。部屋にあるんやろ。」

「どっかにあるはずや。」

 

 和やんの家に向かう途上、僕は落ち着かない気分だった。銃弾の構造が分かるからではない。そんなものが分かったところで、実弾が作れるとは限らない。エミコに会える。仲間の期待をよそに、それしか考えていなかった。

 堀がインターホンをとる。

「あ、エミコか、コーラ四つ。」

 この時はじめて、堀のことを図々しいやつだと思った。和やんは机の上に積まれた雑誌類をあれこれ探し始めた。タマもそれを手伝う。僕はそわそわして何も手に付かなかった。

 ノックの音がする。急に今朝の夢を思い出し、恥ずかしさに赤面しそうになる。けれども、扉が開き、エミコの顔がのぞくと、僕は一気に萎れてしまった。やっぱりブスだったからだ。頬の上に、大きなにきびを化膿させたエミコは、顔の左右がアンバランスだったし、眼鏡の奥の目は夢に見た時の半分くらいに縮んでいた。

 僕はむっつりとしてジュースを飲んだ後、まだ雑誌を探している和やんを手伝おうと、引き出しに手を掛けた。

「そこはあかん。」

 和やんが言うのと、引き出しが開いたのは同時だ。僕と和やんは一緒に「わっ」と叫んだ。中には、成人雑誌がぎっしり詰まっていた。

「せやから、あかん言うたのに。今日は鍵をしめてなかったんや。」

 和やんは別に怒っても照れてもいなかった。ゆっくりと引き出しをもとに戻すと鍵を掛けた。

 

 結局目当ての雑誌は見つからなかった。タマと堀が帰った後、理由を付けて残った僕は和やんに尋ねた。

「あの本どないしたんや。僕あんなん本屋でよう買わへんで。」

「自販機や。M駅の近くにあるから、夜中にチャリで行くんや。一冊、やろか?」

「うん、そやな。けどまた出てもうたら困るな。……あのな、昨日エミコが夢に出てきてな、出てしもたんや。」

 和やんはしばらく黙って考えた後。

「なんや。お前も昨日のん。そうかあ、僕もや。」

「夢精したんか。」

「いや、自分で出した。」

「え?」

 和やんは僕の顔をじっと見た後、探るような口調できいた。

「お前オナニー知らんのか?」

 

 和やんは落ち着いた声で、自慰のやり方を教え、成人雑誌を一冊くれた。

「これ見て、僕の言うた通りやってみ。」

 

 僕はその夜、家族が寝静まってから、初めて自分の意志で射精した。いや、射精そのものは自分の意志に反していた。急に脈拍の音が凄まじい勢いで鼓膜を打ち始め、駄目だと思ったが、もうどうしようもない。手のひらの中でペニスが魚のように飛び跳ね痙攣し始めたとたん、僕の体内に断続的な射出音が響いて、白く光る液体が飛び出していき、尾を引いて中空を舞った後、大粒のにわか雨のような音を立てて畳に落ちて僕を一層慌てさせ、ついで勢いを失った残りの精液が太股、下腹を濡れ光らせていったが、僕は全く身動きできないまま、視野の狭まった目でそれを眺めるほかなかった。和やんに釘を刺されていたにも拘わらず、ティッシュをつかむ余裕など全くなかった。部屋中に漂白剤の匂いが充満する。体や畳を拭きながら、射精の瞬間、夢の中のエミコが脳裏に現れたことを思い出した。そして、銃身をどうやって本体に繋ぐか、その解決法を突然思い付いた。

 

 翌朝、学校に行って靴を履き替えようと思ったら、靴箱の扉が開かない。扉がへこんでずっと開きにくかったのだ。力任せに扉をひっぱると、つまみが千切れて、反動で僕の拳は背後を通っていた別の学生の腕を打った。振り返って「ごめん」と言ったとたん殴られた。赤居だった。呆気にとられていると、今度は脛を蹴られた。うずくまると、頭を殴られた。そして、何も言わずに赤居は立ち去った。

 赤居は僕と同学年で札付きの不良だ。大垣他、四、五人の生徒とともに恐れられている。彼らは教師がいくら注意しても学らんを学校に着て来るし、生徒会役員も彼らの服装だけはチェックしない。三年生の柔道部員が彼らに説教を垂れたが、反対に袋叩きにされた。ここ一年ほどの間に、幾人もの生徒が彼らの行動から一つのことを学んだ。好き放題を徹底すれば、誰もそれを止められないということだ。三学期になって、僕たちの学年に学らん姿が急に増え始めた。パーマを当てたり、髪を染める者も現れた。

 僕たちは不良を心底馬鹿にしていた。彼らは女にもてたい、目立ちたい、その一心なのだ。複雑な家庭に育った者もないではなかったが、少数だ。それに彼らより悲惨な家庭環境に育って、まじめにしている者もいる。僕たちに言わせれば、不良はマスコミが言うような、体制に反抗する敏感なセンスをもった若者ではなく、自分の欲望の赴くままに生き、人に迷惑をかけていることを恥じない鈍感な人間の屑だ。

 僕はのろのろと立ち上がって、脛をさすり、靴箱の扉を殴った。上履きが取り出せるようになった。

 

 放課後、僕たちは技術準備室に行って驚いた。鍵が閉まっている。きちんと後片付けをしておかなかったために、無断で工具を使ったのがばれたらしい。

 ところが、堀は

「どうってことない。」

 そう言うと、職員室に行って平然と鍵を取ってきた。

「鍵なんか全部同じ形してるんやから、音楽室のでも分からへんで。」

 職員室の入り口には特殊教室の鍵が並べて掛けてある。技術室の鍵をとって、代わりに音楽室の鍵を掛けてきたらしい。

 僕たちはまず、技術室の合鍵を作っておくことにして、隣町の合鍵屋に行った。学校からは往復で二十分もかからないから、職員の誰も、一瞬技術室の鍵がなくなっているのに気づかなかった。

 技術準備室に入った僕は、ドライバーの材料になる一五ミリの真鍮棒に、ボール盤を使って、直径八ミリの穴をうがち、肉厚のパイプを作った。次に旋盤を使って、そのパイプの片方の端から一センチほどまでを、直径一二ミリになるまで削る。そしてその細くなった部分に雄ネジを切る。こうして銃身が完成した。銃身を切ったモデルガン本体は、開口部に雌ネジを切った。銃身をメイン・フレームにねじ込めば、それはもはや、弾丸の通り道を確保した本物の拳銃だった。

「このままやったら、フロント・サイトがないで。」

 タマが不満げに言った。銃身の先についた小さな台形の突起は照準を合わせるのに絶対必要なのだ。だから、解決法もすでに考えてあった。

「銃身の先に縦に切れ目入れてんか。ほんで、この鉄板を差し込んでアロンアルファでくっつけるんや。後からヤスリで削って照準の形にしたらええ。」

 それだけの指示を与えると、僕は和やんとデルガンの薬莢を細工して銃弾を作ることにした。

 モデルガンの薬莢は実弾そっくりの形状をしている。異なっているのは、火薬の入る部分がほとんどないという点だ。それは二つの部分からなっている。中空の円筒と、その開口部にきっちりとはまる、太さ三ミリのピンだ。このピンが薬莢内部の空洞をほとんど満たし、紙火薬が入るだけの余地しか残さない。射撃音を楽しむにはそれで十分だ。ばね仕掛けのハンマーが、薬莢のピンを打ち、回転弾倉に仕掛けられたファイアリング・ピンとの間で火薬を炸裂させるのだ。弾丸を発射するためには、薬莢内部の空洞を広げ、火薬の入る場所を確保する必要がある。ボール盤を使えば簡単な作業だ。僕は、出来上がった薬莢の先に釣り用の錘を削った弾丸をはめ込んだ。

 

