十二、

 

 目が覚めると、もうタクシーは海岸沿いの道を離れて急な坂を上り始めていた。やがて、上り坂が終わり平坦な道を数分走ると、目の前に閑散としたキャンプ場が広がる。山林の木を間引いて作られたテント・サイトは、今までのどのキャンプ場よりも大きい。中途半端な眠りが引き起こす頭痛に耐えながら、瑤子はタクシーを降りた。受け付けで問い合わせてみるが島田の名はない。けれどもコピーにはそれほど期待はずれでもなかったようだ。

「ここから四キロぐらい知床半島の先端の方へ行くと、羅臼岳への登山口がある。ホテルの裏手にあたるんだが、その辺りでキャンプすることができるんだ。昨日、羅臼から知床半島のこちら側にまで来たとすれば、恐らくそこでテントを張ったんだろう。」

 二人はキャンプ場の受け付けに衛星電話の番号を教え、島田が来たらすぐ知らせてくれるように頼んだ。そして、登山口のある岩尾別温泉に向かった。

 

「学生時代に岩尾別から宇登呂まで歩いたこともあるから、もしかしたら、途中で行き会えるかも知れないよ。」

 瑤子はいよいよ社長が見つかりそうな気配に、眠気も何も吹き飛んでしまった。とはいえ、舗装されてはいるが、九十九折りになって何度も急カーブを曲がるこの道では、たとえ眠くても眠れなかったに違いない。瑤子は島田の姿を求めて窓の外を眺め続けた。しかし、歩道の整備も十分ではない山道には全く人影がなかった。

 やがて、タクシーは砂利道に入り込み、不意を付くようにして山間にホテルが現れた。心臓が高鳴るのを感じる。だが、その裏手には一張りのテントもなかった。かつてのテント・サイトには鉄条網が張り巡らされ、「野営禁止」の看板が吊されている。瑤子は急に徒労感に襲われた。コピーも流石に言葉もない様子だ。瑤子は来た道を引き返そうとした。ところがコピーは何を思ったか、既に翳り始めた山の方へ向けて無言で歩き始めた。たどり着いた登山口からは、わずかな幅の山道が急勾配に上昇を始める。むろん、それを登り始めようと言うのではなかった。登り口の脇に柱が立ち、そこには「入山者記録」と銘打った長方形の箱がとりつけてあった。コピーは箱から大学ノートを取り出して、鉛筆の挟まった最新の頁を開けた。瑤子も横からのぞき込んだが、探すまでもなかった。最後に入山したのが島田だったからだ。だが、日付欄は空白のままだった。公開してない自宅の住所や電話番号までがきちんと書き入れてあるところを見ると、恐らく単に書き忘れたのだろう。島田の前に入山した人は先週の水曜日の日付を記入している。

「一旦バスでこちら側に来てから登り始めたのね。下山者記録には名前がないということは、羅臼側に下山したのかしら?」

「どこかで、テントを張っているんでなければ、もう下山しているだろうね。」

 

 二人は再びタクシーに引き返し、知床横断道に車を乗り入れさせた。とうとう足跡を見つけた、その興奮に瑤子は浮足だった。もうすぐ、島田に会うことができる、そのことが彼女を多幸症じみた気分にさせていた。

 すでに暗くなり始めているとはいえ、窓の外の木立を見分けることはできる。瑤子は知らず知らずのうち、木々の墓標を見つめ始めていた。寒さが増し始める季節にもかかわらず、旺盛に枝葉を茂らせた高木、潅木と、その間に身を細めるようにして立つ白い幹と先端を鋭角的にとがらせた枯れ枝は、生きた木々が既に丸みを帯びて黒く翳り始めていることもあって、見事なコントラストをなしている。絶え間ない白と黒の断続的な交代はやがて、どういうわけか、木々が殆ど生えず、浅い黄土色に枯れた草むらに一面を覆われた広い谷間に取って代わられた。そこには白く立ち枯れた巨木が一本佇んでいる。その孤高さには神々しいものさえ感られるほどで、瑤子は胸を締め付けられるような気がした。

 だが突如として、瑤子は自分の心の動きに違和感を感じた。なぜ、私は社長を懐かしむようにして、木々の骸骨を眺めているのだろう。メメント・モリの話で私の心を揺さぶったのはコピーなのに。そういう考えがわき上がったのだ。

 島田を見つけだしたところで、何が起こるというのか。死を恐れる木や魚の物語は、社長の記憶にも流し込まれるにせよ、そのことについて島田と話をすることは二度とないだろう。瑤子とコピーの探索行は、実際はありもしなかった記憶――島田と瑤子の北海道旅行の記憶を偽造するだけにしか役立たない。いや、それどころか、コピーの記憶は島田に流し込まれないかも知れない。瑤子は背筋を冷たくしながら、一つの可能性に思い当たった。長時間の記憶交換が島田の肉体に過重負担を強いるとすれば、島田が見つかった時点で、コピーをリセットして、一からやり直すのが一番現実的なのだ。

