十八、

 

 瑤子は彼の腕の中で目覚めた。彼はまだ眠っている。昨夜のセックスは全く不調に終わった。

「ちくしょう、寺尾の奴、規制を全部を外さなかったな」

 悪態をつきながら彼は不能のペニスを見つめた。寺尾は嫉妬にからんで規制の一部を故意に外さなかったらしい。だが、寺尾さえも彼に人間に対するような嫉妬を燃やしていたことは面白い。むろん、良く考えてみれば、それはオリジナルへの嫉妬の転化だろうし、もしかしたら、彼の記憶にオリジナルに差し障りのあるところが出てはという単なる配慮かも知れない。けれども、いずれにしても瑤子と彼がそういう関係になり得ると寺尾が想像していたのはおかしかった。

 セックスそのものは上手く行かなかったが、彼がそうする気になってくれたことはうれしかった。というよりも、それは新しい発見でさえあった。有り体に言えば、ペニスをヴァギナに挿入し射精に持ち込むこと、それがセックスだと瑤子は思っていたのだった。保険会社に勤めていた頃の女友達が恋人の不能に悩んでいたことがある。キスをしたり、互いの性器を触り合ったりしているうちは隆々としているのに、いざというときになると見るも無惨に萎れてしまう、友達はそうこぼした後、言ったものだ、

「けれども、前技のうちはタッテいるのに、入れるときにしぼんじゃうって、やっぱり情けないよね。向こうは口か手でイカして欲しそうにするけど、絶対そんなことしてやるかっていう気になるよ」

 と。その時、瑤子は心底同意したのだが、今となっていれば、そこまで挿入と言うことだけにこだわる女友達こそが、哀れな恋人の不能の原因だったのではないかと思えるほどだ。触れているだけでも幸せだという気分にどうしてなれなかったのだろう。けれども、それは友人に対するというより、自分自身に対する批判だった。彼女と寝た男たちのうち何人かが、一度限りで、その後彼女に近寄ろうとしなかったのは、あながち「たんにそれだけが目当てだった」わけではなく、彼女が「それだけの女だった」からかも知れないではないか。だが、「触れているだけで幸せ」な男がこれまでに居なかったのも事実だった。

 瑤子は彼の胸に手を置いて、心臓の鼓動を楽しんでいた。やがて彼も目を覚ました。

「もう一度羅臼に行ってみる?」。

「あは。何だかどうでも良いような気分になってきたよ。でも、探さないとね。HOKUSAI社が経営危機に陥ってしまう。」

「それにコピー計画は失敗に終わりましたってことも納得してもらわなくちゃ。寺尾さんに規制を外してもらわないとね。」

「本当に寺尾の奴と来たら……。」

 彼の方はまだ根に持っているらしい。インポテンツというのは相手の女よりも、当の男の方にひどく応えるものなのかも知れない。けれども、彼の言葉には恨みがましいところがなかった。彼もまた「触れているだけで幸せ」な気分になったのだろう。

 瑤子は威勢良く体を起こすと言った。

「ともかく、早く探さなくちゃね。」

 ロビーに降り、彼がカードで支払いを済ませる。瑤子はラックに掛けられた新聞を手にとった。白抜きの見出しが目に飛び込んできた。

「HOKUSAI社社長自殺、自宅の地下室で発見される」

 信じられなかった。

「世界のコンピューターの六割以上に用いられているO.S.を開発した、HOKUSAI社社長、島田茂一氏(39)が自宅の地下室で首を吊っているのが昨夜十二時頃発見された。たまたま地下室に降りた夫人が発見したとのこと。島田氏は十日間ほど出張すると夫人に言っていたらしい。遺書等は今の所見つかっていない。」

 大慌てで衛星電話のスイッチを入れる。昨晩以来オフにしたままだったのだ。留守電が入っている。

「寺尾だ。社長が自殺した。すぐに連絡してくれ。」

 瑤子は彼に駆け寄った。

「オリジナルが自殺したわ。」

 彼は卒倒せんばかりにソファに倒れ込む。すぐに寺尾氏に電話をかける。

「何してたんだ。宿泊地は知らせてこないわ。衛星電話はかからんわ。こっちはもう大騒ぎだぞ。ともかくすぐに帰ってきてくれ、そっちから網走空港まではヘリをチャーターした。コピーの方は仙台に向かわせて、君はすぐ本社に行くんだ。コピーにはサングラスを掛けさせろ、死んだはずの社長がいると騒ぎがよけい大きくなる。」

「私が本社に帰ったところで出来ることなんかないわよ。それより、彼を移動させるのは拙いんじゃない。いくらサングラスをかけたって分かる人には分かるわよ。」

「分かった。じゃあ、そちらで待機してくれ。あまり出歩くなよ。」

「そんなこと大きなお世話よ。この辺りに彼の顔を知っている人なんかいないわよ。写真を公表してないんだから。」

「それもそうだな。じゃあ、ともかく待機してくれ。」

「分かったわ。」

 一瞬黙った後、寺尾はぽつりと尋ねた。

「だが、あんたは社長の葬式に出なくて良いのか。」

「私が愛しているのは、今ここにいる彼よ。」

 寺尾が息をのむ音が受話器からもはっきり聞こえた。

「もし、彼の電源を切ったりしたら、私も自殺するわよ。」

「分かった。」

 