「ここから火薬をつめたら良いんやな。」

 和やんが、薬莢の底に開いた三ミリの穴を指さし、紙火薬に手を伸ばす。銃身に照準を付け終えていたタマやんが声を潜めて言った。

「ここでせん方がええで。どっか行こう。」

「これてやっぱり犯罪やからな。試し撃ちするんやったら、人のおらんとこに行かなあかんな。」

 堀は「犯罪」という言葉の響きを楽しみ、低い声で話すのがうれしくてたまらないという風だ。

「猪野熊組か?」

 タマが言う。猪野熊組というのは、鉄パイプ銃を試した造成地のことだ。この工事現場の道路に面する側には、木で作った高さ三メートルほどの門扉と塀があり、部外者が入れないようにしてある。その門扉に白ペンキで書かれた施工業者の名前が猪野熊組だった。それを僕たちは造成地そのものを表わす名前として用いていた。

 タマの提案に僕たちは声をそろえて異議を唱えた。

「遠すぎるで。」

 自転車に乗って十五分の距離を遠いと言ったのは、もちろん、できあがった銃を早く撃ってみたくて仕方なかったからだ。銃と実弾をもって僕たちは、学校近辺の竹薮に入った。鉛玉をはめ込んだ薬莢を取り出し、ピンを刺し込む穴から紙火薬をほぐして作った火薬を入れる。火薬をそんな風に扱うのがどれほど危険な作業かを僕たちはまだ知らなかったのだ。暴発しなかったのは単に運が良かったからだ。

 

 堀が紙で作った的を竹の一本に貼り付け、和やん、タマとともに僕の背後に回った。僕は的に狙いを定めた。心臓が緊張のあまり、胸の奥であがき始める。トリガーを引くと、ゆっくり撃鉄が持ち上がり、弾倉が音を立てて回り始める。撃鉄は、鋼の板バネを極限までたわませたあと、カムによる支えを失って、素早く正確に薬莢を叩いた。耳に詰めたティッシュを突きぬけて、銃声が脳天を貫く。弾丸は的にかすりもしない。ため息をもらそうとした時、背後で鈍く竹の砕ける音がした。青ざめて振り向いた僕たちは目を見開いた。斜め後ろの竹が光沢のある肌をひび割れさせて、白いささくれを放射状に突き出していたからだ。弾丸が当たったのだ。最初何故そんなことになったのか理解できなかった。いくら、改造拳銃といっても、銃弾が後ろに飛ぶなんてありえないことだ。

 的に近づいた和やんが「おい」と声を掛けて、さらに一メートルほど手前の竹を指差した。竹には、数ミリの幅で水平に溝が彫られている。探すと他にも同じような竹が見つかる。そして、そのマークにそって歩いて行くと、ついには、弾丸に砕かれた竹にたどり着いた。跳弾だ。竹は丸いため、よほどうまい具合に命中しない限り、弾丸をはじいてしまう。弾丸は複数の竹にはじかれるうちに、僕たちの背後にまわったのだ。

「危ないとこやったな」

 和やんが呟いた。

「やっぱり猪野熊組でやったほうが良かったで。」

 タマが蒼い顔をして言う。

 もちろん、その後も猪野熊組には行かなかった。弾丸が竹でなく、僕たちの一人に命中し、白いささくれではなく、赤い血しぶきを放射状に吹き出させることもありえたのだ。内臓を焼け付くような熱の棒が貫き、下半身が痺れたようだったし、ひどい疲れを感じて、早く布団に潜り込みたいというような気分を誰もが味わっていた。ホックと第一ボタンをはずしたままの詰め襟から、僕は熱く匂いたてる自分の体臭を感じた。

 拳銃を竹の子の掘り跡にほうり込んで二度と目に付かないようにしたい。僕がそう言うと皆が同意した。直径数十センチ、深さ一メートル足らずの竪穴に銃をほうり込むと、撃鉄の動く音がした。上から土をかけてしまうと、僕たちはそうするのが当然だという風に、一言もしゃべらずに、それぞれの自宅に帰った。

 

 帰ると、祖母は珍しく外出しており、家には誰もいなかった。ベッドに横たわって目を閉じると、背中をかきむしられるような落ち着きのなさを感じ、頭の中には「あっ」という叫び声が引っ切りなしに浮かんでは消えた。ささくれた竹を思い出すたびに、身震いが起こり、背筋を鳥肌の波が逆巻いた。何度も寝返りを打った後、僕は起き上がり、キッチンから小さなグラス一杯のウィスキーをとってきた。最初は舐めるように飲んでいたが、体内の隅々を食い荒らす落ち着きのなさはおさまらない。グラスの半ばまで残ったウィスキーを一息に飲みほすと、ウィスキーが気管支に流れ込み、僕は猛烈にむせ返った。咳が止まった時、ようやく思考の奔流が酔いに塞き止められて行くのを感じた。布団の中でペニスをまさぐると、夢の中のエミコが眉根を寄せる情景が浮かびあがり、僕はあっという間に射精した。生臭く匂いたてる丸めたティッシュをベッドの脇に落とすと眠気が僕の全身を覆い尽くした。

 

 ショックからいち早く立ち直ったのは和やんだった。一週間ほど経って、元気を取り戻したタマと堀と僕が和やんの部屋に久しぶりに行くと、土に埋めたはずの銃が机の上に置かれている。

「なんや、これとって来たんか?」

 間一髪の差で命拾いしたあの事件は、もう夢の中の出来事のように鮮明さを欠いたものとなっていたから、僕は気軽に問い掛けた。事件の翌々日には掘り出したらしい。和やんは笑いながら言った。

「要は竹林で撃たへんかったらええんや。」

 僕たちは何のためらいもなく、猪野熊組に行くことにした。

 

 紙火薬の赤い紙を丁寧にはがし、小さな火薬の塊を幾つも取り出して、僕たちは四発の銃弾を作った。全弾を回転弾倉につめて連射してみたかったが、これはあきらめた。火薬は非常に発火しやすい。紙火薬をほぐしていると、何回かに一度は音をたてて燃え始めた。そんな不安定な物質を目一杯詰め込んだ銃弾を回転させるのは危険きわまりない。僕たちも少しは賢くなっていたのだ。

 改造拳銃の破壊力は想像以上だった。厚さ九ミリのラワン板が、たやすく撃ち抜けた。

「連射でけへんかな。」

 和やんは僕に許可を求めるように尋ねた。タマも堀も反対し、僕ももちろん反対した。火薬がどれほどデリケートな扱いを要するかが、分かり始めていたからだ。

「瓶につめたかんしゃく玉なんか無茶苦茶危ないて聞いたことがあるで。ちょっとしたショックで爆発するんやて。この弾丸かて同じやろ。一杯火薬が詰まってんねんから。」

 タマがこんな風に話すと和やんもさすがにあきらめた。

 

 学年末試験の返却が終わり春休みがやってきた。終業式の朝、和やんが言った。

「この前の雑誌見つかったで。ベッドの下に落ちてたんや。」

 自宅で昼食を食べ終えると、僕たちは和やんの部屋に集まった。雑誌には薬莢の断面図が載っており、銃弾の中に詰め込まれた火薬をパウダーと呼ぶことを僕は初めて知った。とりわけ驚いたのは、パウダーが極めて安定した燃焼材だという事実だ。まるで細かな紙片のようなそれは金槌で叩いても炸裂しない。衝撃で発火するような火薬はパウダーの着火のみに用いられるのだ。パウダーそのものがどういう物質なのかをその雑誌は一切解説していなかった。けれども、和やんは僕の解説を聞いて、あっさりこう言った。

「なんやそれ、爆竹と一緒やんか。」

 和やんは大きなカッターナイフを取り出して、不安げに見守る僕とタマと堀の目の前で、爆竹を縦割りにした。火薬が使われているのは導火線の部分だけだった。厚紙で作られた筒の中には細かな銀色のアルミ粉末が詰められている。和やんはそれを紙片の上に集めると、庭の平たい石の上に置き、ハンマーで叩いた。何も起こらなかった。

 

 春休みの学校は普段以上に無防備だ。ほとんどの教員は新学年の準備に忙しいし、わずかの暇はクラブ活動の指導にあてられる。職員室から離れた特殊教室に注意を払う教師は一人もいない。春休みの第一日目、僕たちは技術準備室で完璧な銃弾を完成させた。猪野熊組での試射は十分満足の行くものだった。苦労して運び込んだ廃品のテレビは、何発もの銃弾を撃ち込まれて穴だらけになった。

