三、
一月前の寺尾とのやりとりをふと思い出して、島田は吹き出しそうになった。ガラス窓の外を時速五〇〇キロで景色が遠のいていく。膝の上にはギリシャ語の参考書がのっていたが開いて見る気にはなれない。全ての準備が整ったという寺尾からの知らせが入ったのは一昨日だ。そのまま何事もなくとも、企ての成功を目前にした興奮で何もする気になれなかっただろう。だが、先から集中を妨げているのは、昨日の城島瑤子とのことだった。
それは確かにあり得ることだった。だが、それは数学的可能性の問題で、実際的な可能性の問題ではないはずだった。瑤子は結婚はおろか、恋人関係でさえ息苦しく感じるタイプの人間だ。だから、ホテルの部屋をとってあると言われても、それは彼女の「通常の振る舞い」だと考えた。相手との親愛の情を深めるためのセックス、それを彼女は申し込んできていると思ったのだ。なのに、実際には違っていた。
接触しすぎたのが拙かったのだろうか? この一年、ある打算があって瑤子とは比較的頻繁に食事をともにしたし、社用での外出の際には秘書の役割をつとめてもらいもした。何度かは自宅に招きさえもした。これは他の社員と比べれば破格の待遇と言っても良いだろう。本社に顔を出すのは瑤子を含めてたった五人だが、他の四人とは仕事の打ち合わせしかしないし、さらに、その五人以外とはディスプレイを通じて接触するのみだ。皆在宅勤務なのだ。
だが、それにしても! 島田は自分の寸詰まりの背丈と団子鼻、度のきつすぎる眼鏡の奥に縮こまった目のことを考えた。培養液に浸っていた自分のコピーを思い浮かべる。どこに魅力があるんだ? 大学に勤めていた頃に学生が島田につけたあだなは「ドブネズミ」だった。「セクシー度ゼロ」が下された評価だった。
実際、その評価は国際的にも正しかったのだ。HOKUSAIが爆発的に売れ始めた時、それまで写真を含めプラヴァシーを一切公開していなかった島田を、内外の報道陣が取り囲んだ。そして、「社長」と彼らが声をかけたのは、隣にいた寺尾だった。会見の最中には、「ありゃガキだぜ、不細工な子供にすぎないよ。」
というスペイン語のささやきが聞こえる始末だ。スペイン語のわかる者のうち幾人かは顰蹙の表情を見せたが、どうせ本人には分からないとタカを括った者はあからさまなニヤニヤ笑いをした。会見の最中に
「どうして写真を公表しないのですか?」
という質問があがった時、島田は思わずスペイン語で答えていた。
「プライヴァシーを守るためです。汚い子供だということがわからないようにです。」
そういうわけで無礼な新聞記者に一矢報いはしたものの、いかに自分の外観に人目を楽しませる要素が少ないかということを島田は思い知らされた。それだけに昨晩の出来事は不可解だった。
新幹線を降りると、日差しが強く、ホームから駅の出口に歩くまでの間にも、ワイシャツが汗に濡れる。島田は、タクシーに乗り込んだ後も、ずっと瑤子のことを考えていた。一つだけ確実なことがある。島田は思った。予定を変更しなければならない。研究所に到着するなり寺尾に尋ねる。
「コピーは一人で何もかもやっていけるのかい?」
「え?」
寺尾は質問の意図を図りかねている。
「誰かのフォローをやはり必要とするのかい?」
「いや、大丈夫だろう。ハードディスクに入っている情報のすべてを、コピーに入れちまうことはできないが、日常的には全く支障のないレヴェルで仕事をこなしてくれるはずだ。非常に低い階層に入っている情報は、この前に話したとおり、必要な時に衛星電話で転送すれば良い。むろん、極めてデリケートな問題では、あんた自身の判断と食い違う可能性がある。そういう時には、超低階層の情報も総動員するかも知れないからな。まあ、取引の問題とか、先行きの予測とか、そういったものに関する判断はあんた自身でやった方が良い。コピーには催眠術で色々規制をかけられるんだから、一定レヴェル以上の難問には判断を差し控えさせることもできるぜ。」