 先週の日曜日までの島田の記憶の総量は一旦ハードディスクに入れられた後、光ディスクに焼かれているに違いない。それは、コンピューターにまつわるあらゆるトラブルの被害を最低限にくい止める最善の方法だ。光ディスクを使えば、ハードディスクは初期状態に戻る。そうなれば、コピーは一週間分の記憶だけを島田から受け取れば良いのだ。島田はコピーの記憶を受け取らないのだから、経験交換はわずか数時間で済むだろう。コピーもオリジナルを眼前にしてならば、永久にスイッチが切られっぱなしになることはないと納得し、リセットを受け入れるに違いない。そして、ここ三日間ほどの出来事は瑤子だけの記憶になる。コピーは全てを忘れ、島田はもとより何も知らない。彼女は空虚な三日間を生きたことになる。

 自分が空しい作業をしていると瑤子は感じた。もはや、窓の外は真っ暗で、木々はヘッドライトの照らし出す楕円の中に時たま現れるばかりだ。窓に映る自分の顔の向こう側には、コピーの横顔が見える。そして、その時になって始めて、「彼」が無口に黙り込んでいることを瑤子は奇異に感じた。「彼」も様々な考えを巡らせていたに違いない。

 オリジナルが見つかること、それはコピーにとって喜ばしいことなのだろうか。島田が永久に見つからず、所期の目的が果たせないとなれば、スイッチを切られてしまう。そうなるよりはましだろう。けれども、「彼」が手に入れるのは奴隷状態の生命に過ぎない。社長室に閉じこもりきりでただ仕事に時間を費やす「彼」には、日常生活はまるでないことになる。もちろん、専用回線を通じて行われる経験交換では、島田の記憶もコピーに送られるのだから、日常生活の経験がまるでないわけではない。だが、自分の精神と肉体を通した得た自前の経験は皆無だ。そして、ここ三日で得た僅かばかりの経験も、リセットが行われるならば、「彼」からは永久に失われしまう。瑤子は体中の毛穴から毛羽立つような気がした。

 タクシーは見覚えのある橋を渡り、キャンプ場の横手に停車した。懐中電灯を運転手から借りると、テントサイトに向かう。テントはほんの数張りで、見覚えのあるものばかりだ。裏手の登山口に向かい、入山者記録の箱を見つける。水曜日に入山した人物はその日の内に下山している。島田の名前はなかった。まだ、山の中に居るのだ。探索を一旦打ち切られねばならなかった。

 

 ホテルに帰ると、体の中に硬い部分が一カ所もないのではないかと思うくらい疲れていた。夕食を終えるととにかく眠りたかった。なのに、ベッドに入ってみると瑤子は妙に寝付けなかった。島田が見つかった後のコピーのことが気に掛かるのだ。

 もし、リセットされれば、ここ一週間にわたる「彼」の精神活動の全てが無に帰してしまう。それは「彼」が恐れた死とどこが違うのだろうか。一週間前のいかなる精神活動ももたなかった「彼」は、今考えたり感じたりしている「彼」とは別人ではないか。たとえ、スイッチが再び入れられたとしても、甦るのは「彼」の肉体であって精神ではない。

 いや、たとえリセットが行われなくても、島田の記憶が流入し、オリジナルとの一体化が果たされれば、「彼」がここ一週間のうちに作り上げた精神世界は、固有性を全て失ってしまう。今「彼」はオリジナルのあらゆる影響を免れ独自に思考し感受しているが、経験交換が始まれば常にオリジナルの制御下で精神活動を行うことになる。それはまさしく主体の死だ。私はオリジナルを捜すことで、「彼」の自我を殺そうとしているのだ。

 瑤子は思わずベッドの上で上体を起こした。

冷蔵庫からオレンジジュースを取り出して一息に飲む。時計は一時を回っていた。体中汗だくだ。半分眠りながら考えていたらしい。我ながら馬鹿馬鹿しい夢を見た。瑤子は苦笑した。コピーは機械にすぎない。なのに自我などということを考えるから、おかしな具合になってしまうのだ。ロートレックのコピーを引き裂いて、そこに何か重大なものを認めるのは間違っている。たとえ、どんなに本物そっくりであっても。だが、その時、昼間の考えが再び頭をもたげたのだった。

 私は「彼」を「ハンカチ」と見なして、その手を握り続けたのか。

 もうそれ以上深く考えたくなかった。突き詰めるのが怖かった。コピーはコピーにすぎない、機械に過ぎない。呪文のように頭の中で繰り返し、何度も寝返りを打った。体の芯まで疲れ切っているのはむしろ幸いだった。瑤子はいつの間にか眠りに落ちていた。