 二週間の休みの間に僕たちは和やんの持っていたモデルガンをさらに三丁改造した。和やんは最後に完成したコルト・ガバメントを自分のものにし、タマにはワルサーP38を、堀にはコルト・パイソンを与えた。S&W・M36は僕のものになった。もちろん、ガバメントが一番出来が良かった。ちゃんとブローバックして、連射することができた。ワルサーは弾込めを手でしなければならなかったし、M36はもともと口径が小さい。けれども、一番不満気だったのは堀だ。銃身を付け替えられたパイソンには、もはやかつての面影が全く残っておらず、非常に不細工だった。和やんのベッドの下に隠されたパイソンを取り出すたびに、堀は

「これ、もうちょっと何とかならへんかな。」

 と文句を言った。それでも、堀が僕に銃の交換を強要しなかったのは、パイソンが大型の薬莢を装填できる弾倉を備えており、破壊力が凄かったからだ。

 

 理科準備室でアルミとマグネシウムの粉末を見つけた時、僕たちの銃は少なくとも機能の面で完璧の域に達した。理科準備室の扉は例によって施錠されていなかったし、薬品棚の鍵は針金で簡単に開けることができた。広口の大きなプラスティック瓶ごと粉末を盗み出した僕たちは、爆竹を半分に割ってわずかなパウダーを取り出すという、単調な作業をもはやしなくて済むようになった。毎日練習した僕たちはめきめき射撃の腕を上げた。三メートルほど離れたコーラ瓶なら、かなりの確率で命中させられるようになった。瓶を撃ち抜くたびに自分が大きく強くなったような気がした。

 

 新学年が始まった。発表されたクラス編成は教員たちの意図をあからさまにしていた。六クラスのうちの一クラスには、成績上位者が集められ、タマはそのクラスになった。僕と堀は同じクラスに組み入れられたが、それは他の三クラスと同様、平凡な生徒たちを寄せ集めて編成されていた。最後の一クラスには、赤居の不良グループを含む成績下位者が集められ、和やんはそのクラスになった。驚いたことに、そのクラスの男子生徒のほとんどが学らんを着ており、パーマをあてている者も少なくなかった。春休みの間に不良生徒の数が倍増していたのだ。女生徒のなかにも、長い丈のスカートをはいた者や、口紅を塗っている者が多い。大掃除と学活が終了して和やんを誘いに行った僕は、教師たちの読みが概ね正しかったことを認めずにおれなかった。彼らは先を読んで掃き溜めクラスを作ったのだ。教室を出て、僕は囁いた。

「えらい組に入れられたな。」

 和やんは浮かない顔でうなずく。和やんは背が高く、がっしりした体つきをしているが、喧嘩は強くない。気弱なところがあるのだ。もちろん、そう言う僕も喧嘩は弱いしタマも同様だった。堀だけが少なくとも小学校時代には喧嘩が割合強かった。

「成績だけでワルの部類に入れられたんや。」

 教室を離れ、同級の者に聞きとがめられることがないのを確かめてから、和やんは顔を引きつらせて言った。

 

 和やんの部屋で、タマも堀も僕も、教師たちを徹底的にこきおろした。

「掃き溜め教室を作ったんはええんや。そら正しい選択やで。去年なんか、赤居のおるクラスは授業にならへんかったらしいからな。」

 堀の言葉に僕は全面的に同意した。

「僕なんか隣の教室やったから、鬱陶しかったで。英語の原が殴られたんも全部聞こえとった。」

「そら、俺のとこでも聞こえたわ。『なにするんや』いう原の声が聞こえた思えたら、眼鏡が割れる音したやろ。」

「そやそや、僕のとこ、数学の授業やったけんど、久保田に『行かんでええんか』て誰かが言うたら、嫌な顔して、『ま、大丈夫でしょ』やで。助けに行かへんねん。」

「しゃあないで。行っても殴られるだけやしな。あいつら教師なんか問題にしてへんで。」

 タマが顔をしかめて言った。

「そやけど、同じ教師やろ。何で止めに行かへんねん。」

「そら無理やて。教師かて怖いで。だいたい、そんなことはどうでもええんや。問題は和やんやで。何で和やんが掃き溜め教室に入れられなあかんねん。」

 和やんは僕たちがまくし立てるのを黙って聞いていた。あまりの不運に呆然としているらしい。

 和やんは成績こそ悪いが、断じて非行少年ではないし、そうなる可能性もない。僕たちは皆そのことを良く分かっていた。和やんはあいつらみたいに、馬鹿ではない。英語に関してはタマでさえ全然太刀打ちできない。生まれつき優れた耳をもっている和やんは、映画で聞き取った意味も分からないフレーズを覚えておいて、家に帰ってから辞書を引くことができるのだ。音楽のセンスも抜群だ。一度聞いたメロディーをそのまま繰り返すことができるし、しかも、ピアノとギターを弾くことができて、『天国への階段』を原曲のキーで歌うことができる喉をもっている。他人を脅したり、殴ったりする能力だけに長けた、不良たちと和やんは全く異質の存在だ。成績だけで、和やんを掃き溜め教室に放り込んだ教師たちを、僕たちは許すことができなかった。

 

「なってもうたもんはしゃあない。とにかく目立たへんように大人しいしとくわ。」

 ようやく、和やんが口を開いたとき、ノックの音がした。エミコだ。自慰をする時に必ずエミコの姿が浮かぶ。そのことを僕は和やんにも言っていない。エミコを呼びつけるのは今や堀の役割だが、それを図々しいと感じることも、誰にも言っていない。

 

 春休みのある日、僕は始めて和やんの部屋以外の場所でエミコを見た。和やんの部屋に向かう途中、駅のホームで電車を待つ姿が見えたのだ。何時ものようにエプロンはしておらず、膝あたりまでのスカートを履いて、白い薄手のセーターを着たエミコは化粧をしていた。ホームの下から見上ている僕に気づいて軽く会釈してくる。

「今日はお休み? どっか行くん?」

 僕が尋ねると、エミコが鉄柵の上からこちらをのぞき込んで言った。

「映画。友達と会うねん。」

 ホームはそれほど高くないから、上からのぞいている顔は、一メートルほどのところだ。にきびの化膿がすっかり直っている。それだけでなく、初めて見た時よりも、にきびの数がずっと減っているのに僕は気づいた。赤い唇が動き和やんのことを何か話し始めようとした時、電車が来た。

「またね。」

 エミコは柵から離れ、ホームの線路側に近づいて行く。僕は列車の扉の向こうに吸い込まれるまで、人造皮革の黒いスカートの下に白く光るふくらはぎから目を離すことができなかった。

 

 扉が開いて、コップを並べた盆を手にエミコが現れた。ハレーションのため、最初誰も気づかなかった。異変に真っ先に気づいたのは僕だ。他の三人はもううつむいてガンマニアの専門誌を覗き込んでいる。僕は顔中の血管が熱く膨張するのを感じた。眼鏡がどれほど目を小さく見せるかを僕は知らなかったのだ。エミコの目はどちらかといえば大きかった。

「眼鏡どないしたん?」

 僕が尋ねると、皆が顔をあげた。少しうるんだ瞳をこちらに向けてエミコは微笑み、

「コンタクトにしてん。」

 と言った。

「コンタクトにしたら奇麗になったな。」

 和やんが発した言葉を僕は嫉妬の念をもって聞いた。それこそ僕が言いたかった言葉で、しかも、僕には絶対思い付かない言葉だったからだ。思い付けたとしても和やんほどさりげなくは言えなかったに違いない。

「奇麗て、ようやく普通程度やで。」

 エミコが出て行った後、堀が冷ややかにそう言い、タマは笑ったが、僕と和やんは笑わなかった。

 

 

