十九、

 

 別のホテルに部屋を見つけ、夕暮れ頃に樹木の屍の林立する河原に行ってみた。そこは完全に水に浸かっていた。立ち枯れた木の高さからすれば、水の深さは一メートルくらいだろう。水際にも幾本かの枯木がたち、足下は大きな丸い石がごろごろしている。だが、彼が学生時代に感じたというような死の雰囲気はなかった。それでも二人は適当な大きさの石の上に腰を降ろして、水面に立ち並ぶ白い木々を見ていた。そのうち、瑤子は、飛行機の中でのことを思い出した。彼からここの話を聞いた時、人生のある時期にあった自分なら、ここから抜け出せなかったのではないかとさえ思ったのだった。今、現実に見てみると、拍子抜けするほどに穏やかな風景なのだが。それは彼にとっても同じなようで、この場所に自分の人生を変えるどんな魔力が潜んでいたのかと訝しく思う風だ。だが、周囲を木々に囲まれたこの枯木の林は、彼女の人生にも影響を与えたはずだと思われた。彼が影響を受けた以上、彼女もあの時にここに来ていたなら。ただ、自分はここを出発点と言うよりも終着点にしてしまったような気がする。そこが彼とは違うかも知れない。そう考えた後、瑤子は、今ようやくあの時の自分を乗り越えられたような気がして、彼にそのことを伝えたいと思った。

 

「私ね。十六の時にレイプされたの。相手は友達だったわ。ハイ・スクール時代の友達、学校は違ったけど。仲の良い二人の男子生徒がいてね。その片方を好きになったの。今、思えば、何で好きになったのか分からないけど、ハンサムで背が高くて、脚が長くて、逞しい胸板をしている、それだけで、好きになってしまう頃ってあるんでしょうね。で、その二人と一緒に過ごす時間が増えたわけ。なかなか、好きだとか言い出せないものだから、二人のグループと付き合っているって感じだった。で、ある日、ほら憶えているかしら、今から十年以上前にビートルズが爆発的にはやったの。」

「ああ、そんなことがあったっけ。確か、失われた筈のマスター・テープが見つかって、ニューアルバムが発売されたんだね。」

「そう、HOT SUNっていう題名の、一九六九年の二月にセッションが行われたのに、結局発売されなかったやつが売り出されたの。」

「結局コンピューターの合成だったんだろう。まだ生きていたポール・マッカトーニーが真っ赤な偽物だってインタビューに答えているのを見たよ。」

「ええ。でも、それをきっかけに火がついたビートルズ・ブームは冷めなかった。特に高校生たちにはね。で、その二人組のうちの一人が、ビートルズの全集を買ったの。そいつ金持ちだったの。」

「好きじゃなかった方の生徒?」

「ううん、好きだった方。それで、彼の部屋に学校帰りに寄ったわ。もちろん、もう一人の男の子も一緒だった。で、全集を聞き始めたんだけれど、そのうち、好きだった方の子がジョン・レノンの写真集を忘れたって学校に取りに行った。そしたら、残った方のやつが真っ赤な顔をして襲いかかってきたの。もちろん好きな男の子の部屋でそんなことになったんだから、必死に抵抗したけれど駄目だった。でね、終わると、そいつが『お前処女だったのか、もっとすれてると思ったけどな。悪いことしたな、すぐ帰れよ。もうすぐあいつが帰ってくる。あいつもヤルつもりだぜ。くじで俺が勝ったんだ。』って言うの。私はもう必死で逃げ帰ったわ。で、後はもうずたずただった。」

「アメリカに留学してた頃のことだね。」

「ええ。一人暮らしをしてたから、一層ひどいことになったわ。ドラッグを買うのは流石に怖かったから、お酒を飲みまくったの。とにかく、ぼんやりするとすぐにあのことが思い出されて、一旦考え始めるとどうしても頭を離れないの。で、お酒なら安心だろうと、浅はかにそう思って、昼も夜も飲み続けてたわ。もちろん、学校にも行けなかった。おかしいと気がついた両親が日本から駆けつけた時には、もう酒浸りだった。ちょっとでも酔いが冷めるとあの時のことが思い出される、そんな状態だった。両親はおろおろするばかりでどうにも出来なかったけれど、ともかくお酒を飲めないようにはしてくれた。部屋に外からカギをつけたの。窓には格子がついてたしね。でも、信じられる? 酒浸りになるには、それなりの理由があるんだから、それにちゃんと対処しなきゃ、娘が自殺することだってありえるはずじゃない。うちの親たちはそんなこと考えつきもしないの、二人とも学校の先生の癖して。だから、自力でどん底からはいあがるしかなかった。」

