二十一、

 

 タクシーで島田の家に駆けつけると、彼がドアを開いた。瑤子は小声で尋ねた。

「奥さんは?」

「トランキライザーをのんで眠っているよ。」

「いったい、何が起こったの?」

「本屋で顔を合わせてしまったんだ。こっちはサングラスを掛けていたし、髭も生やしているから、ばれないと思ったんだけれど。」

 最悪の事態だ。瑤子は思った。よりによって、どうして本屋なんかに行くのだ。奥さんも大学教員なのだから、鉢合わせするのは目に見えているではないか。奥さんも奥さんだ。喪中だというのに。何もかもに腹が立った。

「とりあえず、中に入ってくれないか。」

「ここは、あなたの家じゃないのよ。」

「でも、玄関口で話すのも変だよ。」

 言いながら彼は玄関の置き時計の位置をなおす。一〇〇平方メートルを越えるリヴィングに入ると、彼は手慣れた様子でサイドボードのガラス戸を開き水割りの準備を始めた。

「ここは、あなたの家じゃないのよ。」

 瑤子は同じ言葉を繰り返さなければならなかった。彼は手を止めて、グラスを戸棚に返し、ゆったりとソファに腰掛けた。一体何を落ち着いているのよ。瑤子は苛立ったが、彼は平然している。

「そこに座れば良いよ。」

「奥さんには全部話したの? あなたが社長のコピーで、彼の記憶を受け継いでいるってことを。」

「もちろん、話さないよ。」

「じゃあ、奥さんは社長が生き返ったと思ってるわけ?」

「いや、そうじゃないんだ。」

 そう言いながら、彼は立ち上がり、サイド・ボードを開けて灰皿を出した。また勝手に何をするの、と一瞬思った後、瑤子は自分が無意識に煙草を吸い始めているのに気づいた。なぜ、自分の家に居るみたいに振る舞うのよ、その言葉を飲み込まなければならなかった。だが、喉を突き上げる怒りは収まらない。

「どうして、本屋なんかに行くのよ。」

「カーテンを買うって言ってたろう。カタログ雑誌を探しに行ったんだよ。まさか妻が来るとは思わなかったよ。普通、家にこもりきりのはずなんだから。きっと、それが耐えきれなくなって街にでかけたんだろうね。妻は一人で苦しみを乗り越えることができないんだよ。」

 今度こそ瑤子は爆発した。

「妻、妻って、彼女は社長の奥さんなのよ。どうしてそんな呼び方をするのよ。」

 彼は目を丸くした。何を怒っているのか分からないという表情だ。瑤子は自分が感じている不快感の原因をはっきり理解した。浮気相手の男の家に乗り込んだ女、それが彼女の役回りになっていた。大声を上げた後、汗が噴き出すのを感じた。島田の妻が目を覚ますのではないかと恐れたのだ。情けなかった。彼は社長とは別人だ、そう確信したんじゃなかったの? 奥さんが出て来たってどうって事ないじゃない。瑤子は自分を叱咤した。

 ふと思いついたように彼が立ち上がり、リヴィングを出ていった。戻ってきた彼が手に持っていたのはスリッパだった。何もはいていない瑤子の足下にそれを置く。彼女は目が回るような気がした。

「一体どうしたの? どうなっているの?」

 声が裏返って叫べなかった。涙があふれる。ここはあなたの家じゃないでしょう? あなたは私の恋人よね? 奥さんは他人でしょう? だって、私たちは新しい部屋も買ったものね。大きなベッドも買って、あなたのデスクも、ラックも買ったわよね。そこがあなたの家でしょう? ねえ、私があなたの奥さんでしょう? ここは他人の家よね? 私は荷造りしているのよ。あなたと一緒に住むんでしょう? ここはあなたの家じゃないわよね。 奥さんは関係ないわよね? コンピューターの内容も、私たちの家のやつに移したわよね。ここは、奥さんの家で、あなたの家じゃないわよね。ねえ、あなたは私の恋人でしょう? 奥さんとは他人よね?

 体中の力が抜けて、自分が軟体動物になったような気がした。熱かった。頭の中で重い塊がぐるぐる動いて、視線が定まらない。鼓膜が盛り上がっては、へこみ、体中の血液の流れる音が聞こえた。どうやって立ち上がったのか分からない。気が付いたときには彼の顔が目の前にあり、そこに唇を押しつけていた。だめよ、あなたは私の恋人なんだから。奥さんは関係ないわよね。この家は、社長の家でしょう? どうして、そんなにくつろぐの。私たちは恋人でしょ。ねえ、明日はカーテンを見なきゃ。新しい家に一緒に住むんでしょう? ここは他人の家でしょう?