 夕方、家に帰って僕はうんざりした。叔母がまだ家にいたからだ。叔父の浮気が原因で夫婦喧嘩をし、祖母の部屋に転がり込んできてもう一週間以上になる。そのとばっちりを僕はもろに食らっていた。祖母がトコロテンのように僕の部屋に押し出されてきたのだ。叔母は鼻が悪く大鼾をかく。僕の部屋でもうるさいほどだ。叔母がやって来た翌朝、眠れなかった祖母は今日から僕の部屋で寝ると言い出した。もちろん、僕は絶対に嫌だと言い張った。だが、父がいきなり大声で怒鳴りつけ、祖母の布団を僕の部屋に運び込むように命じたのだ。居候の叔母が一部屋を使い、この家の息子である僕が祖母と部屋を折半しなくてはならないという理不尽に、涙ぐむほど憤りを感じたが、父は有無を言わせない態度を押し通した。僕はふくれっ面をして布団を運ばなかった。だが、叔母が勝手に運び込んでしまい、僕の部屋は独立を失った。解放がいつやってくるのかも分からない。父も母も叔母に同情的で、叔父が頭を下げて迎えに来るまで、叔母の面倒を見ると明言しているし、叔母も自分から頭を下げるつもりなど全くないからだ。

 太って暑苦しい顔をした中年女が茶をすすりながらテレビを見ている。玄関で靴を脱いでいる僕に女は言った。

「お帰り。おばあちゃんな、私の家に着替え取りに行ったはるわ。」

 余計なことをと思ったが、僕は「あ、そ」とだけ言って、階段を駆け上がり自分の部屋に入った。本棚がない。階段を上る足音がし、叔母が姿を現して言った。

「本棚なあ、おばあちゃんの部屋に移したで。ほら、おばあちゃんが、狭あて寝苦しい言うとったやろ。おばちゃんな、ちょっと張り切って、動かしたんや。本棚て重いなあ。最初、そのまんま動かそ思てんけど、全然あかんねん。しゃあないから、全部本出して、本棚だけ運んで、後から本をつめたんや。腰痛あなったわ。」

「何でそんな恩着せがましいこと言われなあかんねん。お前が早よ出ていったらええだけのことやんけ。」

 僕はそう思って、頭に血が昇るのを感じたが、黙っていた。叔母は言うだけ言うと階段を降りて行った。自分の留守中勝手に部屋を触られたことで、苛々して何もする気になれなかった。ベッドに寝転んでエミコのことを考え始めたが、隣の部屋で叔母が息を潜めているような気がして没頭できない。学校でも家でも頭から押さえ込まれている。面白いのは和やんの部屋だけだ。僕は思った。

 

「ええ下敷き持ってるな。」

 入学式の日、最初に声をかけてきたのは和やんだった。隣に座っていたタマが「モーゼルやな」と下敷きをのぞき込んで言う。僕は顔を赤くしてこたえた。

「これモーゼル言うのんか? 僕マウセルやと思てた。」

 下敷きにはMAUSERと綴ってあった。寄ってきた堀が笑って言う。

「こいつ小学校の時、ジャイアンツをジイアンツスて読みよってんで。英語のこと全然分かっとらへん。」

「モーゼルはフランス語読みや、英語やとマウザーやで。ドイツ語読みするとマオゼルになるんや。」

 今度は堀が赤くなり、僕とタマは「物知りやな」と声をあげた。

「こんなこと雑誌見たら、なんぼでも書いてあるで。」

 謙遜してそう言ったが、実際和やんは色々なことを知っていた。僕たちは和やんの部屋に行って初めて、ビートルズやレッド・ツェッペリンを聞いたし、太宰治と芥川龍之介の名前を覚えた。和やんはサバイバルにも詳しく、地図とコンパスを使って、山中で自分の位置を完璧に把握できる。

 僕たちは和やんに連れられて何度も近場の山を登った。二〇キロ近い荷物を担ぎ一日の大部分を歩いて過ごす泊まりがけの登山は本当に苦しかったが、そのおかげで僕たちは一層親しく、分かり合えるようになった。和やんと堀とタマ、それに僕、四人は仲間だ。そう思うと、家の中のごたごたやうんざりする学校生活は、どうでも良い些細なことに思えた。階下で物音がする。両親と祖母が同時に帰宅したようだ。

 

 夜中に目が覚めた。一週間にも及ぶ禁欲生活は、十四歳には長すぎる。下着の中に差し込んだ手の指には、粘る液体が絡み付いていた。夢の中のエミコは黒皮のスカートに空色のタートルネックを着ていた。赤く湿り気を帯びた唇は何かを言っていたが、目覚めた後では、それがどういう内容の話だったかも思い出せない。僕はエミコのスカートをまくりあげ、ペニスを透き通るような太股の間に押し込もうとした。体を支える左手の下で眼鏡がひしゃげ、「コンタクトは?」と聞こうと思ったとたん、エミコのぬるりとした股間に手があたって射精してしまった。

 濡れた下着が下腹を冷やし始める。身動きするのはためらわれた。ベッドと部屋の入り口の間に祖母が寝ているからだ。精液にひたった下着は、食用蛙の白い腹の感触を思い出させる。ぬるぬるとして、ぞっとするほど冷たい。結局、僕はそっと起き出して、祖母を踏みつけないように歩き、階下のトイレに行った。トイレットペーパーでぬぐってもコットン地は濡れ膨れたままだ。着替えるためには祖母を起こし、押し入れの中の箪笥を開けなければならない。僕はあきらめて再びベッドに潜り込んだ。

 

 翌日学校で、僕と堀は憂鬱な顔で時間割表を眺めていた。先に気づいたのは堀だった。僕たちも掃き溜め組と無縁ではなかった。サッカーなどで複数のチームと試合ができるよう、週に一回、二クラス合同で体育の授業が行われる。僕たちのクラスが一緒に授業を受けるのは掃き溜め組なのだ。

 不良たちは体育の授業だけは熱心だ。スポーツが得意なやつは張り切っている。女生徒の前で格好を付けることができるからだ。もともと野球部に属していた赤居とバスケットボール部に属していた大垣はその典型で、しかも気が荒い。彼らがいるチームと試合をした者は必ず嫌な思いをする。事故で体の一部が接触しただけでも、一発や二発は殴られるのを覚悟しなければならない。痛みを感じさせるほどの接触をしたら最後、その数十倍の苦痛を味あわされる。

「去年のサッカーの試合で、三上が大垣の足を蹴ってしもたんや。ぼこぼこに蹴り返されとったで。」

 堀は思い出すのも嫌だという顔で言った。

「僕なんか普通に試合しとるだけで赤居に殴られたで。」

 一年の時、バスケットの試合で三度、赤居へのパスを横取りした僕は、四度目にいきなり殴られた。赤居のシュートを叩き落として、股間を蹴り上げられたやつもいる。僕がそう言うとバスケットボールが得意な堀は顔をしかめた。

 和やんはひたすらクラス内で目立たないようにしていた。授業のチャイムが鳴り終わり教員が部屋の中に入るまで、廊下で待っている。授業が終わればすぐに僕と堀の教室にやってくる。それでも和やんは安心できなかった。

「教室で煙草吸うてるんや。床にいっぱい吸い殻が落ちてる。教師の誰も文句言わへん。もし、授業中に殴られても、誰も止めてくれへんで。」

 

 僕たちが威勢良く振る舞えるのは、放課後だけだった。和やんの部屋の中では、赤居や大垣、そして二人を取り巻く不良たちをトラッシュ、つまり屑人間と呼び、彼らが軟らかで張りのある筋肉のほかに何の才能を持ちあわせていないことを嘲笑った。猪野熊組では、瓶や缶を打ち抜く時に、「死ね大垣」とか「死ね赤居」と叫ぶのが常態になった。

 教室の中で息をひそめなくてはならない和やんはとりわけトラッシュを憎んでいた。そもそもトラッシュという命名は英語の得意な和やんによるものだったが、和やんの好きな音楽も英語も掃き溜め教室では授業が成立しなかった。音楽は三十代の醜い女性教師が担当だったし、英語は背の低い気弱な中年教師が担当していたからだ。彼らは我が物顔の生徒と私語と騒音に満ち溢れた教室で、教科書を朗読し、ピアノを弾いたが、目を活字や鍵盤から離すのは板書をする時だけで、決して生徒たちの方を見ようとはしなかった。彼らは空気を相手に授業をしていたわけだが、その姿はさながら好き放題に振る舞う生徒がもう一人教壇の上にいるようだった。教壇は教室の中心ではなく、周縁の一つにすぎなかった。

