四、

 

 目を開けないうちから世界が重苦しく回転しているのが分かった。目を開きたくない。だが、喉が乾いていたし、トイレにも行きたかった。瑤子は緩慢な動作で広いベッドの上に上半身を起こした。こめかみの血管が切れそうな程に脈打っている。胃の中は熊手でかきむしられたみたいで、そこにどっしりとしたアルコールの存在感があった。全身を九〇度回転させて床に足を降ろし、ベッドに両手をついて、前屈みに腰をあげ、ゆっくりと体を立ち上げる。その動作の一つ一つが、コブ付きの棍棒で殴られたような頭痛を引き起こす。瑤子はトイレに入り、便器に顔を降ろすと一気に嘔吐した。が、クモの糸のような胃液が滴るばかりだ。ドアにもたれ掛かると、水が流れた。便器に手をついて立ち上がると、手を洗う水を飲む。そしてまた吐く、出るのはやはり胃液の釣り糸だけだ。部屋に戻って冷蔵庫のオレンジジュースを一息に飲み、またトイレに戻る。今度こそは、酸味の利いた液体が鼻孔と喉から一気に下水道に流れ込んだ。

 ベッドに戻って腰を降ろすと、足下にウィスキーの空ビンが二本転がっていた。まさか、こんなことになるとは思わなかった。社長に拒絶されたのも意外だったが、その拒絶が自分にこんな結果を引き起こすとは。だが、考えるのがおっくうだった。電話でもう一泊予約すると瑤子は頭から布団をかぶった。

 

 何度か目を覚まし、水を飲んだりトイレに行ったりしたが、完全にベッドを離れることができたのは夜の十時頃だった。素面に戻ってみると、昨夜のことが自己嫌悪とともに思い出されてくる。全身を毛虫が這いまわっているような気分だ。子供じみた不平声を挙げ、涙を流したことは考えるのも嫌だ。ところが、そこから気を反らせようとすると、今度は「明後日には大丈夫」といったような小さな勘違いさえも充分に気を滅入らせる大事件のように思われて来る。金・土・日の連休だから、明明後日なのだ。顔を熱くしてそう思うと同時に、島田と顔を合わせることなく、後二日を過ごさなければならないことがかゆみのような苛立たしさを掻き立てる。

 今日会うことができれば、言いつくろうこともできるのに。そう思った。日が経つほどに、島田は昨夜の事件のことを頭の中で何度も反芻し、失地はますます取り返しがつかなくなるだろう。そんな風に感じたのだ。三日後に出社する時には、もうレコンキスタは全く不可能になっているに違いない。昨日は酔っぱらいながら、自分も仙台に行こうなどと考えたが、今では、あのような勇ましさをもってではなく、会って、申し開きをしたいという、ただそれだけの理由で、情けないほどの言い訳がましさをもって、仙台に飛んでいきたかった。

 だが、たとえ島田と顔を会わせたところで、瑤子は何も言い出せなかっただろう。そもそも、日が経つほどに自分の失敗がしっかりと根を降ろしていくという考えそのものが、二日酔いの憂鬱さから来る思いこみに過ぎなかった。すでに失敗は確定してしまったのだ。

 瑤子はホテルの部屋に一人で居ることが耐えられなくなって街に出かけた。だが、何もすることがなかった。アルコールは抜けているのだろうが全身がだるく、歩くのもおっくうなほどだ。気がつくといつの間にか駅前に出ていた。自分の部屋に帰ろう。ホテルの料金はカードから落としてもらえば良いし、荷物は今持っているハンドバッグだけだ。瑤子は地下鉄の階段に向かい始めた。と、その脇を通り過ぎた女性は紛れもなく島田夫人だった。瑤子は振り返って駆け寄ろうとした。けれども、昨夜のことを考えれば、声をかける勇気はとてもなかった。それに、島田は夫婦で学会に行くと言ったではないか。瑤子はそのまま階段を降りた。

 地下鉄に乗っている間も、駅からの僅かの距離をマンションに向かって歩く間も、ずっと島田夫妻のことを考えていた。

 奥さんが仙台に行っていないとなれば、学会なんかなかったのだ。なぜ、社長は嘘をついたのだろう。もしかしたら、奥さんにも嘘をついているのだろうか。出張だと言ってあるのかも知れない。

 ……彼の言うことを真に受けすぎたのだろうか。総資産が数兆に達する男なのだから、外に妾の一人や二人持っているかも知れないではないか。だが、島田の「妻を愛している」という言葉は嘘とは思えなかった。そもそも、新婚ならともかく、大方の既婚男性はそんなことを絶対にぬけぬけとは言わないものだ。

 そこまで考えて、瑤子は昨日のアルコールが抜けきっていないことをはっきり自覚した。彼は奥さんにではなく、私に嘘をついたに過ぎない。赤の他人である私に、行く先を偽るぐらい、それほど大したことではないではないか。たぶん説明するのが面倒から、適当なことを言っておいたのだ。他人に私生活を細かく説明しないのは普通のことだ。それを大げさな問題と恋人気取りで私が考えていたに過ぎないのだ。

 もう自分の部屋に入っていた瑤子は、そこでまた涙を流した。荒れた胃にストレートのブランディーは、血のシュプールを描いているに違いない。瑤子は意識を失うまで飲み続けた。