五、

 

 あれから八日、島田は決して瑤子の仕事場にはやってこなかったし、瑤子も社長室を訪れることはなかった。韓国支社のプロジェクトへの対応を任されたため、忙しい日々が続いたのは幸運だった。昼間だけでも気が紛れたからだ。だが、その仕事も今日で終った。

 週末は悲惨だった。一旦精神的ダメージを酒でごまかすと際限がなくなる。土曜日の昼過ぎに目を覚ました瑤子は、かつての悪循環、すなわちダメージを酒でごまかしたことが一層ダメージを大きくし、さらにそれが酒を飲む原因になるという、ダメージの雪だるま作りをした経験を思い出し、必死の思いで酒を飲まないようにした。飲まなければダメージと向かい合わねばならない。それは辛いことだ。が、そうしなければダメージは決してなくならないのだ。瑤子はそれを十代の終わりに学んだ。ハイティーン時代の轍を踏むつもりはなかった。そのためにはダメージを明確に言語化しなければならない。瑤子は初めて「私は彼を愛しているのだけれども、彼は決して私を愛することがない」と自分自身に言葉にして言い聞かせた。それまで、この命題を暗示するような物事を思うたびに、感情の激発が「向こう側から」やってくるようにして彼女を揺さぶった。それが、一旦言語化を行うと、感情の激発を能動的に引き起こせるようになる。瑤子は命題を心の中で繰り返しては涙を流し、泣き声さえあげた。それが回復を早めるのだ。とはいえ、その回復とは、「彼は決して私を愛することがない」を受け入れることだから、「私は彼を愛している」は依然未解決のままだ。一週間も彼と会えないままでいるのは辛かった。

 

 ともかく今日は金曜日だから、明日から二日間は彼と会える可能性がまるでないわけだ。瑤子は溜息をついて思った。社長室の扉をノックしさえすれば良いのに、それができない。島田が困るに違いないというのは言い訳だ。「彼は決して私を愛することがない」がだめ押しされるのが怖いのだ。勤務時間は後三〇分もない。仕事はもう完全に終わっているのに、瑤子はせかせかと煙草を吸い、コーヒーを慌てて飲んでむせかえった。その時、ノックの音に続いて、「僕だ」という島田の声が響いた。瑤子はせき込みながらもドアの方へ駆け寄って、「どうぞ。」と言った。

 

 店は閑散として、バーテンの立ち働く物音だけがやけに響いた。やがて、ボトルや氷がテーブルに置かれると、バーテンも奥の部屋に姿を消した。

「借り切りのお店って、なんだか落ち着かないわね。」

 壁から跳ね返ってくる自分の声に戸惑いながら瑤子は言った。

「この店は信頼できる。何度か秘密の商談をしたこともある。あのバーテンは僕の大学の後輩なんだ。」

「何度か秘密のデートもした?」

「まさか。」

「学会じゃなかったんでしょ。奥さん見かけたわよ。金曜日に。」

 島田は落ち着きを失い、一瞬視線を瑤子からそらせた。

「後から言うつもりだったんだ。何処に行ったのかを。実は君にも協力して欲しかったんだ。」

「奥さんを騙す相談ならご免だわ。」

 瑤子は言ってしまってから真っ赤になった。

「何の話だい?」

「ご免。私まだ変なの。あの日から。」

「分かってるよ。全然顔を見せなかったからね。で、僕も相談を持ちかけにくくて、今までうじうじしていたわけだ。だが、もうタイムリミットが迫ってきている。是非とも協力して欲しい。社長が消えたんだ。」