 

 五月、体育の授業種目が長距離走から柔道になると、それまでさぼりがちだった赤居と大垣が俄然張り切り始めた。体の大きな和やんを投げ飛ばせば目立てる。赤居と大垣は内股から一本背負いに移る連続技で、和やんを執拗に投げ飛ばした。それを見た比較的体格の小さなトラッシュたちも、自分に格好の相手を見つけ、同じことを始める。本来なら、交互に投げ技と受け身の機会を与えあうのだが、トラッシュたちは一方的に投げ技をかけ続けるのだ。僕も目を付けられ、受け身の練習ばかりさせられた。

「あいつら人を人形か何かと思てるんちゃうか。」

 僕と和やんは吐き捨てるように言ったが、それはもちろん、学校の外でだった。

 

 やがて、僕たちは体育の時間以外でも、掃き溜め教室と無縁ではおれなくなった。どの教室にも、トラッシュに追随して、髪を染めたり、学らんを着る者が現れ出したが、その傾向は、掃き溜め教室と隣接している僕らの教室で一番目立った。そうした同類とつるむため、僕たちの教室にもトラッシュどもが頻繁に出入りするようになり、教室の床は煙草の吸い殻とジュースのブリックパックだらけになった。

 最初僕たちは、ちゃんと掃除をしていたのだが、ある日突然馬鹿馬鹿しくなった。ジュースの残ったブリックパックをトラッシュの一人が踏み潰し、床に粘つく液体を飛び散らせた。授業中、液体に上履きをへばりつかせた教員は、誰がやったのかと尋ね、赤居たちの名を聞くと、疲れた顔をして、「掃除しておくように」とだけ命じた。だが、最も真面目な生徒たちでさえ、その言葉に従うことはなかった。そして、その日から僕たちの教室は汚れ放題になった。最初文句を言う教員もいたが、クラスで一番優秀な生徒が、「隣の連中が汚して行くんですから、彼らに掃除をさせれば良いじゃないですか」と職員室で詰め寄って以来、誰も何も言わなくなった。

 

 掲示板のビニールクロスが剥がされ、補助黒板に拳大の穴が空いた。教卓の引き出しは全部壊されて開かなくなり、掃除用具入れの扉は蝶番がはずれ、窓際に立てかけられた。机の化粧版が剥がされ、下敷きなしには試験の答案を書くことができなくなった。教室の後ろに板を井の字型に組んで作られたロッカーは、棚板を何枚も踏み割られて使用不能になった。すべてがトラッシュの仕業だったわけではない。机を鋸で真っ二つに切り始めるやつもいたし、使われていない教室の蛍光燈を箒の柄で突いて次々に割るやつもいた。トラッシュではなく、坊ちゃん刈りに寸詰まりの学生服を着た普通の男子生徒だった。僕と堀も机の天板を剥がしたり、大便所のドアを何度も蹴飛ばしてついには破壊したりした。

「赤居とか大垣だけが何やっても許されるちゅうのはおかしいからな。」

 堀は言いながら、理科実験室の薬品棚のガラスを割り、中からもう一つ残っていたアルミパウダーのプラスティック瓶を取り出した。

「赤居とか大垣は音楽室からギター盗んだんや。」

 僕は言いながら、技術室の卓上旋盤をケースごと盗み出し、和やんの部屋に隠した。ボール盤は重くて動かせなかった。

 

 翌日、制服を着た警察官二人と私服の刑事二人が学校にやってきた。朝の学活で担任が、最近学校の備品が頻繁に盗難に遭っていることを生徒たちに伝えた。

「昨日は技術室と理科室がやられました。」

 今はすっかりクラスに対する指導力を失った中年男が凄まじい私語の嵐をかいくぐって言う。

「夜間に盗まれたものですから、多分、泥棒でしょう。今警察の人が捜査しています。」

 僕と堀は青ざめた顔を見合わせた。手袋も何もしていなかったから、戸棚や机に指紋がべたべた残っているはずだ。一時限が終了すると、タマがやって来て、僕と堀に尋ねた。

「どないする。自首するか?」

「大きい声出すな。」

「そやかて。」

 堀は半泣きになっており、僕もチック症状みたいに頬がぴくぴく震える。和やんが言った。

「指紋残ってたって大丈夫や。お前ら指紋取られたことないやろ。指紋が出たかて誰のもんかわからへんで。全校生徒の指紋なんかとったら大騒ぎになるから、絶対せえへん。」

 警察は昼前に帰っていった。和やんの言う通り僕たちは指紋を取られなかったし、盗難事件はそれっきりになった。赤居や大垣は公然と音楽室から盗んできたギターを教室に持ち込み、授業中にもストロークの音が僕たちの教室にまで聞こえてきた。何をやっても許されるという気分が教室中に蔓延した。

「夜間に盗まれたものですから、多分、泥棒でしょう、やて。昼間に盗まれたら泥棒ちゃうんかい。」

 僕自身余裕を取り戻してからはこんな風に担任教師の言葉を嘲笑ったものだ。

 僕たちの教室でももはや授業は成立しなくなったし、隣の教室の備品も破壊され始めた。平穏だったのは階の異なる、タマのクラスとその隣のクラスだけだった。掃き溜め教室と同じ三階にある、四つの教室には夏休み前までに、まともな備品がなくなった。光沢のある天板がまだ付いている机、棚板のつぶされていないロッカーは、トラッシュたちのものだった。

 

 夏が近づくにつれ、ジュースを運んでくるエミコは次第に薄着になり、僕は一層情欲の熱に浮かされるようになった。叔母は一月ほどで叔父のもとに戻ったから、家族が寝静まった後、毎晩のように自慰をした。教室内のすさんだ雰囲気そのままに、僕は毎晩嫌がるエミコを犯しつづけた。

 エミコが毎週日曜日には休みをとり、九時二十七分の電車にのって、県庁がある街の映画館に通うことを僕は知った。二週か三週に一度、その時間に偶然のように駅前を通り掛かり、二言三言言葉を交わす。想像の中ほど、美人でもないし、スタイルも良くないが、薄らと化粧をして、普段よりは身奇麗な格好をしたエミコと話すのは楽しい。その時だけは、毎夜の想像が後ろめたくなったし、胸にかすかな痛みさえ感じた。

 祖母が服用する漢方薬を県庁のある街に買いに行かねばならなくなった時、僕は九時二十七分の電車に乗ることにした。叔母が帰って一週間も経たないうちに祖母は急に体調を崩し始めた。医者嫌いの祖母は漢方薬しか信じない。二週間に一度日曜日に母が買ってくるのだが、その母も夏風邪で体調を崩してしまったのだ。

 日曜日の朝、僕は上機嫌だった。祖母が特別に小遣いをくれたし、滅多に行けない繁華街に行けるのはうれしいものだ。だが、何よりも三十分間エミコと同じ列車に乗ることができる、その予想が僕を有頂天にさせていた。駅にたどり着くまでの間、恍惚とするような喜びの波と甘美な不安の波が交互に押し寄せ、僕の脳髄は翻弄され続けた。エミコと二人きりで話すことができるのはうれしいが、何を話したら良いのかまったく見当がつかない。突如、夜毎のエミコのイメージが思い出され、もう二度とあんなことはしないぞ、と僕は誓った。僕はエミコのことが好きなのだ、そう思ったとたん、熱い血流が頬や耳に押し寄せて、道のど真ん中で僕は顔中を真っ赤に染めた。

