十、

 

 目覚めると全身が気だるかった。昨日の疲れがそのまま残っている。重い上半身を起こして見ると、まだ窓の外は薄暗く、カラスが投げやりな鳴き声をあげている。時計は五時をまわったところだが、もう一度眠れば、きっと朝寝坊だ。瑤子は仕方なく体を起こした。

 ロビーは閑散として、暗い受け付けには誰も居なかった。自販機でコーヒーを買い、手近のソファに深々と腰掛ける。煙草の煙さえ、どんよりと淀んで、なかなか上に上がっていこうとはしない。気分は最悪だった。大きなはめ殺しの窓の外には、霞がかった陰のような山肌しか見えない。瑤子は自分が溜息をついているのに気付いた。何もかもが億劫な気がした。本物の島田に会って、話がしたかった。コピーと四六時中顔を付き合わせているために、今や、島田の本質が輪郭を揺るがせている。やがて、彼を見失ってしまうのではないだろうか。無性に彼の顔を見たかった。馬鹿げた話だ。その彼を今私は探しているのではないか。そう思った。だが、駄々っ子じみた考えはなかなか頭から振り払えなかった。

 やがて昨夜の考えが蒸し返してくる。巧妙なロートレックのコピーについての考え。

 こんな話を聞いたことがあるのを瑤子は思いだした。有名な書家の作品で全く同じものが二つ存在する。両者の間には全く違いがない。もちろん、これはかえって不自然で、どちらかが偽物に決まっている、と誰しもが思う。だが、両方とも本物だ。超人的な器用さをもった職人が、剃刀を使って半紙を二枚にそぎ分けたのだ。

 たしかに、墨で半紙に書かれた作品と、ロートレックのリソグラフは違う。リソグラフを二枚にそぎ分けても、白紙と本物のロートレックが残るだけだ。だが、ロートレックが使ったのと同じ絵の具、紙を使ってコピーを作ったとしたら? オリジナルの作品をスキャンして重なった絵の具の層に至るまでを忠実に再生する。今のコンピューターならばおやすいご用だ。

 だが、瑤子はそこで一気に気が楽になるのを感じた。コピーはそこまで忠実に島田を複製しているわけではない。レントゲン撮影をすれば、あっと言う間にロボットだということが分かる。それだけのものではないか。急に辺りが明るくなった。顔を上げると、受け付けにはもう人が居て、カウンターの手前のラックに今朝の新聞を並べていた。瑤子はほっとした気分になり、先まで取り付かれていた強迫観念から解放された。窓際に歩み寄って外を見ると、山の向こうの空は青々と突き抜けていた。

 

「やあ、ここに居たのかい。もっとゆっくり寝ていれば良かったのに。」

 コピーが背後から声を掛けてくる。瑤子は振り返りざまに答えた。

「ええ、でも、早くオリジナルを探さないと。今日を合わせても、タイムリミットまで後四日しかないんだから。」

 

 二人は部屋に戻って、捜索計画を立てることにした。

 羅臼でテントを買わなかったとなると、仙台か札幌ですでに調達をすませていたのだろうか。いや、島田が本当にこの近辺にいるのか、それさえも瑤子には怪しく思えた。だが、コピーはあっさり断言した。

「オリジナルがここに居るのは確実だよ、彼はここ数年、何とか時間に余裕を作ってここに来たいと思い続けていたんだ。何も考えずに過ごした、あの無為の時間をもう一度味わいたい、そう考えていた。で、実際に、そうした時間を過ごしてみたら、抜け出せなくなったんだろう。本当はビジネスに向いていなかったのかも知れない。あの慌ただしい世界を全て投げ出してしまいたくなったんだ。僕はそう思うよ。」

「じゃあ、こちらに向かう飛行機の中で予定を変更したとして、どこに行ったのかしら。」

「最後にここに来てから、もう十五年にもなるけれど、最初の二、三年はまたすぐに来るつもりだったんだ。で、その時には、標津町から羅臼に歩いて行こうと思っていた。このルートはバスでも通ったことがなかったからね。」

 念のために寺尾に電話を掛ける。島田からの連絡はまだなかった。

 二人は慌ただしく朝食を終えると、すぐにタクシーを呼んだ。羅臼から標津町までの間に三カ所のキャンプ場がある。その一つ一つにあたってみるつもりだった。

 

 一カ所目はすぐ近くの山間に位置する町営キャンプ場だった。テントとバイクに挟まれた狭い空間で飯盒飯を食べている三人連れ以外には誰もいない。コピーは話しかけて情報を得ようとしたが、はかばかしい成果はなかった。彼らは昨晩釧路からここに到着したのだった。

 二カ所目にもすぐ到着した。今度は先よりもずっと設備が行き届いたキャンプ場で、まわりを放牧地が広々ととり囲んでいる。タクシーは食堂や売店が立ち並んだ駐車場に乗り入れて停車した。

「いやあ、出たりは入ったりだね」

 コピーはそんなことを言いながら下車しようとして、頭をドアにぶつけた。瑤子は思わず笑ってしまったが、かなり痛かったらしい。こめかみの上の辺りを押さえてじっとしている。瑤子は慌てて駆け寄り「大丈夫?」と尋ねた。一緒に笑い声を挙げた運転手も、今は、座席から腰を浮かせて、こちらに振り向いている。「したたか打ったよ」とは言ったものの、彼はまだ右前頭部を押さえたままで、顰めっ面の目には涙が浮かんでいる。

「血は出なかった?」

 瑤子はゆっくりと手をどけさせて、彼の額をのぞき込んだ。別段怪我はないようだ。

「まいったね。恰好悪いところを見られてしまった」

 照れくさそうに身を引きながら、彼はタクシーの運転手にもう大丈夫だという身ぶりをした。

 

