十六、

 

 五時半を廻って山を降りきった時、日はすっかり暮れていた。ヘッドライトがあったので足下の心配はなかったが、寒さには苦しめられた。痛めた足をかばってゆっくり歩くので、体が冷え始めたのだ。もう山登りはこりごりだ。歩いている時、瑤子は何度もそう思った。だが、それは長続きしなかった。季節をはずれて、閑散としたホテルの温泉に疲れた体をゆっくり浸していると、その日一日の経験が好ましいものとして甦って来たのだ。暗い山道から、ようやく麓のホテルの明かりが見えた時彼は言った。

「山登りは、帰り道の気分が最悪だね。くたくたに疲れて、これで最後にしようと心底思う。けれども、帰って、風呂に浸かっていると、その時にはもう楽しい思い出に変わっている。で、また性懲りもなく同じ苦行を繰り返すことになるわけだ」

 本当に、その言葉通りだった。記憶に残るあらゆる景色が美しいものになっていた。体に刻み込まれた一歩一歩の苦痛さえもが好ましかった。瑤子は考え始めた。

 また何時か来て、あの雪渓と岩だらけの頂上を眺めたい。今度は花の季節が良いだろう。まだ、雪渓どころか大量の雪の残る山肌の一面に、赤や黄、白の野花が咲き乱れるのは息を呑むような美しさに違いない。今度は強い風の吹く岩だらけの頂上にも登ってみたい。

 だが、誰と? 瑤子は自分の発したその問に愕然とせざるを得なかった。再び雪渓を眺め、山肌にはりついた原生花園を見おろす自分のイメージのそばには、彼がいるほかなかったからだ。それは、リセットされた彼でもなく、オリジナルの記憶を新たに注入された彼でもない。もちろん、オリジナルでさえない。ほかならない、今ここにいる彼だ。彼女が再現を望む今日一日の経験をともに作り上げたのは彼であって、他人が這い入る余地などどこにもなかった。

 

 でも、それって本当に可能なの?

 

 黒く無機質な光を湛えて回転するハードディスク、目まぐるしく電流の流れるCPUを瑤子は思い浮かべた。それらの装置に支えられた彼の思考に本当に共感し得るのか?

 分からなかった。彼の記憶はオリジナルが見つかりすれば、オリジナルにも共有されることになるだろう。そのオリジナルとの登山でも駄目なのか? 生身の人間で、しかもオリジナルはではないか。

 だが、オリジナルは決して彼女との関係を深めようとはしないだろう。その彼との登山など不可能だ。

 そう考えて、瑤子はぎくりとした。島田本人では無理だから、機械の彼で我慢しなさい。そんな風に自分を説得しようとしているのではないか、と疑ったからだ。もし、そうだとすれば、何のことはない、瑤子は彼をダッチワイフならぬダッチハズバンド扱いしていることになる。

 だが、ここ数日の自分の心を振り返ってみれば、その疑念は馬鹿げていた。それまで瑤子は、全く逆の考え方をしていたのだ。島田と取り違えてであれ、彼女は最初からずっと彼に惹きつけられていた。だが、その吸引力には彼女の自尊心を傷つけるものがあった。生身の島田に見向きもされないから、島田を生き写しにコピーした機械人形で間に合わせる、そんな惨めなことはない。そんな風に心のどこかで思っていた。

 だが、彼は今やオリジナルと同一人物ではない。瑤子はコピーで満足しようとしているのではなく、コピーが独自の内面をもった人間だということに気づいたのだ。たとえ、それ以前の知識と経験が彼のものでないとしても、少なくとも、この一週間の思考と感情は彼独自のものだ。そして、彼女との関係もオリジナルの場合とは全く異なってしまった。そのことがオリジナルとコピーを瑤子にとって全くの別人にしてしまったのだ。オリジナルは彼ほど自分の内面を明らかにすることはなかった。もちろん、オリジナルの言葉の一つ一つは知性と感性に裏打ちされており、言葉の背後に豊かな精神があることは理解できたし、彼女が惹かれたのはまさにそのためだっただろう。けれども、今の彼女には、オリジナルの心の実在を彼の心の実在ほどに確信できない。そして、それは一生そのままだろう。彼はもはやコピーではない。急速にオリジナルから遠ざかり始めているのだ。けれども、彼は……

 瑤子は意識が遠のいていくのを感じた。溺れるのを恐れて、湯船の外に這い上がりはしたが、それ以上は体を動かすことも、考えることもできなかった。

 人の声、それに続く足音の連打。瑤子は大勢の手で持ち上げられるのを感じた。