 瑤子はその時の辛い気持ちを思いだして、胸が詰まるように感じた。その様子を見て、彼がゆっくりと手を握ってきた。手は温かく悲しみの塊を少しずつ、だが確実に融かして行く。瑤子は再び話し始めた。

「最初は闇雲に苦しむだけだったわ。苦しくて苦しくて、その苦しみから抜け出したいとばかり考えていた。けれども、そのうち、どうしたところで、苦しみから抜け出せないと観念したの。で、どうしたかというと、ノートに、あの時の状況を克明に書き始めた。何度も、何度も書き直した。私をレイプした奴、レイプし損なった奴への呪いも書きまくったし、のこのことあんな奴の部屋に行った自分を責める文章も書いたわ。書く度に泣いたし、書いているうちも泣いた。でも、書くのを止めなかった。親とは口もきかなくなっていたから、私の話し相手は大学ノートだけだった。何冊にもなったわよ。で、ある日急に、こんなことで人生を棒に振ったら本当に空しいと思った。だって、生きたいからこそ、自殺したくないからこそ、こうして苦しみと戦っているんじゃない。何もしない、何もできない人生なら、戦う価値がない。そう思い始めた。で、闇雲に勉強を始めた。高校は中退だから、大学入試検定を受けて、学生になったらすぐ下宿したわ。親は猛反対したけれどもね。もう親の顔を見るのも嫌になってた。

 こんな話を今わざわざするのはね、もしかしたらあなたが私のことを勘違いしているのじゃないかと思ったから。」

「確かに、オリジナルの時代、」

 そう言って、彼は瑤子に微笑みかけた。

「君の申し出を断る時に、君にとっては、セックスは会話みたいなものだと言った覚えがあるよ。でも、それが誤解だったとも君の話を聞く前にすでに思っていた。かつての君はセックスの格下げをもくろんでいたわけだ。」

「ええ。ある程度親しい友人なら、セックスする。そう考えた方が、辛い経験が幾分かは背負いやすいものになると考えたの。もちろん、そうした例がいくらでもあることも知ってたわ。無意識に私と同じ選択をする人がいるのをね。でも、私はそれを意識しながらやっていたの。いや、むしろ意識的にやっているつもりだったと言った方が良いかも。あなたとのセックスで、やっぱり、何かおかしかったんだと思った。意識的にフリーセックスをやる人とはやっぱり違ったのね。」

 

 二人はここに来る前に初めてちゃんとしたセックスをしたのだった。寺尾は規制を外せと詰め寄る彼に、あっさりと言った。

「規制なんか掛けてないぜ。あんたが勝手にそう思いこんでるんだ。あの忙しい時に、規制を一つ一つチェックして外すなんて不可能だ。全部外した。だから、あんたは島田を殺すことだってできたんだ。」

 その言葉に嘘はなかった。

 ちなみに、寺尾は先の言葉に続けて瑤子にこうも言った。

「あんたは俺が勝手に奴の電源を切れると思ったらしいが、そんなことは不可能だぜ。電源を切ろうと思ったら、奴の体を切り開かないと無理だ。なんせ生体電流でCPUを動かしてるんだからな。もちろん、研究所のハードディスクの電源を切ることはできるが、それで奴が死ぬわけじゃない。

 奴が死ぬ時はコンピューターがパスワード付きのシグナルを送る。それを受けて身体が機能を停止するんだ。パスワードはコンピューターが決めたものだから俺も知らない。だから、もし、明日奴が死んでも俺の責任じゃない。乱数表が決めたことだ。」

