六、

 

 研究所に着くと、島田はすぐ別室に連れて行かれ、瑤子は一人になってしまった。明け方にタクシーを拾って、研究所までの八時間、島田は何も言わなかった。瑤子は何度かうとうとしたが、すぐに目が覚めた。彼を見ると、顔は真っ青で何かに耐えている風だった。電話で駆けつけていた寺尾は、

「緊急事態だから説明する時間がない。ともかくソファで一時間ほど仮眠しててくれ」

 それだけ言うと何人かの職員とともに姿を消した。疲れているのに眠くない。だが、寺尾が置いて行ったコピーの仕様書や設計図を開いてみる気にはなれなかった。理解できないに決まっているからだ。瑤子はしばらくぼんやりした後、壁面にコンセントと端末ソケットがあるのに気付いた。持ってきた携帯端末をつなぐ。もちろん、研究所のメイン・コンピューターには接続できない。当たり障りのないホームページなら別だが。島田のコンピューターに再度接続してみようと思ったのだ。

 パスワードを入力するともはや見慣れた画面が立ち上がった。フォルダの階層をくぐり抜けた後、「規制」と「催眠術」で検索を掛けてみる。うまく行った。「規制」というフォルダが見つかったのだ。その中に一通寺尾からのメールがある。専門的な仕様書、理論的概説などよりもそちらの方が理解し易いに違いない。瑤子は瞼を二回閉じた。書類の画面が立ち上がる。

 それはかなりの長文だった。だが、それで昨夕以来の島田が繰り返した失神の原因が分かった。島田は、いやコピーはオリジナルが望まない思考や行動をできないのだ。深層心理に働きかける催眠術が、そうした思考・行動を芽の段階で摘んでしまう。だが、極めて原初的な本能に根ざす思考は、突如として全的に思考表層に現動化することがある。たとえば、暴漢に襲われた場合に相手を傷つけたり殺したりしてでも自己の生命を守ろうする思考、殆ど行動に近い思考は、初期段階で抑制してしまうことが不可能だ。しかし、機械であるコピーが人間を傷つけるわけには行かない。だからそうした思考が生起した瞬間に、コピーの思考はブラックアウトしてしまうようになっている。これが、あの失神の正体だ。ただし、オリジナルの望まない思考が思い浮かぶだけで何時もブラックアウトを起こしていたのではコピーが正常に業務をこなすことは不可能だ。たとえば、誰かに、「暴漢に襲われた場合どうしますか」と問われて、「自分の身を守るためには手段を選ばない」と答えただけで失神していたのではたまらない。だから、先のような緊急を要する場合以外には、もう少し穏やかな方法を使う。つまり、オリジナルの意に反する思考や行動は、程度の差はあれ、漠然とした不安や自己嫌悪をコピーに催させるようになっているのだ。

 これが寺尾のメールの大まかな内容だった。だが、瑤子は昨夜以来の「彼」の行動を思い出して、規制がとても「穏やか」とは言えない、と感じた。明らかに緊急ではない場合でも、「彼」は失神を繰り返したではないか。寺尾は規制を強めすぎたのではないか? そうしたことを考えながら、ふと腕時計を見るとすでに二時間が経過していた。午前七時。空腹を感じ始めていた。

 

 寺尾が現れたのは八時を廻ってからだった。「まず、朝飯を食おう。」

 そう言って、瑤子を食堂に連れて行った。世界有数のこの研究所は大学としても機能している。コンピューター技術をめぐる様々な研究教育がここでなされているのだ。二人は学生食堂に隣接した職員用コンパートメントの一つに入った。寺尾は盗聴のチェックを済ませてから瑤子を席に着かせた。朝食はすでにセッティングされている。

「驚いたろう。いきなりで。」

「ええ。」

「とんでもないトラブルだ。あの野郎、蒸発しちまうなんて。」

 瑤子は島田の行方をそれまで全然案じていなかったことに気付いた。「彼」が居るために、オリジナルが居なくなったということに実感がもてなかったのだ。急に脚が震えるような不安を感じ始める。