「これからどうなるんだろう。」

 彼の青ざめた顔には脂汗が一面に浮かんでいた。

「大丈夫。あなたを絶対に守ってみせるわ。」

 

      十八、

 

 葬儀、後任社長選びといったことが全て済んだ後、寺尾は羅臼温泉のホテルにまでやってきた。彼は二人に仙台に来るよう求めたのだが、瑤子は拒んだ。研究所に入った途端に、彼の電源を切られてはたまらないからだ。寺尾ははげ上がった頭頂を汗に光らせながら、ロビーに入ってきた。今では副社長だ。

「やあ、この一週間本当に大変だった。平均株価が相当下落したんだぜ。今や日本経済の大きな牽引力になってる我が社の急速な成長が、前社長によるものだってことは、国際的に知られてたからな。」

 その言葉を聞きながら、瑤子は彼の待つ部屋に案内した。まずは、盗聴チェックをした後、寺尾はそれでも声を潜めて言った。

「えらいことをしでかしたな。あんたたち。一体どうするつもりだ。城島さんは退職届けを出してるが、二人で食って行くにも困るんじゃないのか。社長の財産はもちろん奥さんのもので、あんたたちのものじゃない。彼の方には維持費も結構かかるんだぜ。」

 瑤子はそれまで彼の生命を保つのにお金がかかるということを考えてもみなかったのでどっとばかりに汗をかいた。

「年間一億はかかるぜ。故障すれば十億なんかすぐ消し飛んじまう。」

 だが、そういった後で寺尾はにやりと笑った。

「今後も我が社の経営に二人で尽力してくれるんなら別だ。俺一人じゃとても切り回せんよ、HOKUSAI社は。今度の社長は顔だけだ。実質的な経営は俺がしなくちゃならない。社の実質的所有者である前社長の奥さんを裏切るようで申し訳ないが、できれば、前社長の意識を受け継いでいるあんたに経営を手伝って欲しい。奥さんにはあんたの存在は知らせないままになってるんだ。もし奥さんが知ったら、一悶着起こることは間違いないからな。どうだ、この条件を呑んでくれるか? あ、それと整形もしてもらわなくちゃいかん。でないと社内に出入りできない。」

 彼は寺尾の申し出を受け入れた。

「ただし、週三日しか勤務しないよ。僕も研究をすすめたいからね。」

「やっぱりあんたは、完全な人間だ。前社長がね、遺書を残してたよ。まあそれを見る限り、自殺の原因は突発的な鬱病だろう。遺書は自分が事故死した場合に、あんたをどうするかということを指示するものだったんだ。前社長のコンピューターから送ってきたよ。何日間か連続してコンピューターに一定の指示を与えなければ自動的に発送されるようになってたんだ。ここのところてんやわんやだったから、そのメールに気付いたのは遅れたんだが、発送された日は社長の自殺の三日後だった。それはともかく、前社長の指示は、あんたの電源を切るな、規制をとり払って、生かし続けろってことだった。規制を取り払えば、あんたは完全な自由意思をもった人間だから、というのがその理由だ。まあ、その点は前社長の認識が甘かったがね。あんたは規制をかけられている間も存在論的な不安を感じる一個の独立した人格だったと思うよ。」

 寺尾は煙草の煙を吐きながら彼の顔を見つめた。

「ただし、忘れるなよ、あんたの命も永遠じゃない。遺言は寿命を決めろとも言っている。最大生きて、前社長の年齢で百十歳までが限度だ。後は乱数表が決める。」

 

 結局の所、島田はコピーのためにばく大な秘密預金を残していた。それは研究費として既に使われたはずの金だったから、会社の資産にも夫人の相続財産にも属することはなかった。だが、それを知っても、彼は先の寺尾氏との交渉の結論を覆そうとはしなかった。そして、実質上社長以上の権限をもった副社長は、新しい彼の名前――城山章雄という名義のカードを手渡した。もとのカードは島田茂一名義だったが、もちろんオリジナルとは同姓同名の人物というだけだ。だから、そのまま使い続けても問題はなかった。だが、寺尾は言った。

「名前まで同じだと、あんたはいつまで経っても前社長のコピーだ。俺も無意識にあんたをコピー扱いするかも知れない。こいつはまずいだろう。まあ、ここのホテルは引き払ってくれ。同一人物が違う名義のカードを使っちゃ怪しまれるからな。」

 もちろん彼は拒まなかった。

「休暇は後二週間だ。いいな。」

 寺尾氏はそう言うと、ホテルの庭に待たせてあったヘリコプターに乗り込んで帰っていった。