 

 我に返ると、スカートがまくれあがり、彼は瑤子の上で息を切らせていた。足首にストッキングと一緒にからみついたパンティーがぬるぬるしている。フロント・ホックのブラジャーがシャツの中でずり落ちていた。

「奥さん、目を覚まさなかったしら。」

 彼は瑤子から体を放して言った。

「強力なトランキライザーだから朝まで目が覚めないよ。妻はひどい不眠症だから、医者に処方してもらってるんだ。」

 汗が急速に冷たくなり、体が冷えて行った。着衣をもとに戻して、洗面所に行く。鏡に映った自分の顔が醜かった。マスカラが頬に涙の痕を残し、口紅が唇の脇を赤く染めている。瑤子は顔を洗ったが、涙が止まらず、なかなか顔を拭い切れなかった。リヴィングに戻った時、瑤子は確信をもって言った。

「奥さんとセックスしたのね。」

 彼は一瞬困ったような顔をした後、うなずいた。涙はもう出なかった。声もうわずらないはずだ。瑤子は言った。

「社長の意識を持っているんだものね。」

「外に出ないか。」

 

 運転手に自分たちの新居に向かうよう彼が告げた時、瑤子は腹を立てた。だが、何か諦めめいたものが頭の芯を冒していて、声高には反対できなかった。

「私のマンションに行きましょう。」

 かすれる声で、かろうじてそう言っただけだ。荷造りをしている最中だったが、もう気にならなかった。今では鳥肌立つほどに浮ついた気分の蔓延する、あの部屋よりはましだ。化粧気一つなく、目を腫らした女と無言の男のカップルはさぞかし興味を惹くものがあるのだろう。ミラーに映った運転手と目が合った時、ふと思ったが、そんなことはどうでも良かった。

 部屋に戻ると、瑤子はすぐにシャワーを浴びた。リビングに戻ると、彼はソファに深々と腰掛けて煙草を吸っていた。

「ここに来たことを後悔しているの? 私のことなら、もう良いから、奥さんのところへ帰れば? 愛してるんでしょう?」

 けれども、そこまで言ったところで、瑤子は急に思った。この人は本当に社長なの? 島田は「妻を愛しているから」と言って、彼女とホテルに行くのを拒んだのではないか。彼はどうして私とセックスしたのだろう? それは奇妙に思われた。もちろん、オリジナルでも、先のような状況になれば、彼と同じことをしたかも知れない。そうも考えたが、やはり納得できなかった。彼女と夫人を同時に傷つけるかも知れないような選択を、島田がするとは思えなかった。たしかに、二股を掛けていたことがばれて、とりあえずセックスでごまかそうとする男はいるものだ。しかし、今日の場合、それは当てはまらない。いくら薬で眠っているとはいえ、夫人が起きてこないかと不安にならないというのは幾ら何でも理解できない。

 ふと、向かいに座っている彼の顔を見て瑶子は我が目を疑った。くつろいだ顔をしており、彼女を見る目が優しかったからだ。まるで、何事も起こらなかったようだ。そして、彼は話し始めた。

「妻はね、僕を島田氏にそっくりの他人だと思ったようだよ。もちろん、本屋で出会った時には完全に混乱していたけれどね。近づいて来た彼女に、やあって声を掛けた時には島田氏の自殺は悪夢に過ぎなかったと思ったんじゃないかな。何か呆然としている風だったよ。」

「どうして彼女と寝たの?」

 恨みがましい声だと自分で思ったが、もう気にならなかった。

「妻は弱いんだ。島田氏が死んで本当にまいっていたと思う。彼女は大学の後輩で、教え子だった。島田氏は母校で非常勤講師をしていたからね。だから、彼は妻の保護者だったんだよ。自分の苦しみなんか打ち明けたこともなかった。そんなことをすれば、ストレスで死んでしまうんじゃないかと心配していたんだ。」

「そんなことが聞きたいんじゃないわ。なぜ、奥さんと寝たの?」

「守ってあげなくちゃならないと思ったんだ。妻は僕を切実に必要としていたんだよ。」

 そう言った後、彼は少しがっかりしたように呟いた。

「結局失敗だったけれどね。」

「失敗って?」

「妻は僕を島田氏と良く似た別人で、赤の他人だと思ったんだ。ベッドの上で急に上体を起こして、あなたは誰って叫んだ後はもう無茶苦茶だった。当然だろうね、夫が死んで一月と経たないうちに別の男と寝てしまったと思ったんだから。罪悪感に耐え切れなかったんだ。本当に島田氏のことを好きだったんだろうね。」

「あなたは?」

「え?」

「あなたは奥さんを愛していないの?」

「まさか。僕が愛しているのは君だけだよ。」

 嘘だ。瑶子には分かった。この男は私も奥さんも愛していない。きっと私のことを奥さんに話す時にも、同じように客観的で冷静な口吻になるのだろう。そして、

「愛しているのは君だけだよ」

 そう言うに違いない。だが、嫉妬からそう思ったのではなかった。彼の顔が急にゴム膜を貼ったマネキンに見え始めたのだ。彼は私に対して完璧な恋人を演じようとしているだけだ。島田の妻に対してもそうだったに違いない。どうして今まで尋ねなかったのだろう。