「え? 社長って? それはあなたのことじゃない。」

「実は……」

「ちょ、ちょっと。どうしたの? 顔が真っ青よ。」

「え? そんなところまで? 全くうまくできているよ……。」

 島田は椅子から転がり落ちた。瑤子は腰を浮かせてバーテンを呼ぼうとする。

「待ってくれ。落ちついて。何でもないんだ。」

「落ちついても何も、絶対変よ。どこか体が悪いんだわ。」

「いや、違うんだ。これは催眠術による規制で、つまり、僕は社長の意に反することはしゃべれないんだ。」

 そこで、島田は意識を失ってしまった。

 瑤子は判断に迷った。バーテンを呼ぶべきか。だが、島田は失神する寸前誰も呼ぶなと言った。離人症か何かみたいだった。社長がいなくなったって、自分がその社長ではないか。口に水を含んで島田に飲ませる。反応がない。瑤子は立ち上がって今度こそバーテンを呼ぼうと思った。が、その時、彼は床に上体を起こして言った。

「待ってくれ。」

「どうしたの、変よ。」

「確かに変なんだ。変な話なんだ。僕がここに居るのに、社長がいないなんてね。あは、びっくりしたかい。僕は昔演劇部にいたんだ。だから、雷に打たれたみたいに気を失うこともできるんだ。」

 瑤子は島田から傷口をえぐるような揶揄の言葉を聞いて腹を立てそうになった。けれども、何かがおかしい。何かがひっかかった。

 まだ床に座り込んだままの島田は少し考え込んだ後、ぽつりと言った。

「もう一度社に戻らないか。」

「え?」

「自宅のコンピューターにアクセスしたい。ちょっとまだ体調が不安なんでついてきて欲しいんだ。」

 

 事務所にはもう誰も居なかった。瑤子は自分のコンピューターを社長宅のコンピューターにつなげた。島田は隣りでのぞき込んでいる。パスワードを打ち込むと、いきなり画面は彼のプライヴェートをあらわにしていた。何ヶ国語もの電子テキストや電子辞書のフォルダがずらりと並んでいる。

「そこに、『プロジェクト』というフォルダがあるだろ。それを開いて。」

 言われた通りにすると、その中にはさらに五万ものフォルダが詰まっていた。島田はソファに腰をおろして言った。

「いいかい。今からあることを言うが、それを言うとまた気を失うかも知れない。もしかしたら、すぐには回復しないかも知れないが、構わないで中のものを見て欲しい。いいかい。絶対に救急車なんか呼ぶな。とにかく見てくれ。」

 そう言う顔は既に真っ青で、全身が震えている。瑤子はうなずいた。

「パスワードは“cogito ergo sum ”だ。」

 言ったとたん、島田は本当に卒倒した。ソファの上に横倒しになった島田を楽な姿勢にさせると、瑤子は五万ものフォルダを開け始めた。パスワードで開かないものばかりだ。本来HOKUSAI なら、パスワードが分かっていれば、それで開くフォルダを自動的に検索してくれるのだが、その検索機能を使うのにもパスワードが要るような設定がなされているのだ。手作業で順番に開くしかなかった。ご丁寧にパスワードはコピーできないようになっている。瑤子は項目を開けようとしてはパスワードを要求され、“cogito ergo sum ”を入力しては再入力を要求された。一つのフォルダを確認するのに十秒掛かるとして五十万秒、百四十時間近くも掛かる。瑤子は一時間ほど作業を繰り返した後、音を上げた。振り向くと島田はソファに横たわったままだ。死んでいるのかも。大慌てで駆け寄る。呼吸はしていた。が、失神しているにしては長すぎる。揺すぶってみるが反応がない。瑤子はコーヒーを入れる湯を冷ますと口に含み島田に飲ませようとした。唇の端から水が流れ、反応がない。

「回復しないかも知れない」

 彼は確かにそう言った。永久に回復しないのだろうか。背筋を冷たいものが走る。電話に駆け寄ったが、絶対に救急車を呼ぶなという島田の言葉を思い出した。どうする、どうする、と同じ言葉ばかりが頭の中を駆けめぐる。

 けれども、結論は既に出ていた。

 彼の言葉に従おう。何かの事情があるのだ。彼は私を信頼して全てを任せたのだ。再びコンピューターの前に腰を落ちつける。が、作業はあまりに単純でどうしても没頭できない。疲れてきて時計を見ると、十分しか経っていなかったりする。ふと魔が差して未確認フォルダの数を確認してみると、50803! 五万を切っていない。