 映画に誘われたら? 僕は考えた。祖母のくれた五千円札が財布に入っている。映画を見て喫茶店に行っても大丈夫な額だ。喫茶店に入ったことなどなかったくせに、そう思った。一緒に映画に行くという友達が男だったら? 一瞬浮かび上がったその不吉な考えを僕は頭を振って追い払った。もし映画のことをエミコに聞かれたら? 僕は『ダーティー・ハリー』と『ゾンビ』、それに『スター・ウォーズ』しか知らない。もう一度頭を振った。自分がどんどん緊張していくのが分かった。エミコが本当は僕のことを嫌いで、全然話をしてくれなかったら? けれども、すんでのところで僕は立ち直った。エミコと一緒に時間を過ごせる。そう考え直しただけで、脳の危機感をつかさどる部分が弾け飛び、後には快楽中枢しか残らなかった。駅に到着した時、時刻表の隣についた時計はまだ九時十分を表示していた。

 

 二台目の列車を見逃した後、僕は苛々し始めた。時計は九時三十分を回っているがエミコは姿を現さない。約束をしていたわけでもないのに、エミコに腹が立つ。もう待ってやらないからな。そんな風に心の中で呟きながら九時四十三分の列車を見逃し、九時五十八分の列車の扉が閉まるのを外から眺めた。暑くなり始めていた。曇天の下、汗がへばりついて流れる脇腹を他人のもののように感じ、セミの鳴き声が耳鳴りのように遠くに聞こえる。いつまでも待ってられるか。僕は悪態を吐きながら十時十三分の列車に乗った。クーラーはなかった。

 

 暗く細い路地の隅に追いつめられたエミコは目を大きく見開いていた。ティーシャツは首周りから腹にかけて破れ、ブラジャーが裂け目からのぞいている。ジーンズ地のスカートが乱暴な手で剥ぎ取られ、パンティーが引き降ろされた。エミコは、やめて、やめて、と大きな声で泣き叫んでいるけれど、不良少年たちは容赦しない。髪を赤く染めた大柄な少年がエミコにのしかかる。やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、やめて、叫びたてているのは僕自身だった。虫食いだらけの歯を覗かせて、にやにや笑う目の細い不良少年は僕の乳房を揉みしだき、僕の女陰にペニスをあてがった。首筋をざらざらとした舌が嘗めまわし、自由を奪われた右手には別の少年のペニスが押しつけられている。目覚めた時、僕はまだ肌が粟立っていたし、首筋から胸を濡らす汗は不良少年の唾液を思わせた。

 たしかに、夢の中のエミコは僕自身だったのだ。日曜日の昼前、祖母の漢方薬を買い終わった僕は、エミコが見つからないかと、三軒の映画館が立ち並ぶ大通りをうろうろしていた。見るからに田舎者の身なりが、あたりをうろつく不良少年たちの関心を惹いたのだろう。僕は前後左右を四人の少年に挟まれて、狭い路地に引っ張り込まれた。真っ黒な虫歯を何本も取り揃えた汚い口が言った。

「俺らな、財布落として困ってるんや。ちょっと貸してくれへんか。」

 僕は引きつったおもねり笑いを浮かべ、震える声で言った。

「僕もお金ないねん。」

 目から火花が出て、一瞬何が起こったのか分からなかった。振り向くと拳を固めた、長身の少年が僕をにらんでいた。虫歯は繰り返した。

「俺らな、財布落として困ってるんや。ちょっと貸してくれへんか。」

 泣き出しそうになりながら、それでも笑みを絶やさず財布を差し出すと、醜い笑いを浮かべた虫歯がきいた。

「帰りの電車賃はいくらや? 貸しといたるわ。」

 その時の光景を体中をかきむしりたくなるような苛立ちとともに何度も思い出した。けれども、とりわけ僕を打ちのめしたのは、夢の中での自分自身のあまりにも情けないイメージだ。不良少年たちがエミコを犯そうとしている時、僕は引きつった笑いを浮かべて、そして勃起していたのだ。僕は恥と無力の底無し沼に落ち込んだ。僕はあの不良少年たちに輪姦されたも同然だった。体だけでなく心もたやすく屈服してしまったのだ。エミコが犯される夢を思い出し、僕は何度も自涜した。

 

 恥を匂いたたせる人間は、同類の匂いにも敏感だ。月曜日、猪野熊組で和やんが大声で叫ぶ「死ね赤居」、「死ね大垣」に僕はそれまで気づかなかった無力の体臭をかいだ。その週の土曜日、試験勉強をすると家族に言って、和やんの部屋に泊まり込んだ。そして、僕たちは恥辱の膿を流す傷痕を見せ合ったのだ。和やんは赤居や大垣たちに恒常的に恐喝されていた。

「最初に失敗してん。初めて金取られた時に、十分渡したら二度とやられへんやろうと思たんや。そやから、一万円渡してしもた。」

 確かにそれは大失敗だ。僕を脅せば法外な儲けになりますよ、と宣言したようなものだ。実際、赤居たちはこの三ヶ月ほどの間に、何十回となく和やんを脅し、取られた金は三十万近かった。一度は和やんの家にまでやってきて、数万をせびり取ったという。

「そんだけの金、どこから手に入れたんや。」

「小学校の時からのお年玉の貯金があるんや。たいていのもんは、買うてくれるさかい、五十万くらいそのままになっててん。……もう二十万ほどしかないけどな。」

「何で親か警察に言わへんねん。」

「ほなら、お前はかつ上げされた時警察に言うたか?」

 和やんは大きな声を張り上げ、僕は黙り込んだ。確かに、誰にも言っていなかった。あの日曜日、昼前に家に帰ってきた時、祖母と母に、「どや、楽しかったか」と聞かれて、僕は満面に笑みを浮かべうなずいたのだった。

 奪われたのは金ではなかった。自尊心だった。警察も親も教師も、自尊心を取り戻してはくれない。

 和やんがすすり泣き始めた。僕も喉と鼻が痙攣し始めた。鼻水が垂れ、和やんの顔が滲み始める。けれども、その時、何かが腹の底から立ち上がり始めたのだった。喉元を突き上げるような怒りと、追い立てられるような焦燥感が僕の体をがっしりつかむ。死ぬほど自分を恥じる二人が顔を突き合わせて、甘い涙を流して傷を舐めあうのは無益だ。それはもっと恥ずかしいことだ。もっと情けないことだ。腹の底の何かがそう教えた。無理矢理衣服を剥ぎ取られ、肛門に茄子を突っ込まれて、ワンワンと犬の鳴きまねをさせられたうえ、小便を頭から引っかけられた人間が自尊心を取り戻す方法は一つしかない。

「赤居と大垣を殺したろ。この世から抹殺するんや。」

 僕が言うと、和やんもうなずいた。僕たちの腹の底にあったのは自尊心の卵だった。それを孵化させるには、焼き尽くすような血の熱さが必要だった。

 

 翌日、僕たちは堀とタマを呼び出して、事情を話した。二人は和やんの苦境を知って猛り狂った。

「あいつら人間ちゃう。骨の髄まで腐ったやつらや。」

「人をなんやと思とるんや。自分がそういう目に遭うたら、どんな気がする思とんねん。」

「和やん。あんな奴らに金渡したらあかん。」

「そや、あいつらつけあがるだけや。」

 僕は二人の反応を見ているうちにうんざりしてきた。金を渡さない場合和やんは袋叩きにされるわけだが、二人は代わりに殴られようという決心をしているわけではない。思いつくままに言葉を並べ立てているだけだ。堀が言い放った。

「あんな奴らは、脳天にマグナム弾を撃ち込んだったらええねん。」

「そや。そやから撃ち殺そう思う。手伝ってくれるやろ。」

 僕が最初そう言った時、堀もタマも、

「そら、手伝うで。」

 と言い切った。僕が、二人と同じように、言葉遊びをしていると思っていたからだ。けれども、話しながら僕と和やんの表情を交互に見比べるうち、僕の言葉の背後にちゃんとした実質があることに気づいた。次第に口ごもり始め、