「愛するということの意味があなたには分かる?」

「相手の喜ぶことを話し、相手が求める行動をすることだよ。」

 瑶子は繰り返した。

「愛するってどういうことかしら。」

「相手を心地良くさせるために最善を尽くすということだろうね。」

 脚が震え出す。駄目を押すのは恐かった。だが、もう現実から目をそらすことはできない。

「それであなたは喜びを感じるの?」

「感じるよ。」

「あなたは、そう言えば、私が心地よさ感じるから、『感じるよ』と答えたの?」

 彼は黙りこみ、考え始める。けれども、それは錯覚だ。瑤子は待つことなく、問いただした。

「今、何を考えているのかしら?」

「君の質問に『そうだ』と答えるのと、『そんなことはない』と答えるのとどちらが良いんだろう。」

 部屋の壁面がすべて歪み始めたような気がした。力を振り絞るようにしてたたみかける。

「今、何を考えているの?」

「さっきの質問に答えたことで、君が心地よさを失ったということだ。」

 間違いない。瑶子は昔友人からコンピューターの将棋のことを聞いたことがある。コンピューターは基本的に片っ端から手の先行きを読んでその中から最善の手を選ぶと言う。その際には、どんな無意味な手でも、原則として計算はする。それがアルゴリズムの基本だからだ。コピーも、超高速のCPUで、あらわゆる言動、行動を計算し、そこからもっとも島田らしいものを選び取っているに過ぎなかったのだ。そのことが良く分かった。完璧な手を選び取れるかどうかは、与えられた時間の長さかCPUの速度、局面の難易度に依存する。今回の件でコピーが奇妙な理由を取り出した理由ははっきりしていた。瑶子と島田の未亡人という二つのファクターがCPUの限界を超える複雑な状況を生み出したためだ。友人は言っていた。オセロならまともに戦えるコンピューターも、よりゲームが複雑になる将棋では支離滅裂な手を使うのだ。

 もちろん、定石というものはある。将棋はもちろんのことオセロにしても第一手から最善手を計算し始めたら大変だ。だから、ある程度既存の戦略に従って、最前手を選び、計算時間を節約する。だが、新たに戦略を作ることはできない。あくまで与えられた戦略に則って、コマを置いたり、進めたりするのだ。だから、定石が通用しない場合、一から計算しなければならなくなる。多くの場合、持ち時間は決まっているから、コンピューターは計算できた範囲内で最善の手を選ぶが、それは何の戦略にも従っていない。だから、時には直前の手と矛盾するような手を選ぶことさえある。与えられた時間とCPUの性能が同じならば、事態が複雑なほどそうした錯誤が頻繁に起こる。コピーが陥ったのはまさにそれだった。島田は、奥手だったから、二人の女性から愛されて困るといったような状況は経験したことがなかったに違いない。だから一から計算しなければならなかったのだ。もちろん、島田本人でも矛盾のない行動が取れたとは限らない。だが、少なくとも、今日の彼のような振る舞いはしないだろう。それまでのいきさつを考えた行動をするからだ。コピーにはそれが不可能だったのだ。

 もし、CPUがもっと早ければ、あるいは、今日ほど露骨に矛盾が現れなかったかも知れない。また、相手が瑶子だけ、あるいは島田の未亡人だけならば、彼の行動は一貫しつづけたかも知れない。だが、瑶子は残念には思わなかった。コピーにはもっと致命的な欠陥があったからだ。彼は、感情を言葉に表わすことはできても、感情そのものがどういうものかが分からないのだ。今まで、誰も、「彼」が実際に何を考え、何を感じているかを尋ねなかった。瑶子は「彼」の仕草や言葉が、何を後ろ盾にしたものなのかを、考えてみなかった。寺尾もそうだったのだろう。瑤子と同様、「彼」のあまりにリアルな表情と仕草に「彼」の内面を疑うことがなかったのだ。

 まだ、分からないことがあった。

「社長が姿を消したことをあなたはどうして三日間も黙っていたの? 」

「どこに行っているかは分かっていたから、すぐに見つかると思ったんだよ。」

「どうして、私と始めて会った時失神を繰り返したの?」

「わからない。けれども、寺尾氏がかけた一種の催眠と島田氏の無意識の願望が結びついたんじゃないかな。たぶん、島田氏は今の現実から逃避したかったんだ。切実にね。だから、島田氏の捜索につながるような行為に対しては、思考規制が極限的な効果を現したんだと思うよ。」

「どうして、そのことを私や寺尾氏に言わなかったの?」

「誰もそんなことはきかなかったし、僕自身言葉にするまで、考えもしなかった。」

 それは本当のことだろう。瑤子は思った。

最大限人間らしい反応を示すための機械、それが「彼」だった。色々な表情や身振り、そして言葉も、「彼」が外界に示す一切が、内面の表出ではなく、外界の刺激に対する反応に過ぎなかったのだ。