「催眠術なんかかけるのかい?」
「当然だろう。昨夜のメールを読まなかったのか。あれは一個の人格をもってるんだ。何の規制もなければ、オリジナルのあんたに不利益な判断を下すこともある。たとえば、手元にピストルがある時に、突然暴漢に襲われた。あんたなら発砲しても問題はない。銃の不法所持を別にすれば、そいつは正当防衛だ。だが、同じ判断をコピーがやらかしたら? こいつは厄介な問題だぜ。」
「なるほど。」
「コピーが奥さん以外の女性に手を出すってこともありえる。」
「手を出すとは言っても、機械だろう?」
「ペニスもちゃんと機能するさ。」
「まさか。」
「おいおい、当然のことだぜ。コピーの経験はあんたの頭脳に再入力されるんだ。不能症に陥った夢に苦しみたいか。」
「言われてみれば、その通りだよ。でも、さっきから気になっているんだが。」
「何だ。」
「つまり、僕の質問の意味を君が取り違えているということだよ。」
「え?」
「いや、コピーが一人立ちできるかというのは、仕事の判断を間違えないかどうか、ということではないんだ。それなら君の技術を信頼しているよ。」
「じゃ、何だ。」
寺尾は眉をひそめて煙草に火をつけた。人の言っていることが分からなくなると、すぐに苛立つ人間なのだ。何時になく自分もせっかちに不正確な話し方をしていると島田は感じた。
「コピーは機械だから、故障もありえるわけだろう? その場合にフォローする人間が必要かどうかを聞いているんだ。」
なんだ、そんなことか、という具合に寺尾はしかめ面をゆるめて言った。
「その点は大丈夫だ。あいつは良くできてる。だが、フォローしてくれる人間がいた方が安心なのも確かだ。万一、出先でフリーズしたら面倒だからな。だが、そいつは解決済みじゃないのか。城島さんと話をつけるんだろ? 」
「それが、厄介なことになった。会社を辞めるかも知れない。」
「喧嘩でもしたか?」
「いや、どちらかと言えば逆だよ。ホテルの部屋をとってあると言われてね。君も知ってるだろう。彼女はフリーセックスなんだ。」
寺尾はまたして眉間に皺を寄せる。
「だが、それは昔のことだぜ。前の会社はそのせいで辞めたんだからな。」
瑤子は外資系保険会社に勤めていた時代に告訴された。ある男性との関係が、夫人に露見したのだ。告訴前には夫人が会社に現れたりもしたので、引き抜かれる前には同僚との人間関係も気まずくなっていた。HOKUSAI社が提示した条件は、彼女の支払うべき莫大な慰謝料を肩代わりするというものだった。極めて優秀だったからだ。四カ国語の通訳の資格と優れたビジネス感覚をもっている人間はそうざらにいるものではない。実際、彼女はコンピューター関連の知識をプログラミングを含めてわずか数カ月で身につけてしまった。後日談によれば、保険会社そのものは引き留め工作も行なったようだ。保険会社の提示した一時金と昇級額の累計は、HOKUSAI社の支払うべき慰謝料の金額を上回っていた。が、瑤子はあえてHOKUSAI社を選んだ。「小さな会社ながら経営に参画できる」のと、告訴に至るまでにはかなりの消耗戦が続いたので、「まとわりついた大小のごたごたをこの際一気に切り捨ててしまいたかった」のがその理由だ。そして、この機会にフリーセックスにもケリをつけることにした。
