十七、

 

 気が付くと彼が団扇でそよ風を送り続けてくれていた。どうやら、部屋に運び込まれたようだ。瑤子が意識を取り戻したのを見て取ると、彼は微笑んで静かな声で言った。

「疲れが出たんだろうね。後から入ってきた人が気付いて、フロントに駆け込んでくれたんだ。ともかく、たいしたことがなくて良かったよ。」

「どれくらい気を失ってたのかしら。」

 瑤子は差し出されたコップを受け取って水を飲みながら尋ねた。

「良く分からないけど、運び込まれてからは五分くらいだよ。」

 電話が鳴る。

「ええ、今気がつきましたから。どうもありがとうございました」

 受話器を置くと彼はまた微笑んで、

「手慣れたものだね。結構あるそうだよ、浴場で倒れる人が。君を運んだ人たちは、いびきをかいたりしていないから、単なる貧血だって、すぐ引き返していったんだ。ほんの数分で目を覚ますってね。」

「なんとなく憶えてるわ。声の大きな女の人だったわね。」

「男が運ぶわけに行かないから、力の強い女性をかき集めてくれたんだよ。」

「こんなことになったの、初めてだわ。」

「きっと、疲れすぎてたんだ。」

 瑤子はそのまま受け流そうかとも思った。だが、考えはもはや固まっていた。今話し始めるしかなかった。

「ううん、違う。考え事をしてたの。私とあなたの関係てなんだろうって。」

 目に涙が浮かび始める。彼は深い溜息をついて言った。

「僕のことで苦しむのは無駄なことだよ。君が僕を人間ととらえるか機械ととらえるかで逡巡するのは良く分かる。でも、はっきりしている。『僕は機械に過ぎない』、それが答だ。オリジナルと経験交換をすれば、ずれはなくなる。そうすれば、僕をオリジナルと見なして構わないわけだ。このずれは解消されるんだよ。近日中にね。彼は絶対にここにいる。」

 瑤子は上体を起こした。

「でも、あなたはそのずれを失うことが怖くないの。あなたは、経験交換する限り、決して真の意味では年をとれないわ。自分独自の、個人としての経験を蓄積できないことになるわ。だからこそ、あなたは『年をとること』にこだわったのじゃないの?

 それに、あなた自身、自分を『機械に過ぎない』とは絶対に感じていない。私と部屋を分けたのは何故? 機械に過ぎないのなら、部屋を別々にするのは無駄なことだわ。」

 彼は一瞬絶句した。動揺を感じ取られまいと顔がうつむく。

「僕はね、先にも言ったとおり半分有機体なんだ。生殖能力はないけれど性機能さえもちゃんと備わっているんだ。男性機能をもった僕が君と同室するわけには行かないよ。」

「どうして私との同室がセックスと結びつくの? オリジナルは私とのセックスを完全に拒んだわ。あなたがオリジナルそのままなら私との間に何も起こるはずはないわ。」

 瑤子は彼を追いつめつつあった。彼にはもはや狼狽を隠す余裕もない。うわずる声で反論してくる。

「いや、たとえオリジナルでも君との同室は避けたろう。だから、僕はその点でオリジナルと同じ行動をしていることになるよ。」

「ならないわ。行動は同じでも思考が違う。オリジナルなら私との性関係の可能性を引き合いに出して、別室にした理由を説明しないわ。」

 彼の額が汗に光り始める。

「もちろん、オリジナルとは立場の違いはあるさ。もし僕が君と関係を結んでしまえば、オリジナルとのずれが決定的になる。僕の経験を彼の頭脳に移し入れることは不可能になるよ。彼自身には身に覚えのない浮気の記憶のために、妻に対してひどい負い目を感じることになるからね。僕としてはそういう事態を予防することにも心を砕いているんだよ。」

「どうして、そういう事態を予見するの? それはあなたが私とのセックスを欲しているからだわ。あなたは、もうオリジナルとは決定的に違ってしまっているのよ。たとえ私とセックスしなくても、オリジナルは私とのセックスを欲望したことで、奥さんに負い目を感じるわよ。あなたの記憶をオリジナルに引き渡すのはもう不可能なのよ。」

 彼は椅子にゆっくりと腰を落とし、自分のつま先を見た。瑤子も差し向かいに座った。

「彼自身がね、君とのセックスを欲しなかったわけではないんだよ。だが、妻との今後のことを考えれば、それができないこともはっきりしていた。だから、そうした欲望を押し殺したんだ。僕には直接妻との関係があるわけじゃない。彼との記憶を通してのみの関係があるだけだ。だから、おそらく欲望を抑える力が弱いんだ。」

