十四、

 

 登山道はキャンプ場の裏手にあった。最初はなだらかな上り勾配だった。瑤子は着替えながら、またキャンプ場へ向かいながら、そして今歩きながらも、先のことを考え続けていた。「彼」の抉り傷のような表情がそのままダイレクトに彼女を傷つけてくる。それは事実だった。最初はそのことに苛立った。どうしても人工物の表情に痛みを感じる自分を許せなかった。島田本人が示した表情なら、そこから引き起こされる苦痛を喜んで引き受けもしよう。だが、泣き顔の人形にもらい泣きするのは馬鹿げたことだ。瑤子は、映画の悲劇にもらい泣きするような人間にさえ白けた雰囲気を感じる、そういうタイプの人間のはずだった。今やっていることは、それ以上に愚かしい。そう思った。

 だが、そんなふうに考えてみても、彼女の負った傷は癒えなかった。それどころか、まず、瑤子が「彼」に負わせた傷を治さない限り、彼女自身の傷も完治し得ないし、それどころか、自分の傷だけをさっさと片づけるなどというのは到底許されない、そういう考えさえもがわき上がってくるのだった。

 瑤子は考えた。「彼」がたとえCPUで感じ、考えているにしても、CPUの中で展開されるそれらの出来事が人間の感覚でない、思考でないとどうやって証明することができるだろう。中が空洞のプラスティック人形とはまったく事情が異なっているのだ。「彼」の言葉や表情、仕草が人間のそれと全く代わらないとすれば、「彼」が人間ではないとどうして言えるだろう。そもそも、他人が思考し、感覚していると彼女が信じるのは、まさに言葉や表情、仕草を通してではないか?

 認めざるを得なかった。島田ではないにしても、ある一人の人間に自分はあのような表情を示させてしまったのだ。しかし、一方で、どうしても自分の非を全面的に認める気になれなかった。「彼」が瑤子を絶望的に苛立たせるのも事実だったからだ。「彼」の存在そのものが腹立たしいのだから、わざわざ「彼」を弁護するようなことを考えなくても良いのではないか。そういう気持ちがわき上がってくるのだ。

 だが、思考はやがて前進するのを止めてしまった。眼前に「彼」の踵があった。急斜面にさしかかったのだ。全身を汗の皮膜が覆い、もはや何も考える余裕はない。俯きがちに自分が交互に踏み出す右足、左足を眺めやるだけだ。水筒や弁当の詰まったザックを担いでいる「彼」も苦しそうだ。激しい息づかいが瑤子の耳にも届いてくる。だが、その音も彼女自身の呼吸音に紛れがちだ。十数分も歩くと瑤子はホテルで待っていなかったことを後悔し始めた。だが、ちょうどその頃に、勾配は再び緩やかになり、やがて、ベンチを据えた八畳間ほどの広場に出た。そこからは屏風のように重なった山々の間に羅臼の漁村と海が遠望された。

「ここからは、しばらく楽になるはずだよ。」

 「彼」は水筒を瑤子に手渡しながら言った。彼女もそうだったが、「彼」の顔も汗まみれだった。

「どうせ機械仕掛けの体なら、十万馬力のエンジンぐらい付けてくれても良かったのにね。そうすれば、君を担いで頂上まで駆け登ることもできたんだから。人工臓器の筋肉じゃオリジナルの体力を再現するのがやっとだよ。」

「ごめんなさい。ひどいことを言って。」

 瑤子は自分でも驚くほどに素直に謝った。

 たとえ「彼」がコピーに過ぎないにしても、「彼」が感受性を持ち、人間と同様の苦しみをもつことは事実だ。自意識などという厄介なものを持ち合わせないリソグラフとそのコピーの比喩で事態を捉えようとしたこと自体が間違いだったのだ。そう考えるほかなかった。

「良いんだ。君は本当に苦しい立場なんだから。そのことを考えなかった僕が悪かった。僕はコピーの癖に自意識を持っているから、君としてもついつい僕をオリジナルと取り違えてしまう。でも、それは君の愛する人への侮辱だからね。僕としても、君が取り違えることのないように気をつけて行動するよ。」