「ま、実際のところ、撃ち殺すのは無理やからな。どうやって解決したらええか、もちょっと考えんとな。」

 と言うと、堀もタマも腕を組み考え始めた。和やんを助ける方法をではなく、如何に自分たちが巻き添えを避けるかを。そうでなければ、考える振りをしていたのだ。

 僕は言った。

「拳銃はあるんや。撃ち殺すんは無理ちゃうで。」

 堀がまるで爪と肉との間に竹串を刺されたような顔をして反論した。

「無理ちゃう言うてもなあ、警察に捕まってしまうで。」

 その言葉に続けて腰を浮かせたタマが言う。

「そや、警察に届けたらええんや。和やん警察行こ。」

 今まで何を説明してきたのだろう。僕は全身から力が抜け落ちる思いがした。

「金やないで、和やんが取られたんは。それに、完全犯罪で殺すんやから、警察には絶対捕まらへん。」

 僕は心の中で舌打ちしながら、次第にタマと堀を馬鹿にし始めた。

「どんな方法でも、最後は絶対捕まるで。日本の警察は世界一優秀なんや。」

 こいつらにとっては、警察に捕まることが一番の重大事なのだ。僕は二人に見切りをつけることにした。

「せめて、計画を練ったり、準備するのだけでも手伝うてくれへんか。それが嫌やったら出て行ってくれ。」

 もちろん、二人は拒絶し、部屋から出て行った。本当はもっと早く出て行きたかったに違いない。僕は二人に口実を作ってやったのだ。

「しゃあないで。捕まるのは誰でも嫌やからな。僕はかまへんけど。自分のことやから。」

 和やんは言った。

 

 僕たちの立てた抹殺計画はごく単純なものだった。猪野熊組に深い穴をあらかじめ掘っておく。赤居と大垣を順番におびき出して射殺する。身元のわかる衣類を全部剥ぎ取って、死体を穴に放り込み埋める。剥ぎ取った衣類は学校の焼却炉で焼く。それだけだった。

「こういうのはな、簡単な計画の方が失敗が少ないんや。」

 

 試験が始まると同時に、和やんの家にあった鶴嘴とショベルをもって、僕たちは猪野熊組に出かけた。試験期間、学校は午前中だけで終わる。作業時間をたっぷりとることができるのだ。堀もタマも二度と僕たちに近づいては来なかったから、二人だけで掘らなければならなかった。

 縦二メートル、横一メートル、深さ二メートルの二本の竪穴を炎天下で掘るのは想像以上に難しい。青色の表土に鶴嘴を振るい始めると、作業が困難なことはすぐ明らかになった。強い日差しの下では、すぐに息が切れるし、土は乾き切って鶴嘴をなかなか受け付けない。初日、穴の深さが三十センチほどになった時、僕たちは疲れ切って作業を放棄した。軍手をしていたにも拘わらず、手は肉刺がつぶれて血だらけになった。

 けれども、翌日には作業を再開した。和やんがまた二万円取られたからだ。僕たちは麦藁帽子と水筒を持っていき、作業を始めた。土は湿り気を帯び始め、面白いように穴が深くなった。けれども、深さが一メートルを超えた試験最終日の三日目には作業が一層苦しくなった。湿って重い土を穴の外に放り出すのが重労働になるし、鶴嘴が土壁のそこここに当たって、狙い通りに振り下ろせなくなるからだ。二つの墓穴を掘るは不合理だ。僕たちはそう気づいて、穴の幅を広げることにした。翌日の日曜日、午前中で僕たちは二メートル四方、深さ一メートル半の穴を掘りあげた。

 午後、僕たちはごみ捨て場で見つけたマネキンを立たせた。僕がパイソン、和やんがガバメントをもって、交互にマネキンを撃つ。最初に顔に当てたのは僕だ。右頬から鼻にかけて、大きな穴が開く。続いて和やんが眉間に当てた。顔を失ったマネキンはそのままゆっくり背後に倒れてゆく。僕たちは全身の毛穴から蟻が這い出すような緊張と興奮を感じ、炎天下で身震いした。赤居がそうなるのだ。そう考えると、内蔵が熱く熔けて体内を駆けめぐり、計画のいち早い実行を迫った。大垣の顔に穴が開くのだ。そう思うと、体中の産毛が一斉に燃え上がり、あらゆる迷いとためらいの芽を焼き尽くした。

 

 試験の成績は異常に悪かった。もちろん予想していた。授業が成立していない上に、僕は全然試験勉強をしなかったのだから。昼休みに、十八点と赤字で書かれた数学の答案を見ていると、誰かが僕の肩を叩いた。見ると、堀だ。横にタマもいた。

「話があるんや。」

 堀が言い、タマもうなずいた。

「放課後に和やんの部屋に行かんへんか。こんなとこやったら、何にも話なんかでけへんで。」

 

 和やんの部屋に着くなり、堀はエミコにジュースを注文することもなく、話し始めた。

「お前らが赤居と大垣を殺して警察に捕まったら、俺とタマはどないなるんや。」

「せやから捕まらへんて言うてるやろ。」

「もし、捕まったらどうなるんや。」

 タマが言った。

「わからへん。」

「わからへんて、そんな無責任な。」

 堀は口を開けて呆然とした。こいつは馬鹿だ。僕は思った。僕たちを見捨てた二人の行く末に、どうして僕が責任をとらなければならないのだろう。

「捕まったら、改造拳銃のことも、理科室の泥棒のことも、ぜーんぶ警察に言うたるわ。」

 僕は残酷な喜びを感じて言い放った。和やんが笑い出す。タマと堀はうな垂れた。

「とにかく、心配すな。俺も和やんも捕まらへん。ちゃんと計画は練ってあるんや。」

 タマと堀は蒼白になって僕を睨み付けている。和やんが思い出したように言った。

「そや、お前らジュース飲まへんか。エミコに頼むで。」

 もちろん、二人がジュースを飲む気になれないくらい不安に苛まれているのを知っていて言っているのだ。僕もその心理的拷問に荷担することにした。

「そやな。俺も喉乾いたで。おい、堀、エミコに頼んでくれや。」

 堀が立ち上がって僕を殴ろうとした。椅子に座っていた和やんが、堀の顔を蹴る。堀は尻餅をついて、信じられないという顔をしていた。小学校時代の序列から言えば、堀は一番喧嘩が強いはずだった。僕も和やんも腕っ節で確実に勝てる相手はクラスに一人か二人しかいなかった。一方、堀はクラスでナンバーワンかナンバーツーだったのだ。だが、今目の前の堀を叩き伏せるくらいなら、和やん一人でも、僕一人でも、簡単なことだったろう。

「このこと知ってるお前らから殺してもええんやで。」

 低い声で和やんがそう言うと、タマはしゃくり上げ始めた。

「頼むさかい、止めてくれ。そんなことしたら、お前らの人生も、僕の人生も、僕の人生も無茶苦茶やないか。」

 僕は立ち上がってインターホンをとり、エミコに言った。

「コーラを四つ持ってきてもらえる?」

 

 タマも堀もコーラに手をつけずに帰ってしまった。エミコが来る前に「とにかく、秘密は守るさかい、頼む、無茶せんといてくれ」と言いながら、背中を丸めて出て行った。僕たちは残酷な勝利感に酔っていた。僕はコーラを持ってきたエミコに言った。

「ありがとう。エミちゃん。エミちゃんて奇麗やな。僕大好きや。」

 自分では気の利いた言葉のつもりだったのだ。

「なんか、中年のおっちゃんみたいな言い方やわ。」

 軽く受け流して言ったエミコの言葉は、僕の高揚感をぺしゃんこにしてしまった。自分の好きな女が犯されるのを見て勃起する男、それが僕だった。

「俺も喉乾いたで。おい、堀、エミコに頼んでくれや。」

 先にそう言った時、僕は完全に優越感に浸っていた。けれども、今ははっきりとわかるのだ。その時の口調があの虫歯そっくりだったことを。

「帰りの電車賃はいくらや? 貸しといたるわ。」

 僕の体内に無力感と恥辱が再び蔓延し始めた。エミコは何も気づかずに部屋を出ていったが、和やんは僕の変化を見逃さなかった。

「お前、ほんとにエミちゃんのこと好きなんやろ。」

 僕はうなずき、涙が出そうになった。

「僕も好きや。けど、恋人がおるんやて。」

 和やんはぽつりと言った。

 僕たちは翌日に計画を実行することにした。

 