「私への気持ちをそんな子供じみた算数で説明するの?」

 彼は顔を挙げた。そこには怒りと悲しみがはっきりと見て取れた。

「僕はね、オリジナルの代用はご免だ。君はオリジナルへの欲望を僕で解消しようとしているに過ぎない。結局僕が君を愛しても、君にとって僕は単なる代用品なんだ。」

 一息に言った後、彼は口をつぐんだ。ひどいことを言ったと思ったのだろう。だが、今の瑤子には彼が見せる感情の激発さえ嬉しかった。彼女はそれを態度で示すため、微笑んでゆっくり首を振った。

「考えていることを全部言って。」

 彼は膝の前で手を組みなおも黙り込んでいた。落ち着こうとしているのだ。瑤子がもう一度微笑むと彼は再び話し始めた。

「僕はね、君が僕の言葉通りに救急車を呼ばないでいてくれたことに、最初本当に感謝したんだ。半分諦めてたんだ。君が救急車を呼んで全てが終わるかも知れないとね。だが、君は僕の言うことを信じてくれた。君は本当に僕を愛しているんだと思った。けれどね、本当は僕への愛情じゃない。オリジナルへの愛情なんだ。そうした信頼関係を君と作り上げたのはオリジナルであって、僕じゃないからね。君が僕への信頼や愛情を示してくれたところで、それは全てオリジナルに対してのものなんだ。」

「あなたはオリジナルに嫉妬しているの?」

「恐らくそうだ。僕自身最初はそんなこと考えもしなかった。けれども、今日、オリジナルと取り違えられないように気を付ける、と言ったろう。あの後の苦しさは耐え難かった。僕は自分の言葉を君に対して発することができないんだ。で、どうしたか。結局諦めたんだ。君に話す事をじゃない、自分がコピーだと言い続けることをだ。僕は君と話がしたくて仕方がなかった。そして、自分の言葉を発することにしようと決心したとたんに、もしかしたら、君の方は僕の言葉をあくまでオリジナルの言葉のコピーとして聞いているんじゃないかと思い始めたんだ。オリジナルを殺したいと思ったのはその時だった。僕はオリジナルの代用となることがたまらないんだ。」

「たしかに、最初はあなたをオリジナルと取り違えたこともあったわ。でも、今は違う。私は、あなたを一人の人間と見ている。私が悩んでいるのは、機械のあなたとどう接するかということじゃない。あなたの内面との関係、人間関係で悩んでいるのよ。あなたの人間関係を壊されることがたまらないの。本当なら、一度限りのはずの私とあなたの色々な経験が、オリジナルに追体験されてしまう。それでも構わないの?」

「けれども、僕の経験は本来全部オリジナルのものだ。君が僕に対して何らかの感情や気持ちを抱いたとしても、それは全てオリジナル対して向けられるものじゃないのかい。」

「それは違うわ。たとえば、救急車を呼ばなかったことで実感した私との信頼関係は、あなたしか知らないものだわ。メメント・モリの話だって彼の考えたことじゃない。あなたの考えたことよ。だって、木々や魚が表していたのは、あなた自身のことじゃない。もし、オリジナルが同じことを考えたのなら、あなたを絶対に作りはしなかった。あなたは自分のコピーが欲しいとは思わないでしょう?」

「こんな辛い立場の存在を増やしたくはないね。」

「ね。あなたはオリジナルにない経験を蓄積しているのよ。たとえ、あなたの知識と経験のベースがオリジナルから受け継いだものだとしても、あなたはもはやオリジナルと同じ判断を下すことはできない。この一週間の経験で、あなたはオリジナルとは決定的にずれてしまったんだわ。」

 瑤子自身口にしてそのことを始めて実感した。彼はオリジナルとは違うということを。彼が自分の傷よりも、彼女の傷に痛みを感じてくれた時、瑤子は島田も同じことをするだろうと思った。けれども、それは間違いだった。彼だからこそ、自分よりも彼女のことを気遣ってくれたのだ。そして、彼と同様に振る舞うはずなのは、島田なのではなく、瑤子が愛すべき人間だったのだ。

 瑤子は彼の手をとって言った。

「オリジナルから決定的にずれてしまった今ここにいるあなた、私はそのあなたを欲しているのよ。」