 瑤子は、彼を守らなくてはという一心でとはいえ、電話でかなり不信をあらわにした態度をとっていたから、寺尾自身それに傷つくところもあったのだろう。彼が明日死ぬ可能性もあるという言葉は、それに一矢報いた面もあった。もとより、誤解していたのは彼女の方だから腹を立てる筋合いではない。瑤子はむしろ穏やかな気持ちで今朝のことを思い出し、美しいものとして眼前の風景を眺めていた。けれども、彼が何かを考えているらしいことも感じとっていた。そして、しばらくすると彼が口を開いた。

 

「僕はね、一つだけオリジナルつまり、島田氏にアンフェアなことをしたと思うよ。」

「え?」

「あの、メメント・モリの話だけれど。あの樹木や魚は僕のことではなくて、彼のことなんだ。あの話には君も共感するところがあったようだけど、それは今となっては当然のことだと思うよ。彼自身、学生時代に旅先で泊めてもらった家でレイプされたんだ。」

「え? 女の人に?」

「いや、男だ。ロンドンの酒場で大柄な男と懇意になってね。彼の家に泊めてもらった。相手がそういう奴だと知りもしないでね。で、ピストルで脅しながら、彼の肛門にグリセリンを塗って自分のペニスを押し込んだんだ。肛門から脚を伝って絨毯に染みを作った精液のイメージは僕にもはっきり思い出せる。で、逃げ出すようにパリに渡ったんだが、北駅のベンチに読み捨てられた新聞みたいな紙の雑誌――そいつは日本のスポーツ新聞よりもひどい内容だった――、その雑誌の開かれた頁には大男にやヤられている、貧弱な体つきの小男の写真が載っていた。それは正にあの時の彼自身の姿に見えた。それからは殆どホテルから出ないで、帰りの飛行機の離陸日を待ったよ。食べるものと来たら、ホテルの隣のパン屋で買うバケットばかりだった。そうやって二週間を過ごした後、ひどい鬱状態になって日本に帰ってきたんだ。

 ここへ来たのはその翌年だ。一年は完全に棒に振った。何もできなかった。何時も死ぬことばかり考えていたように思うよ。でも何とか折り合いをつけて、もう一度上昇しよう、そういう気持ちで北海道旅行をしたんだ。一年間家に篭りきりだったから、しばらく外で暮らそう。そんな感じだった。ここは馴染みの場所だったし、楽しい思い出が多かったからね。そして、実際、その旅行以来は好調な日々が多かった。ただ、あの鬱状態が再来することもなかったわけじゃない。間隔は確実に広がって行くが、思い出した時の恥辱、絶望、悲哀はむしろ深まっていく具合だった。恐らく、今度の自殺にはそのことも関わっていると思う。

 ただ、僕の場合は、それを上手く切り抜けられそうに思うよ。鬱状態の島田氏は自分の汚れた肉体を脱ぎ捨てられたらと何時も感じていたけれども、僕がそれを考えるのは傲慢だからね。色々な意味で。」

「確かに、あなたが自分の汚れた肉体を脱ぎ捨てたいと言ったら、私はどうなるの、と言い返したくなるわ。でも、不思議ね。あの辛い体験がなければ、恐らく私はあなたとこうしていないと思うわ。あなたのことが全然理解できなかったかも知れない。どうしてこんな辛い目に遭わなくてはならなかったのかと、あのことを思い出す度に考えたものだけれども、今では、その経験さえ無駄ではなかったと、そう思える。」

「確かに、僕もあの経験、僕が直接に経験したのではないにしても、あのことがなかったら、やっぱり君のことが理解できなかったかも知れない。」

 

 二人は枯木の幹を縫うように流れて行く枯れ葉を眺めた。日はもう暮れ始めて、冷たいはずの水面は、暖かげな赤色に染まっていた。滝を流れ落ちる奔流の音が遠くに響き、眼前の流れは物音一つたてないでいる。四囲を囲む山肌はすでに鬱蒼とした翳りを湛えて、そこを包んでいるのはすでに夜のとばりだ。

 瑤子は立ち上がった。

「明日には帰らないとね。休みはまだあるけど、色々と準備しなくちゃ。」