「うちの手伝いな、誰でもヤラせてくれるんや。ヤッてみいひん? 猪野熊組の造成地跡にプレハブがあるやろ、あそこでどうや。一人でおいでや。」

 赤居は一度和やんの家に金をせびりに来た時、エミコを見たことがあった。

「結構ええ体やな。お前もうヤッたか?」

 赤居はそう聞いたらしい。和やんが予定通り、先の言葉を言えば、赤居は絶対来るはずだ。僕たちは改造拳銃を分解し、入念に掃除した。

 

 朝から学校は異様な雰囲気に包まれていた。息をひそめているような、騒然としているような、落ち着きのないひそひそ話と啜り泣きが全校中に広がっていた。体育館に整列して座らされた生徒たちの前に、憔悴し切った校長が現れたのは、十時を回ってからだった。雨天にも拘わらず校門の外には大勢の報道陣が詰め掛け、空にはヘリコプターが引っ切りなしに飛んでいた。校長はマイクにスイッチを入れ話し出した。

「たった今、赤居君が市立病院で亡くなりました。」

 掃き溜めクラスの女生徒たちが嗚咽をもらし始める。

「どうしてこんなことになったのか……。本当に残念です。今朝からテレビやラジオが、色々なことを言っていますが、どうか皆さん、動揺しないでください。何が、問題だったのか、どこが間違っていたのか、皆さん、どうか一緒に考えてください。いや、一緒に考えましょう。どうして、こんなことになったのか……。」

 校長は涙を流し声を詰まらせた。

「み、みな、皆さん。な、悩んでいることがあったら、か、隠さず私たちに伝えてください。こ、こんな、こ、こんな、か、か、悲しいことが、に、に、に、二度と、に、二度と……。」

 僕は目頭を押さえ絶句する校長を呆然と眺めていた。和やんも同じだったろう。赤居を殺したのは僕たちではなかった。僕たちが赤居を殺すと決めた時、赤居の脇腹にはすでに刺し身包丁が深々と突き刺さっていたのだ。刺したのはF――二年生の男子生徒だった。僕たちは、Fを赤居の仲間だと思っていた。だが、赤居はそのFを信じがたいほど陰湿なやり方で苛め抜いていたのだ。

 

 春休み中のまだ肌寒い頃、赤居と大垣、それに他の何人かが、Fを押え込み、着衣を一枚残らず剥ぎ取った。そして、公団のベランダに締め出した。ご丁寧に頭から水をぶっ掛けて。赤居は母子家庭で母親は夜に働いていたから、誰も止める者はなかった。赤居たちが半荘を終えてベランダに出てみると、Fはうずくまり、唇はもちろん、全身が真っ青だったと言う。

 また、Fは赤居と大垣、その他の生徒に総額五十万円にのぼる借金があった。賭け麻雀によるものだ。他の三人がぐるの上、Fが上がろうとすると、必ず誰かが雀卓をひっくり返したから、Fには勝てる見込みがまるでなかった。ベランダに締め出されたのは、そのことに文句を言ったからだ。

 Fのペニスには太い蚯蚓腫れが走っている。赤居が眼前での自慰行為を強要し、勃起したところに、煙草の火を押し付けたのだ。手や足、尻、背中にも数え切れないほどの火傷痕があった。肛門に裂傷を負ったこともある。バイブレーターを突っ込まれたのだ。Fは赤居や大垣たちがサディスティックな欲望を満足させるための玩具だった。

 事件の三日前、Fの恋人は赤居と大垣を含む複数の男子生徒に強姦された。赤居はFに恋人ができたと知るや、自分の部屋に連れて来ることを求めた。Fはさすがに心配になって拒んだが、恋人は赤居の正体を良く分かっていなかったために、勝手に部屋に行く約束を赤居と交わしてしまった。煙草を買いに行かされたFが戻ってきて、鉄扉を開けると、玄関に腕と太股を複数の男子生徒に掴まれ、大股開きで泣き叫ぶ恋人が居て、股間を赤居のペニスが突き上げていた。

 そうした噂が夏休み前の学校の至るところで囁かれた。夏休み開始の日が来ても、連日「対話」と称して、全校生徒が登校を求められた。その期間中にも、噂には様々なディテイルが付け加えられた。どれが本当でどれが嘘なのか僕たちには判断できなかった。けれども、事件の数日後に、大垣を含む幾人かの男子生徒が事情聴取されたこと、赤居の母親が最近完成した高層住宅から飛び降り自殺したことは新聞にも載った。

 

 僕は毎日和やんの部屋に行っていたが、和やんとは何も話さなかった。僕たちは床やベッドにだらしなく寝そべって、ありったけのレコードを片っ端から大音量で聴いていた。いや、聴くふりをしていた。話すのが怖かったからだ。

「Fのおかげで手間が省けたな。」

 和やんがそう言ったのは、事件の五日後だ。僕は大声をあげた。

「アホ言え。俺らが殺すはずやったんやろ。横取りされて悔しないんかい。」

 僕たちの計画の目的は赤居と大垣を殺すことではなかった。彼らを殺すことで自尊心を取り戻そうとしていたのだ。だが、そんなことは和やんも分かっていた。問題は、計画がだいなしになったにも拘わらず、僕たちがほっとしているということだった。殺人をしなくて済んだということではない。Fが殺していなければ、赤居は今でも生きているだろう。猪野熊組に呼び出した赤居に、僕たちは涙を流して許しを請うたに違いない。そんな情けない想像をするより、僕たちの代わりにFが殺したのだと考える方がどれほど気が楽だろう。和やんは、その楽な解決法を二人で取ろうと持ちかけてきたのだ。だが、僕は和やんを裏切った。和やんの言葉を一蹴することで、和やんは逃げ出したかも知れないが、僕は自分の自尊心を断固とりもどすつもりだったと主張したのだ。それで得ることのできるのは、和やんに対する優位、たったそれだけだった。

 和やんはオーディオにエレキ・ギターをつなぐと『天国への階段』のギターソロを練習し始めた。フレットを気にして顔を決して上げないのは、練習不足のためではない。僕と目を合わせない口実なのだ。僕は舌を鳴らして部屋を出た。

 

 再び僕が和やんの部屋に行ったのは、遅まきながら夏休みの始まった翌日だ。改造拳銃なんかもう捨てよう。和やんがそう電話してきたのだ。僕たちは猪野熊組に行き、四丁の改造拳銃と卓上旋盤、それにアルミとマグネシウムの広口瓶を、赤居と大垣の死体が入るはずだった竪穴に放り込んだ。雨水が溜まっていたので、卓上旋盤を放り込むと大きな水柱が立ち、僕たちは頭からぐしょ濡れになったが、二人とも悲鳴をあげたりはしなかった。黙々とショベルをつかみ、盛られた土を掘り崩し、穴の中に放り込んだ。その単調な作業をしている時、和やんが不意に言った。

「僕な、エミちゃんとヤッたで。彼氏とうまいこと行ってへんかってんて。それで、銃のこと言うたら、すぐ捨てなさいて……。」

 僕は黙っていた。青白く光る地面に映る黒々とした影を見ていたら、滴がぽたぽたと地面に落ち一層黒い染みを影の上に作った。汗だった。

 やがて、竪穴の中の水が地面に溢れ出し、あたりは水浸しになった。ズック靴は泥だらけになり、靴の裏に重く粘土が張り付いた。それでも僕たちは、土をすくい穴を埋める作業を続けた。日が陰り始める頃、穴は完全に埋まった。僕は、「ほな」と挨拶し、和やんは手を振って、僕たちは別々の方向に自転車を走らせた。

 それ以来、和やんの部屋には二度と行かなかった。夏休みが明けても、お互い顔を合わしただけだ。話はしなかった。卒業すると、和やんは私立高校に行き、僕は公立高校に進学した。堀も同じだったが、つきあいは復活しなかった。タマは私立の進学校に入学した。一度隣町で和やんを見かけたが、隣を歩く女はエミコではなかった。もちろん、声はかけなかった。