十一、

 

 標津のキャンプ場には十一時頃に着いた。森の中に開かれたキャンプサイトは小さく、一望の下に見渡せた。テントは一張りしかなかった。傍らには振り分け鞄に荷物を積めた自転車が泊めてある。中には誰も居ない。持ち主を捜して水場に向かう。と、その時、横手のトイレから、当の若者が姿を現した。そして、二人の顔を一瞬交互に見て目を反らし、少し考え込んだ後、もう一度コピーの顔を見た。そして、急に満面に笑いを浮かべて、

「あれ? 今日来たんですか? スーツなんか着てるから分からなかったんです。」

 瑤子とコピーは顔を見合わせた。

「羅臼岳はどうでした?……」

 そこまで言って若者は戸惑ったように押し黙り、蚊の鳴くようなような声で、

「すいません。知ってる人かと思ったもので……」

 と言うと、瑤子の脇をすり抜けてテントに向かおうとした。

「ちょっと待って。この人とそっくりの人知ってるの?」

 若者は人違いをした動揺を押し隠すためか、妙にのろりと振り返り、邪魔臭そうにこちらを見た。

「多分君が知っているのは僕の双子の兄だと思うんだが、僕たちは彼を捜して居るんだよ。もし、何か知っていたら教えてもらえないか。」

 彼の声を聞いた途端、若者は緊張を解いた。

「本当にそっくりですね。なんだか、からかわれているみたいです」

 そう言った後、島田と知り合った経緯を話してくれた。若者は火曜日の夕方にキャンプ場に着いたのだが、水場で大量の川魚を洗っている島田と懇意になった。そして、焼き魚の相伴に与るうちに、キャンプ場のそばを流れる川で釣りができることを知ったので、出発を一日延期して、島田と釣りを楽しむことにしたのだ。

「沢山釣れましたよ。ほんと、入れ食いって奴だな。あの人が指示する場所に釣り糸を垂れたら必ず釣れるんですよ。岩の陰とか、水の淀んでいる所とか。ただ、思うように竿が振れないから、すぐ針をどこかに引っかけるんです。そうなると糸を切らなくちゃならない。せっかく釣った魚が、頭の上の枝に引っかかって取れなくなった時は悔しかったなあ。」

 そう言うと、若者はまだ魚がひっかっているかのように、恨めしげに空を見上げた。

「でも半日で二十尾くらい釣り上げましたよ。あの人の方は、僕が釣るのを見てました。竿が一本しかなかったから。で、その晩も焼き魚を食べて、次の日の朝、ええっと木曜日に出発したんです。金曜に宇登呂に行って、土曜に網走に行って、日曜にサロマ湖で、月曜、昨日だけど、ここに着いたんだから、うん、間違いない。火曜から木曜にかけて、あの人が羅臼に居たのは確かですよ。え? 昨日にはキャンプ場に居なかったんですか。だったら多分、羅臼岳に登ってるんだと思います。木曜と金曜は天気が悪かったんです。頂上の辺りでテントを張っているんじゃなかったら、昨日のうちに宇登呂のキャンプ場まで下山していると思いますよ。」

 

 二人は若者に礼を言うとすぐに宇登呂温泉のキャンプ場に向かい始めた。知床半島の付け根を走る国道は真っ直ぐで自動車は殆ど揺れない。道の両脇には牧草地が広がり、腹這いになった牛たちが気怠げに草をはんでいる。南中寸前の太陽は、ガラス窓を通して暖かな光を投げかけている。車の外も内も、弛緩と充足が満ち溢れていた。

 しかし、その安楽さがむしろ落とし穴だった。瑤子は既に何度か徴候めいたものを感じていたのだが、今度は徴候どころではなく、心臓が急激な拍動を始めたのだった。ここ一週間の不摂生が引き金になったのだろうが、これは彼女の持病だった。心臓に欠陥があるのではなく、神経症の一種なのだ。だから、命に別状はない。とはいえ、苦しいことには変わりない。しかも、ここ二、三年はすっかりおさまってもいたので、油断を突かれた狼狽ということもあった。夜明けに感じた憂鬱はむしろ肉体に起因するものだったのだろう。そんなことを思いながら、瑤子は掌にじっとり汗をかき始めた。島田は今にも宇登呂温泉のキャンプ場を出発してしまうかも知れない。急がなければならない。車を止めてもらうわけには行かなかった。努めて平静を装い窓の外を見つめるふりをする。だが、急に彼が顔をのぞき込んで、「大丈夫かい」と尋ねてきたのだ。瑤子はとぼけようとしたが、彼は車を止めさせた。「酔ったのかね」運転手が心配そうに声を掛けた。