「奥さんにばれないようにしてね、なんて馬鹿な念押しする気になれないし、かといって、きちんとその辺りのことができる人かどうかを判断できるほど、私自身人を見る目はないから。あの件でそのことが良く分かったわ。相手の男性はとても細かいことにも気付く人だったから、大丈夫と思ってた。それが間違いだったからには、同じ失敗を繰り返さないようにしないとね。」
後に瑤子自身が島田にそう言った。そのコメントまでは知らないにしても、「訴訟事件」とその背景、顛末については寺尾も良く知っている。瑤子は会社組織の中枢に極めて近いポストを得たが、その人事には経営に発言権をもつ彼も当然関わったのだ。
「まあ、それほど厄介なことでもないな。あんたのことだ、断ったから彼女が怒ってると思ってるんだろう? 」
寺尾はまだ険しい表情を保ったまま、煙草の煙を吐き出して続けた。
「城島さんは、友人関係の延長にセックスを考える、その考え方そのものを捨てるとは言ってなかったし、実際捨てていなかったんだろう。あんたが断ったとしても、彼女にしたら、飲みに行くのを断られたのと同じじゃないか。」
話しているうちに、ようやく不機嫌を解消する糸口を見つけて、寺尾は急ににやりと笑うと言った。
「それにしても、城島さんは凄いな、見た目は問わないわけだ。」
島田は心底傷ついて、声を高めた。
「それはないだろう。それでなくても気にしているのに。」
「まだ気にしてるのか。あんな美人の嫁さんをもらって。」
「別にもらったわけじゃないが、ともかく一緒に歩くのが恥ずかしいんだよ。」
「奥さんがか?」
「わざと言ってるだろう。僕がだよ。」
実際、伴侶が美人過ぎるというのも考えものだ。ある日、島田の妻が大学の教え子たちを自宅に招待した。学生たちは彼女の容貌から、極めてスマートな夫を期待していたに違いない。ソファから立ち上がった島田を見た時、彼らは一様に見てはならないものを見たというふうな顔つきになった。そうした経験を何度したことか。島田は一瞬本当に腹をたてた。だが、寺尾は天性の憎めなさをもっている。
「怒るなよ。俺の方がとっくに腹を立ててるんだぜ。」
そう言う顔つきは羨望と嫉妬がないまぜなった感情をあからさまにしている。島田はその子供の拗ねたような顔に思わず吹き出してしまった。
「ほんとうに美人の考えることは分からんよ。あんたの奥さんも城島さんもだ。のろけ話は沢山だ。先も言ったように、別に大したことじゃない。」
「いや、のろけてる訳じゃないんだ。彼女どうやら僕に……」
「おいおい、いい加減にしないと怒るぞ。」
「断ったら泣いてしまったんだ。」
「目にゴミでも入ったんだろ。」
「真面目に聞いてくれよ。」
「夜な夜な、あんたのコピーに五寸釘を打ってやりたいよ。」
「ともかく、そんな状態だから、とても頼めないよ。コピーの世話なんて。」
「ちくしょう、どうにでもしろ。」
「怒ってるのかい?」
「そう言ったろう。俺みたいな良い男には恋人もないんだぜ。」
「でも、」
「何だよ。人の頭をじろじろ見るな。…… もう止めよう。とにかく城島さんのフォローはなし、というわけだな。」
「ああ。」
「城島さん、本社勤め辞めて、こっちに来ないかな。」
「全然止めていないじゃないか。」
「いや、とにかくこの話はもう止めよう。今からデリケートな作業が待っているからな。三日確保してきたんだな。」
「ああ、月曜の夕方までに本社に戻れば良い。」
「あんたがか、コピーがか。」
「できればコピーが良いな。城島と顔を合わせるのばつ悪いから。」
「その話止めろって。とりあえず、ここからあんたの事務所まで二時間そこそこだ。何とかなるだろう。作業は今日の正午から月曜の正午までだ。」
「ところで、どうして僕が城島の申し出を断ったと分かったんだい?」
「そうでなかったら、あんたの首を締めてやるところだ。」