 その言葉を聞くと、瑤子は「彼」の悲哀の渦に巻き込まれた。「彼」は自分の負った傷を何とかごまかしたばかりか、彼女の苛立ちを自分なりに理解しようとさえ努めてくれている。だが、それは余りに悲しかった。「彼」は人間に奉仕すべきロボット、尊重すべき自意識など持たない機械人形として、自分の傷を蔑ろにし、あまつさえ彼女の自業自得の傷を癒そうと試みているのだ。「彼」に何かを言いたかった。だが、何を言って良いのか分からなかった。

 「彼」は元気づけるように声をあげた。

「さあ、五分休憩したから歩き出そう。そうしないと、体がまた冷えてしまう。次は五十分間歩き続けるよ。」

 「彼」は歩き出し、瑤子は後に続いた。道は緩やかな上り降りを繰り返し、山を登っているという感じではなかった。彼女はまた考え始めた。「彼」は自分を単なる機械と見なした。その受け取り方が間違いだとは思わない。けれども、島田がもし同じ立場に立ったなら、やはり同じ事をしたのではないだろうか。自分の傷よりも人に傷に一層苦しむような面、そういう一面が島田にも確かにあったような気がする。私が彼を愛したのは、それを無意識ながらにも見抜いていたからだわ。そう思った。もとより、島田が実際に他人の苦しみを我がこと以上に身に引き受ける、そうした現場に瑤子は居合わせたことはなかったし、また、そういうことをする人間だと思わせるような言動や行動に接したことがあるわけでもなかった。だが、島田のそうした性格こそが自分を惹きつけた根本的な原因なのだろうと考えた。「彼」はまさしくそうした意味でオリジナルの忠実なコピーなのだ。もちろん、コピーは島田と同じ性格をもって、島田がとり得ないような思考の筋道を生み出したのではあるが。オリジナルが自分を人間に奉仕すべきロボットだと考えるわけはないのだから。そして、その限りにおいて、瑤子が今感じる悲哀は、オリジナルとは全く関わりない、コピーそのものに向けられた感情だった。

 

 一時間はあっけないほどすぐに過ぎた。たどり着いたのは幅二メートル程の浅い川で、周りには大きな石がごろごろしている。どの石も黄色がかった白い粉にまみれていた。

「ここは長年の間に川が掘り下げたんだ。ほら、岩があんなに上までごろごろしているだろう。」

 実際、つい今し方通ってきた道の片側の斜面は二十メートル程の高さにまで大小さまざまな岩に覆われている。

「石が白くてぬるぬるしているのは、硫黄のせいだ。この辺りは自然にわき出している温泉が多いからね。登山口のキャンプ場のすぐそばにも露天風呂があるんだ。全部オリジナルの記憶と知識に従えば、ということだけれど。」

 今後「彼」がずっとこんな具合にしか話さなくなるのかと思うと、瑤子はまた胸を締めつけられるような気がした。けれども、それを止めてくれとは言えなかった。自分が蒔いた種なのだ。「彼」はそれ以上話さなかったし、瑤子も先の話に相槌を打ったほかは何も言わなかった。十分の休憩の後、二人は、木々に覆われて洞窟のような道に入った。雨の降った時には川になるのだろう。足下にはバスケットボール程の苔むした石がそこここに転がっている。道幅は一メートルもない。その逼塞したような暗い道を無言で歩くうち、瑤子はかつての「彼」との関係を永久に復活できないと考えた。それは随分気の滅入る事実だった。昨日まで、いやつい今朝まで、二人は上手くやってきていた。「彼」は自分の自意識のままに話し、行動していた。ちょうど今でも瑤子がそうしているように。だが、今後「彼」は常に自分が考えたことの全てに「オリジナルの記憶と知識に従えば」という条件をつけるだろう。そして、彼女に対してはそれを明示し続けるだろう。「彼」の発する一語一句がオリジナルの言葉のコピーでは決してないはずなのに、「彼」は自分に対しても、瑤子に対しても、「私の言うことはみんなコピーです」と指し示し続けるのだ。それは「彼」にとって、そして彼女にとっても、辛く悲しいことであるのに。二人の関係は、「彼」にそれ以外の態度をとりようがないようにしてしまった。そして、そうした関係を作り出したのは、他ならぬ自分自身なのだ。瑤子は大声を上げて叫びたいような気持ちになった。