 瑤子は溜息を付いて立ち上がった。島田はいぜんソファの上に横たわったままだが、先までのような危機的な雰囲気はない。表情が軟らかくなり、筋肉ももはや強ばっていない。それで瑤子の方も幾分緊張が解けたのか、急に彼と二人切りだということに思い至った。何のことはない。これまでにも、この部屋で島田と話し込んだりすることは何度もあった。なのに、今は二人切りだということが妙に意識されてくる。この部屋でセックスをした後、彼の方は疲れて眠っている。そんな妄想さえわき上がってくる。体が熱くなって来るのを感じて、その余りのさもしさに情けなくなった。馬鹿な考えを振り払うように頭を巡らせて、部屋の奥のコーヒー・サーバーに向かう。けれども、入れたてのコーヒーの香りを感じながら振り向くと、瑤子はもはやカップを掴まずに、ソファに向かい、血色の戻り始めた島田の唇にキスをしていた。もとより何の反応もない。目も唇も固く閉ざされたままだ。自分の行為の空しさに瑤子は身震いし、そこへ島田の先の言葉が追い打ちを掛けてきた。

 

「僕は昔演劇部にいたんだ。だから、いきなり気を失うこともできるんだ。」

 

 頭に血が上り、抑えようのない怒りがこみ上げてくる。瑤子は島田の頬を打った。むろん、失神は芝居ではなかった。島田は反応のないまま横たわっている。頬を打つ瞬間にそれはわかっていたことだった。

 けれども、なぜ、あんなに傷つくような言葉を彼は言ったのだろう、デリカシーとインテリジェンスの権化のような彼が。木曜日のことで私がひどいダメージを負っているのは分かっているはずではないか。瑤子は、島田が先の言葉を発した時に感じた、釈然としない気持ちを思いだした。何かがすっきりしない。彼があんなことを言うはずがない。だが、それがこの違和感の原因ではない。どこか芝居がかっているように感じたのだ。何かを私は忘れている。何だろう? 瑤子は床に倒れ込んだ島田を思い出そうとした。起きあがってくる島田のイメージ。そして床に座り込んだ島田。その島田が言う。

「僕は昔演劇部にいたんだ。だから、雷に打たれたみたいに気を失うこともできるんだ。」

 そう。「雷に打たれたみたいに」が変だったのだ。一瞬考えた後瑤子はコンピューターに飛びついた。木曜日ってジュピター、雷を落とす神様の日じゃないの。そんなことを呟きながら、もどかしく、辞書フォルダを開く。ガフィオのラテン語辞典もある。“jeudi(木曜日)”を検索する。“jovis dies”。検索エンジンを呼び出して、その語を入力すると、あっさりと検索条件にパスワードの項目が現れた。それをクリックし、“cogito ergo sum ”を入力する。開いたフォルダは一つだけだ。更に下層のメール・フォルダを開いてみた。自分宛の手紙があるかと思ったのだ。が、最新のメールは、寺尾に向けられたものだ。私信を開くのは躊躇われたが、彼は見ろ、と言ったのだ。書類はどれも彼のプライヴァシーなのだから、何を見ても同じ事だ。瑤子は目を素早く二回閉じた。書類が開く。

 

 「明後日そちらに向かう。社長室と自宅の地下室の改造も終わったし、七十二時間も確保できそうだ。準備をよろしく頼む。

 ところで、この技術を公表してはどうかという君の意見には残念ながら同意できない。むろん、君の天才的な発明を世に知られないままにしておくことについては非常に申し訳なく思っている。だが、人の思考を移動する技術は危険すぎる。

