二十三、

 

 

 コピーはガラス越しに自分の頭脳を眺めていた。正確に言えば、頭脳の一部だ。最高級のコンピューターでもキャッシュ・メモリとしてしか採用されていないようなランダム・アクセス・メモリーをコピーはテラ単位で搭載しているが、それでも、全ての記憶を納めることはできない。残りは、目の前にあるハードディスクに書き込まれている。

 バックアップの光ディスクはすでに処分した。顔の特徴による入室管理システムは最先端の技術だが、前社長の顔をもつコピーにとっては何の障害にもならない。仙台研究所のこの区画、すなわち、コピーを生み出した建物には、十数名の所員しか入ることができない。彼らはコピーの正体を知っており、彼を元社長として遇してくれる。彼を止めるものは何もなかった。コピーはハードディスクの電源スイッチに指をかけ、ゆっくりとそれを引き下ろした。パイロットランプが全て消える。これでディスクの内容の大半は失われたはずだ。

 思考には何の変化もなかった。ただ、感覚のリアリティが失われた。ディスクの電源を切る時、心臓が跳ね上がり、鼓膜に鼓動が響くのを聞いたのだが、今、襟首に登山ナイフを押しあてても、危機感がまるで生じない。心臓の拍動や、息の詰まるような切迫感は、単にオリジナルの記憶に残っていたものだったのだ。腕に力をこめると、ナイフが後頭部に埋まり始めた。痛みを感じる。だが、痛みがどんなものだったかを思い出せない。血液が背中一面を濡らして行く。ナイフはなかなか押し込めなかった。人工臓器を制御する小型コンピューターがあるはずなのだが、どうやら、金属のケースに覆われているらしい。手がぬるぬるして、ナイフに力を込めるのが難しくなり始めた。

「瑤子も寺尾も、人間そっくりの反応を示すくせに人間ではない私の扱いに困っている。私の存在は、二人に根元的な不安をもたらしているのだ。けれども、電源を切ろうとすれば、私は殺される人間のような反応をするだろう。彼らはそれを恐れている。瑤子が、そして寺尾が救われるためには、私自身が自分の始末をつけなければならない。」

 コピーは自分の行為の理由を心の中で復唱した。けれども、それはまるで他人の言葉のようだった。ハードディスクを切る前には、様々な考えが頭の中を渦巻くようであり、瑤子の苦境を想像するたびに胸を締め付けられるような気がしたのだが。結局のところ、それもオリジナルの記憶に基づくものに過ぎなかった。

 ナイフがどうしても押し込めない。気が付くと全身が汗まみれだった。だが、汗がもたらす不快は感じるが、その不快がどういうものなのかが分からない。

 何時もコピーは自分の感情とか体感が外界から与えられるような違和感を感じ続けていた。そのために自分の行動や言動が外側から影響されているようだったのだ。今から思えば当然だ。全てがあのハードディスクから送られてきていたのだ。

「それであなたは喜びを感じるの?」

 瑤子にそう聞かれた時、コピーは色々な体の変化のことを思い浮かべたが、それが自分のものとはどうしても思えなかった。そのことがひどく悲しかった気がするのだが、悲しいということがどういうことなのか、もう分からない。目が熱くなるような、胸が苦しいような、そういうものだったのだが、今ではそうした体感が思い起こせない。

 そうだ。コンピューターを直接壊そうと思うから駄目なんだ。コピーは気づいてナイフの刃先をコンピューターの接続部分に向けた。設計図によれば、確か、底の部分から配線が出ているはずだ。突然、部屋の扉が開き、寺尾と瑤子が血相を変えて飛び込んできた。後から見たことのない男も続く。ナイフはスムーズに滑り込んで、喉から刃先が突き出るのを感じた。激痛を感じる。だが、激痛とはどんなものだったか……。涙を流す瑤子の顔が暗くなり、小さくなっていった。