十五、

 

 宇登呂側の登山道はハイキング用に整備されており、丸太を使って階段が作られていた。足早にそこを降り、五合目の水場に至った時には三時だった。

「四時過ぎにはキャンプ場にたどり着けそうだね。」

 だが、瑤子はその楽観的な言葉に相槌を打てなかった。歩くのが辛くて仕方がない。足裏の何カ所かに肉刺ができ、それをかばう歩き方をするうちに、膝と股の付け根がおかしくなったのだ。彼女はそのことを伝えた。

「しまった。うっかりしてたよ。履き馴れない靴だし、それに、階段状の降り坂は膝を痛め易いんだ。慣れた道だから油断していた。君の方は全然知らないところなのにね。」

 だが、そう言っている彼自身の顔も汗にまみれて疲労の色を濃くしている。明らかにペースが速すぎたのだ。そして実を言えば、そのことに瑤子は気付いていたのだった。

 急ぎ足で道をくだる彼は、瑤子の足も、自分の体力も省みないで早足を保ち続けた。それでも彼女が黙って従ったのは、彼が考えごとをしており、そこに割り込むのを躊躇ったからだ。おそらく「年をとること」について考えているに違いない、滅びぬ体を持つ彼にとってそれは切実な問題だろう、そんな風に考えて、声をかけることができず、そして、瑤子自身、自分の思考に引きずり込まれる具合にして、不調を訴え始めた足に心を配らず、深刻な状態になるまで放置していたのだった。

「暗くなるまでに降りられるかしら?」

「わからないけど、ゆっくり歩こう。一応、ザックにはヘッドライトが入っている。本当に悪いことしたね。考えごとをしていたんだ。どうして、オリジナルが見つからないんだろう。今日は確実に見つかると思っていたのに。」

 けれども、彼が捜索の不調以上に深刻な問題を考えているのは明らかだった。このままだと、水場のせせらぎを眺めて夕暮れを待つことにもなりかねない雰囲気だ。瑤子は声をかけた。

「まだ、見つからないとは限らないわ。さあ、降り始めましょう。」

 彼はゆっくりと小股で歩き始める。なだらかな道なので、脚の痛みも多少はましだ。彼はまた自分の考えに沈み込み始めたようだった。それでもペースが速まらないのは彼自身が疲労しているためだろう。瑤子もまた、歩きながら先の続きを考え始めた。

 

 彼は死を心底恐れているのに、年をとらないことにもやりきれなさを感じている。その苦しみはあまりに人間的だ。そう瑤子は思った。彼の矛盾した感情はもちろん生身の人間にはありえない。けれども、彼の立場に立たされたとしたら、誰もが同じ苦しみを味わうのではないだろうか。発作の時に眼前に広がった死のイメージが思い浮かぶ。漆黒の闇をたたえる大口を開けた悪魔。そこに飲み込まれるのは怖い。だが、その無限の暗闇を永久に見つめ続けるのはもっと恐ろしい。年をとらずに生き続けること。それは単に死なないこと、無機物になるのを免れることだが、結局のところ、それは死と変わりがない。あまりにも辛い人生だ。瑤子は、彼がそんな気持ちを味わっていると考えたくなかった。だが、今朝彼の心を傷つけてしまったのを事実だと認めている以上、彼のその人間的な苦しみだけが実在しないと思いこむのは不可能だった。

 それとも、彼を傷つけたという確信そのものが錯覚にすぎないのだろうか。瑤子は思った。確かに、今日までに幾度もコピーのあまりの「生き物らしさ」に目を欺かれた。胸に耳をあてて聞いた心臓の鼓動、失神して血の気の失せた顔、坂を上る苦しげな息づかい、汗に濡れた頬や鼻、膚を覆う産毛、掌の握り痕、暖かい唇、額の瘤! 人工臓器の粋を結集した彼の体はまさしく騙し絵のようなものかも知れない。あり得ないと分かっていながらも、絵を眺めれば実在すると思わざるを得ない、永久に続く階段――上りきった地点が、上り始めた場所となる階段。それを思い浮かべた。だが、そのイメージには、そこを永劫歩き続ける彼の姿が重なり合う。瑤子はそれを我が身のことのように感じてぞっとすると同時に、それまでの彼に対する自分の態度が一つ一つおぞましく思い起こされた。