「自分で姿をくらましたのならまだしも、誘拐ということもあるんじゃない?」

 こんなことなら、是が非でも護衛をつけておくべきだった。腹立たしいような後悔の念が起こる。だが、寺尾はその心配をあっさり否定した。

「俺も一瞬そうかと思ったが、そいつはあり得ない。あいつの衛星電話には緊急連絡装置がついてるからな。意に反して連れ去られたのなら、すぐに分かる。」

「でも、寝込みを襲われたりしたら、スイッチを押せないじゃない。」

 だから、私は反対したのよ。なのに、あなたは技術を過信して社長の我が儘を認めてしまった。瑤子は抑えようのない腹立ちを感じ始めた。だが、寺田は冷静に言い切った。

「誘拐ならとっくに身代金の要求が来てるはずだ。」

 その通りだった。

「それに、コピーに聞いたら、」

「もう回復したの?」

「ああ、大丈夫だ。とにかくコピーが言うには、最初から二、三日行方をくらます気だったらしい。」

「え?」

「せっかくコピーが働いてくれるんだから、自分の方は少しこれまでの疲れを癒そう。そういう心づもりだったらしいんだ。」

「でも、二、三日の積もりだったんでしょう?」

「ああ。だが気が変わることはあるだろう。コピーも最初はそう思ったと言っている。ところが、四日目にも帰ってこない。で、不安になってきた。なんせ経験交換が必要だからな。」

「経験交換?」

「そうだ。オリジナルはコピーの、コピーはオリジナルの経験を受け取ることで、同一の人格を保ってられるんだ。経験交換なしだと、別人になってしまう。」

「社長が見つかった時にすれば良いんじゃないの?」

「だめだ。タイムリミットがある。」

 何を基本的なことを言っているんだ、そういう風な苛立ちが言葉尻から伝わってくる。だが、話が通じにくいとなると、寺尾が不機嫌になることくらい先刻承知だ。瑤子は動じなかった。

「コピーのプロジェクト自体、私は昨夜初めて知ったのよ。詳しく話してくれないと理解できないわ。一体タイムリミットはどれくらいなの?」

「せいぜい十日くらいだ。十六時間分の経験を八時間に圧縮して睡眠時間中に交換を行うから、そもそも毎日交換を行うのが理想なんだ。でないと、薬で眠らせて経験交換をしなけりゃならない。そいつにも限界がある。七十二時間だ。まあこいつは安全係数を見込んだものだ。もう五、六時間は行けるだろうがね。いずれにせよ、残された時間は後五日ほどしかない。」

「七十二時間を二セットなんてわけには行かないの?」

「オリジナルの体がもたないじゃないか。」

 声を荒げた後で、寺尾は頬を赤らめた。さっき瑤子にたしなめられたばかりだったからだ。だが、瑤子は顔色一つ変えない。あなたの性格はよく分かっているから、そんなことに腹を立てるのは時間の無駄だわ、といった感じだ。俺はまるでガキみたいだ。寺尾は自己嫌悪に陥いって、口ごもりながら説明した。

「長時間の経験交換では、外界のノイズが無視できなくなる。だから、培養液に全身を浸すんだ。無重力の宇宙に放り出されたようなもんだぜ。筋肉があっと言うまに退化しちまう。それに、外界の刺激が長時間遮断されるというのも危険だ。感覚器官にどんな影響を及ぼすかも分からない。」 

「でも、」

「なんだ。」

「七十二時間でコピーにオリジナルの思考を全て写し取ったんでしょ。最初の時点で転写される情報量は十日分どころじゃなかった筈よ。どうして、今度は駄目なの?」

 またしても苛立たしさがわき起こるのを寺尾は感じたが、今度はうまく抑え通した。城島は優秀な人間だ。正確な情報を与えれば、緊急事態に対して必ず最善の対処をする。それはこれまでにも経験済みだった。寺尾は冷静さを取り戻して言った。