 君も体外受精、人工臓器、臓器移植の技術が何を生み出したかを知っているだろう。途上国は今や、臓器畑、母体畑と言われている。貧しい国の人々が、先進国の女性の代わりに見も知らぬ人間の子供を生み、赤の他人のために臓器を提供して、自分は機能の劣る人工臓器をつけている。技術が金のない人々を奴隷以下の境涯に陥らせた。古代ギリシャ・ローマの民主制が奴隷制に支えられていたから不完全なものだったなんてお笑い草だ。少なくとも、あの時代の人々は自分たちの社会が奴隷制の上に成り立っていることをちゃんと自覚していた。だが、現代はどうだ。奴隷制がないと思いこんでいる。本当は国内に奴隷がいないだけだ。奴隷を幾つかの国、途上国に押し込めただけじゃないか。こんな社会で人の思考を移動できるとなればどうだ。途上国は臓器畑どころか、体畑になってしまう。年老いた金持ちたちが争って若い貧乏人の体を買いあさるんだ。『マハバーラタ』では年老いたヤヤーティーに若さを譲った末息子は王位を得るが、体を買われた貧乏人は何を得るんだ? 何も得ない。頑健な肉体を残して精神は雲散霧消する。

 むろん、我々の技術では他人の脳に思考を移動することはできない。だが、いずれそれを可能にする技術が現れてくるのも確かだ。あらゆる金持ちたちがそれを支援するだろう。

 だから、この技術は僕のコピーを作るためだけに用いる。そして、技術を公表しない以上は、コピーが存在することも知られてはならない。コピーが外で活動している間、僕は家を出ないで研究に専念することにする。

 

 コピーのフォローは城島に頼めないかと考えている。彼女は非常に優秀だし、口も堅い。試験的にコピーを使ってみてうまい具合なら、それから時間をかけて彼女に事情を説明するつもりだ。何分夢物語みたいな話だから、実物を見せなければ冗談だと思われ兼ねない。説明を急ぐ必要はないだろう。

 妻の方にも当面内証にしておこうと思っている。実は、先に書いた臓器畑、母体畑の話はフェミニスムの研究家でもある妻から聞いた。彼女は、二十世紀末頃の一部のフェミニストが体外受精を女性解放の手段と唱えたことを“恐るべき自己中心的な思考”と呼んでいる。僕自身も今度の技術を開発したのは“恐るべき自己中心性”によるんじゃないかという自覚があるわけだ。いずれは説明しなくてはならないだろうが、まずは既成事実を作っておきたい。我ながら卑劣な手口だとは思うが。

 では、明後日に。」

 

 瑤子は後ろを振り返った。どういう仕組みになっているのか分からないが、今背後のソファに横たわっているのは島田のコピーなのだ。信じられなかった。とても機械には見えない。顔にはいつの間にか血色が甦って今にも息を吹き返しそうだ。額には汗さえ浮かび出ている。かつがれているのではないだろうか? 今にも島田が起きあがって、「どうだい。驚いたかい。僕は昔演劇部に在籍していてね、二時間ぐらいは気絶していられるんだ」などと、今ではそう言ってもらえた方がほっとしそうだった。別のフォルダを開けると、設計図が出てきた。「概要」を開くと、CPUによる運動制御などの仕組みのほかに、「表皮:組織性有機物質:PXH128-56/RPG157-38/GDD487-02」などと書かれている。良くは分からないが、組織性有機物質というのは聞いたことがある。人工臓器を作る素材の筈だ。

 瑤子は立ち上がり彼の腕を握った。脈があった。胸に耳をあてると心臓の音もする。どうしても信じられなかった。これが機械なの? とその時、島田の瞼が突然開いた。瑤子は大慌てで立ち上がった。

「大丈夫? 随分長いお休みだったけど。」

 努めて冷静を装うが、声がうわずってしまうのをどうにもできない。

「読んだかい。」

「ええ……。嘘でしょ。たちの悪い冗談だわ。」

 笑おうと思ったが笑えなかった。島田はあっさりと言った。

「そう思うのも無理はないけれど、本当だ。」

 瑤子は思わずその場にしゃがみ込んでしまった。島田がソファから立ち上がり、コンピューターのシステムを終了させる。

「僕を寺尾の所に連れていってくれないか。見ての通り、失神ばかりしているんだ。思考規制がかかっているせいでね。一人では行けそうにもない。」

「思考規制って?」

 島田は壁時計を見た。九時を回ったばかりだ。

「読む時間はなかったわけか。ともかく寺尾のところに連れていってくれれば分かる。」