 芝が植えられ疎らに木が植わったキャンプサイトを歩き回る。朝夕に冷え込みを感じるこの季節では、施設が充実していても、泊まり客はわずかだ。三〇分も経たないうちにタクシーの待つ駐車場に向かった。雑誌か何かを読んでいた、運転手が二人に気付いて顔をあげたが、そのとたん、あ、と声を挙げた。運転手の目線を辿って、彼の額を見ると小さなコブができていた。ずっと彼の左側を歩いていたから、瑤子も気付かなかったのだ。彼自身始めて知ったらしく、「あれ」と言いながら、額をさすっている。瑤子は水場に走り、ハンカチを水で濡らした。そして、その時になって、急に我に返った。またしてもやられた。瑤子はハンカチを投げ出したくなった。大慌てで息を切らして、ここまで走ってきた自分が情けない。機械の身を心配してどうするのだ。

 とはいえ、コブができているのは事実だからと、瑤子は急に体の重みを感じながら、濡れたハンカチをもってタクシーに引き返した。コピーは既にタクシーに乗り込んで、運転手と笑いながら話をしている。その呑気さを見ると、瑤子は突然胸を突き上げるような苛立ちを感じた。彼女に気付いた運転手はドアを開け、笑いながら言った。

「優しいね。でも、あんまり甘やかしちゃ駄目だよ、男はすぐにつけあがるからさ。」

 恋人同士か、夫婦のように思っているのだ。瑤子の苛立ちは腹立ちに変わった。彼女の顔色に気付いたコピーは張りつめた雰囲気に首をすくめる。運転手も自分の失言が招いたその場の雰囲気をどう取り繕ったものかとおろおろしている。一体、何が悪かっただろう、どこが間違ってたのかな、そんな右往左往する思考が手に取るようだった。瑤子は何となく申し訳なくなり、表情を緩めて言った。

「驚いた? 人が慌てているのに呑気にしているからよ」

 運転手の顔が途端にほころぶ。

「お客さあん、人が悪いよお。へんなお芝居は勘弁だよ、まったくう。」

 日に焼けた小心な中年男の、このあからさまな弛緩は、瑤子を辟易させたが、これ以上の緊張はも望むところではない。コピーの腫れた額に濡れたハンカチを押しあてて、「しばらく冷やして置くと良いわ」と瑤子が言うと、それを見届けて安心した運転手は車を走らせ始めた。

 

 もちろん、コピーの方は一安心どころではなかった。自分の失敗を恥じているのか、額のハンカチを左手で支えて、こちらに顔が見えないようにしている。実際、オリジナルなら絶対にしないような振る舞いだった。島田なら水場まで追ってきて、心配要らないと声を掛けるくらいのことはするだろう。それが遠慮というものではないか。女なら、誰彼の別なしに男の世話をするものというような考え方を島田は絶対しない。もとより、瑤子が腹を立てているのはそのことが原因ではなかった。

 結局のところ、瑤子は自分に苛立っているのだ。どうして、こうも易々と騙されてしまうのか。ルーブル美術館でひとしきミケランジェロの彫刻に見とれ、五〇〇年以上もの歳月を経てきた大理石の肌触りを楽しんだ後、不意に“reproduction (複製)”という掲示を見てげんなりしたことがある。彫刻はレーザー光線で精密に複製することができる。素材の樹脂は木や大理石の質感をいとも簡単に表現してしまう。瑤子は完全に欺かれたのだ。もとはといえば、彼女のように手を触れる不心得者がいるから、レプリカが配置されたのだが、制作されて数年も経たないプラスティック人形に五世紀の感動を味わった間抜けさのあまり、美術館の学芸員に逆恨みめいた感情さえもったものだ。結局の所、それと同じことだ。複製だと明示してあるのに、勘違いした自分が悪いのだ。

「ほら、あの島なんだけど、つい最近まで、ソ連だった。」

 運転手が思いだしたように声を挙げた。二人がずっと沈黙しているのを気に病んでいたのだろう。自分が種をまいたこの雰囲気をなんとかしなければ、そう思って話題を探していたに違いない。だが、国後島はもうとっくに背後の方にある。おまけにソ連は崩壊して既に久しい。やっと思いついた話題も、二重の意味で時代錯誤だった。けれども、瑤子自身コピーとの緊張感が息苦しくなっていた。

「もう何年になるかしら。北方領土が返還されてから。」

「二年かな、三年かな。もう忘れたけどさ、それまでは凄かった。鉄砲と双眼鏡持った兵隊が立ち番しているのが見えたから。」

「あは、まさか。当時はもう望遠レンズ付き監視ヴィデオがあったよ。」

 瑤子の機嫌が直ったのを見て取って、ほっとしたコピーが笑う。

「いや、あの国は貧乏だった。だいたい、国後が返ったのも、経済援助の約束があったからって言うしさ。ソ連人が引き上げてった後、国後の基地に入ってみたら、二〇年以上も前のテレビとか冷蔵庫がごろごろしてた。」

「嘘でしょう。ロシアが軍事基地をそのまま残して行くはずないわ。」

「ま、人から聞いた話だ。けど、貧乏だったのは確かだろ。なんであんな国に何時までも占領されてたのかね。戦争すりゃ樺太もとれたよ。食うもんにも困ってたって話だしな。」

「穏やかなじゃないね。」

「国後や択捉にも殆ど人が住んでないのに、樺太まで占領してどうするの。」

「決まってるさ。今度はこっちが鉄砲と双眼鏡もって監視するんだよ。ずっと見られたお返しだ。」