 だが、落ち込んでばかりもいられない。

「ここからは苦しいよ」

 そう「彼」が声をかけた後の道は本当に難路だったからだ。膝あたりまでの高さをもつ岩でできた階段、それを登らねばならなかった。片足を上段の岩にかけ、体を引き上げるという単調な作業は、予想外に足の筋肉を酷使させる。瑤子には考える余裕がもはやなかった。自分の激しい息づかい以外には何も感じることが出来なかった。

「さあ、これで難所は終わりだ。」

 彼がそう言った時、瑤子は初めて顔を挙げ、行く手にもはや岩のないことに気付いたほどだった。

「後ろを見てご覧」

 「彼」の言葉に振り返ってみると、急峻な岩場の向こうには、二人が抜けてきた道が森の中に暗い一条の陰を作っていた。

「あんな所を抜けてきたのね。」

 瑤子は波打った緑色のスポンジのように見える広大な木々の群生を見て驚いた。熊に出会ってもおかしくないほどの深い原生林だった。

 

 勾配は依然として急だったが、斜面に斜めに走った道が何度も折り返しており、歩くのに苦労はなかった。道の脇には背の低い草木が茶色く立ち枯れている。

「春にはここが一面花だらけになるそうだよ。原生花園といって自然のお花畑なんだ。それにほらあそこ。」

 瑤子は彼が指さした方を見て息を呑んだ。下方に見える幅三十メートル、長さ五十メートルほどの若干くぼんだ逆三角形の溝にあるのは、雪だった。

「雪渓だ。去年の雪がそのまま残っているんだ。ここでは、“La neige d'antan”が年中見られる。」

「ヴィヨンもここでは“去年の雪、今いずこ”とは言えないわけね。」

「人が年老いて、死ぬということまでは、変わらないけれどもね。ただ、僕は例外なわけだ。永久に年をとらない。ヴィヨンのいうように、若いうちは楽しく暮らそう、というわけにも行かない。そもそも、若い日々が僕には生まれた時からなかったんだから。」

 彼は自分がコピーだということを指し示すのは忘れなかったが、それでもなお、自分の今の気持ちを言葉に表そうとだけはしている。それは瑤子にとってうれしいことだった。永久の沈黙が、必要以上のことは一切話さない無言が、二人の間を支配するのではないかと、彼女は恐れていたのだ。瑤子は元気づけるように明るい声で答えた。

「でも、経験や知識は増えていくわけでしょう。それは結局年をとるということじゃないかしら。あなたは永久に変わらないわけじゃないわ。」

 けれども、彼は黙って歩き始めた。それは明らかに自分の考えに沈潜していくオリジナルの態度だ。年をとらないこと。それ関する悩みは他人が口先で元気づけられるほどに単純な問題ではなかった。昨夜考えたとおり、経験交換を行う限り、彼は主体をもちえないのだ。今更ながらに瑤子は気付いて、自分の脳天気と、先に感じた自己中心的な安堵の感情を恥じた。

 

 すぐにも二人は広大で平坦な場所に至った。強風にさらされるために高木が育たないその台地から、頂上がケルンのように空に向けて突き出ている。

「多分、火山活動のせいでこんな奇妙なことになっているんだ。山の頂上が浸食作用で平坦になったところへ、溶岩が吹き出して来て、それであんな三角帽子みたいな最高峰ができたわけだ。もともとは一枚岩だったんだろうけれど、今では風雨の作用で幾つもの巨岩に割れているよ。」

 実際、頂上は遠目にも巨大な積み木細工のように見えた。その巨岩の連なりの背後を強風に煽られた雲がものすごい勢いで流れていく。じっと見ていると、世界がねじ曲がって、頂上がこちらに向けて倒れかかって来るように思えた。

「頂上は六畳くらいの広さしかないし、風が強くてテントは張れない。」

 二人は登山道の周辺にテントを捜した。平坦な場所とはいえ、ほとんどが這松の茂みに覆われているので、捜さねばならない場所はわずかだ。テントは一張りも見つからなかった。

「もしかすると、宇登呂側に下山したのかも知れない。羅臼側に降りるのは確実だと思ったんだが。不思議だな。僕なら絶対そうするけれどね。予定を変更して宇登呂側に下山しよう。急ごう。日暮れ前に下山しないと厄介だ。」

 腕時計を見ると二時を廻っていた。