 今朝の言動は論外にしても、――というよりも、今それらを逐一思い出せば、自責の念に耐えきれないだろう――、それ以前にも、彼女はコピーが機械に過ぎないとタカを括るところがあった。スイート・ルームを二部屋とった時もそうだ。瑤子は、それを無駄なことだと考えたのだ。もちろん、それには網走行きの飛行機の中での錯覚も作用していた。あの時、彼女は一瞬、島田と一緒に旅行しているような気分になっていたのだが、その錯覚が幸福に満ちたものであるだけに、現実を突きつけられた際には手ひどい打撃を被らざるを得なかった。だから、同じ失敗を繰り返すまいと、意識的に彼をモノ扱いするところがあったのだ。

 だが、彼女が受けたダメージは、もちろん「彼」が責を負うべきものではない。にも拘わらず、部屋の鍵をフロントで受け取りながら、瑤子は心の中で、人間とロボットが別々に部屋をとるなんて、と言い放ったのだ。

 そのことを思い出すと同時に、瑤子の眼前には切り傷めいた彼の表情が立ち現れ、今朝自分が心の中で発した、そして実際口に出しそうになった言葉が胸中に響いた。

「機械の癖にそうそう一人で判断を下されたんじゃたまらないわ」

 瑤子はあまりの自己嫌悪に、思わず、「あっ」と声をあげた。が、それは瑤子の声ではなかった。自分が叫んでしまったかと思うほどのタイミングで、コピーが叫んだのだった。瑤子は思わず立ち止まり、彼の方も足をとめた。もう日は暮れ始めていたが、振り返った彼の顔が真っ青なのは分かった。

「どうしたの。大丈夫?」

「大丈夫だ……。それより、僕はいつも夏の間にここに来ていたから、日暮れもその時期のことを考えていたんだ。空は五時半くらいまで明るいけど、四時頃には道が見えなくなるはずだよ。木が茂っているから。」

 確かに、腕時計はまだ三時半をまわったところだったが、すでに辺りは薄暗かった。だが、彼の顔色、大丈夫だといった後の間合いは、全然別のことで彼が叫んだということを意味していた。二人の間には、互いの思考の邪魔をしないという暗黙の了解事項があったが、この時ばかりは、瑤子は尋ねざるを得なかった。

「どうして叫んだの? 何を考えたの?」

 彼は答えない。目は彼女の背後を眺めている。瑤子は煙草に火を点けた。彼は返答を拒否しているのでない、言葉を整理しているのだ。それが分かったから、待った。しばらくすると、彼はゆっくりとした口調で話し始めた。

「さ迷えるユダヤ人、っていうのがあったね。ほら、キリストを侮辱したために、永久に死ぬことなく、この世を渡り歩く、あのユダヤ人。彼は、それで反省したんだろうか? むしろ、一層神を憎悪しているように思うよ。もし、キリスト教の教えが正しいとすれば、そのユダヤ人も神が造ったはずだろう? 冒涜的なユダヤ人を神が造り、そのユダヤ人を神が罰する。まるで、マッチポンプだ。でも、そのマッチポンプにもまして、ユダヤ人が神を憎悪するのは永久に死ねない、というただそれだけの事実によると思うね。」

「あなたはオリジナルが憎いのね。あなたを生み出しておきながら、あなたを見捨てたオリジナルが。」

「僕が人間ならば、彼を殺すこともあり得た。そう思うよ。だけど、僕はコピーだ。オリジナルを抹殺するわけにはいかない。」

 彼は再び歩き始めた。瑤子は何も言わなかった。問われたところで、言うべき言葉が見つからなかっただろう。もし、彼がオリジナルを殺してしまったら、どうなるのだろうか。機能停止? 破壊? 彼のその後を思わずにはおれなかった。