「人間から機械へならそいつは可能だ。複数のハードディスクを回せば良い。だが、人間は脳味噌を一つしか持ってないんだぜ。」

「あ、そうか。それで、人間同士の経験は不可能なのね。」

「転送される経験も本当は四分の一くらいにまで圧縮されてる。八時間の睡眠時間のうち四時間は夢を見て経験を消化するんだ。でなきゃ、人間の脳味噌なんてあっと言う間にオーバーヒートだ。」

 城島は当面の問題を全て理解したようだ。寺尾は広い額の汗を拭って、自分が朝食に全く手を着けていなかったことに気づいた。瑤子のトレイはほとんど空になっている。

「ともかく、当面の選択肢は二つだ。第一の選択肢はむろんオリジナルを後五日で見つけだすこと。第二の選択肢はコピーの機能停止だ。」

 瑤子は「彼」が機能停止されるさまを想像して、痛ましさよりも吐き気を感じた。だが、そちらの方が安全確実だということは理解できた。

「機能を停止するの?」

 寺尾は目をそむけた。

「あいつが昨夜まで俺の所に来なかったのが、なぜか分かるか?」

「明日は帰ってくるだろうと思って、オリジナルを待ってたんでしょ?」

「それなら、ブラックアウトは起こらないぜ。第一、俺の所へ向かう行動はオリジナルの意に反するわけじゃないから、あんたの助けなしに奴はここへ来れたんだ。」

「どういうこと?」

「奴はオリジナルが行方をくらませば、機能停止されるということを理解していた。それが怖かったんだ。機能停止の間にトラブルがあって、電源が二度と入らないってこともありえる。機能停止は永久に続く可能性もあるわけだ。あいつは不安と自己嫌悪に苛まれながらも、機能停止の恐怖のために、オリジナルが姿を消したことを俺に黙ってた。そして、ついにはあんたに助けを求めた。必要のないはずの助けをだ。」

「なぜ?」

「あんたが俺にとりなしてくれると考えたんだ。しかも、それは理路整然と奴の頭で思考された結果じゃない。無意識の選択までがそこに含まれている。こいつは人間の思考そのものだ。」

 瑤子は島田が寺尾に木曜日の経緯を話したことを知った。腹は立たなかった。コピーのフォローを任せるつもりだったのなら、あの事件は大問題だったはずだ。そう思った。が、ここ一年間あまりの島田との友人関係が、その思惑のもとにあったのだとしたら。そう思うと、全ての力が抜け落ちそうだった。深く考えてしまうのを避けるため、瑤子は慌てて口を開いた。

「ところで、あの失神だけど、思考規制にしては、強すぎない? 自己嫌悪や不安くらいで意識を失うなんて。」

 パンをかじり牛乳を飲んだ後、寺尾は続けた。

「あれは規制のせいじゃない。それにも原因はあるが、普通なら、あんたの言うとおり自己嫌悪と不安で済んだはずなんだ。だが、そこへ機能停止への恐怖、つまりは死への恐怖が覆い被さったんだ。あいつは死を恐れているんだ。そんな奴の機能を停止するのか。あんたにはできるか。」

 もちろん、できるはずがなかった。

「じゃあ、選択肢は一つしかないわけね。オリジナルを探すしか。」

「手伝ってくれるか。」

「当たり前よ。どうすれば良いの。」

「どこに居るかは本人に聞けば分かる。つまり、コピーと一緒にあいつを捜して欲しい。俺の方は記憶交換がもっと速くできる方法を考えてみる。」

「でも、あんなにブラックアウトばかりしてたら大変だわ。」

「規制は外した。オリジナルを探すこと自体がオリジナルの意思に反するんだ。規制を外す以外に方法はないだろう。」