「ちょっと外の風に当たった方が良い。」

 彼はドアを開けると瑤子を車外に連れ出し、バス停のベンチに座らせた。彼も隣りに座ったが、彼女の肩を支えていた掌からは力が抜け、前屈みになった彼女の背を廻っていた腕はゆっくりとベンチの方へ下降し、彼の腰の脇に収まる。瑤子はその手をひったくるように掴んだ。つなぎ止めてくれないと、そのまま死んでしまう。そんな気がした。動悸は一層激しくなり、かつても同じ苦しみを味わったとは思えないほどだった。頚動脈が波打つように盛り上がり、顎ががくがくと震えた。このままでは心臓が破裂してまう。この私が永久の無機物になってしまう。閉ざした瞼の裏では、赤色の斑紋や突き抜けるような明るさの閃光が目まぐるしく行き来し、心臓が太鼓の遠鳴りのような音をたてているのが聞こえた。これは神経的な発作であって肉体には何の支障もない。それが分かっていても、暗黒の大口を開けた死のイメージは振り払えない。死んでしまう。死んでしまう。死んでしまう。死んでしまう。死んでしまう。そのせっぱ詰まった情動に心臓は一層追いつめられて、瑤子の胸のなかでのたうちまわり、肺を押しつぶして空気を全部吐き出させてしまう。いくら息を吸い込んでも胸苦しさは晴れず、死の恐怖はいや増しに増し、彼女の肉体を押しひしぐ。精神と肉体の円環の中で止めどなく続く追いつめ合いだった。そして、その悪循環をついに断ち切るのは精神ではなく、肉体の方だ。限界を悟った心臓はやがて攻撃の手を緩め始め、それに合わせて、精神の方も切迫感を失って行く。フィードバックの方向が逆転したのだ。余裕を取り戻した瑤子は、彼と今は側に駆けつけた運転手とが救急車を呼ぶ相談をしていることに気付いた。

「大丈夫。これは神経症の一種だから、心配要らないわ」

 つい数分前まで決して受け入れることのできなかった、その言葉を今は瑤子自身が発している。まだ、心臓は平常通りではないし、恐怖の残滓が精神のそこここにこびりついている。だが、免れた、という確信が着実に根をおろし始めてもいるのだ。

「二〇分もすれば完全におさまるから。」

 ようやくその時になって、瑤子は自分がまだ彼の手を握りしめていることに気付いた。手を離すと彼の手の甲には指の形がくっきりと浮かび上がっていた。

 

「僕もね、軽い神経症に罹ったことがあるよ。友達のがうつったんだ。」

 車が再び走り始めた時、「彼」は言った。

「神経症は伝染病じゃないわ。」

「いや。最初に、友達が禿げ始めたんだ。まだ中学生なのに。秋口で抜け毛が凄かったから禿げるんじゃないかと気にして頭を触る内にどんどん抜け始めたと言うんだよ。で、二、三日して、風呂に入っていた時だ。排水口に吸い込まれていく髪の毛を見ていたら、僕も急に気になりだしたんだよ。で、それからはつい頭に手をやってしまう。触れば必ず十本以上抜けるんだ。触りすぎるから抜ける、そう分かっていても、またつい手をやってしまうんだ。そのうちに何をやってても気になって、鏡を見に行く。見ているうちにまた触ってしまう。髪が抜ける。駄目だ。そう思っても、止められないんだ。

 奇妙なことに、どうやって、この堂々巡りから脱したのかを憶えてないんだけれど、結局禿げずには済んだよ。けれども、気味の悪い体験だったね、自分の思考を自分で制御できないと言うのは。」

 「彼」の言うことが瑤子には良く分かった。だが、感情移入はできなかった。結局それは少年期の島田の体験だ。「彼」が実際に禿げかかったわけではない。そう冷たく突き放すような気持ちがあった。そして苛立っていた。発作の間、なぜコピーの手を握り続けたのか。激しく生を希求している時に、無機物を握りしめて慰められるはずはないではないか。一人で死ぬのが嫌で、誰かに看取られたいと思ったのなら、運転手の手を握れば良かったのだ。けれども、そう思った途端、肌の粟立ちが首筋から頬へとと遡り、鼓膜がその音を聞き取った。

 そんなことをする位なら、ハンカチでも握りしめた方がましだ。

 そうだ、私はコピーの手を「ハンカチのようもの」として握っていたのだ。瑤子は心の中でそう言い放とうとした。だが、その言葉は彼女に呵責を感じさせずには置かなかった。手を振りほどかず、運転手を手招きして、救急車を呼ぼうとした「彼」は私の気持ちを理解してくれていたはずではないか。その「彼」をハンカチ呼ばわりするのか。自分自身の体験ではないにせよ、自分の知っていることと付き合わせて、私の身に起こった出来事を理解しようとした「彼」をハンカチに過ぎないと言うのか。そんなことを考えていると、また、気分が悪くなりそうだった。瑤子は眠ることにした。考えてみれば、あの木曜日以来、まともに眠ったことがなかった。疲れているから、こんなことを考えるのだ。