七、

 

 行き先は北海道だった。二人はタクシーで駅に駆けつけて、新幹線に乗り込んだ。リニアではないから、札幌まで二時間ほどかかる。「彼」はすっかり顔色もよくなって元気だったが、瑤子の方は流石に疲れが出た。目が覚めると、もう札幌だった。そこからそのまま千歳空港駅まで行き、網走空港行きの飛行機に乗る。

「随分疲れさせてしまったね。一時間くらいは眠れると思うよ。」

 離陸するとすぐに「彼」はそう言った。

「ううん。もう大丈夫。」

 ステュワーデスがサンドウィッチとマンゴージュースを配り始める。もちろん、「彼」は断ったが、瑤子は受け取った。体力を消耗していたためだろう、思いのほかおいしかった。食後の煙草を味わえないのを残念に思いながら、彼女は言った。

「随分と疲れがとれたわ。ぐっすり眠ったのね。」

「いや、もっと眠っておいた方が良い。飛行機を降りてからが大変なんだ。」

「え?」

「ヘリをチャーターしたかったけれども、空きがなかった。四時間ほどタクシーに乗ることになる。タクシーは眠れないからね。」

「私は眠れるけど……。敏感なのね。」

「いや、最初の一時間は良いんだが、後がカーブの連続なんだ。」

「知床半島横断道が?」

「いや、そこに行き着くまでもだよ。道が真っ直ぐなのは斜里までだ。」

「学生時代に凄いところへ旅行してたのね。」

「不便なところだけれど、気に入っていたんだ。当時は列車で斜里まで行って、そこからはバスだった。札幌を朝に出ると夕方には宇登呂温泉に着いた。羅臼温泉に向かうのは翌朝だ。年によっては自分の足で山越えをしたよ。」

「そんなことができるの? 知床半島って相当横幅があるでしょ。」

「もちろん、根もとの部分では不可能だよ。いや不可能でもないかな。網走から斜里まで一日で歩いたこともあるから。ともかく、宇登呂温泉と羅臼温泉の間の距離はそれほどでもないんだ。ただ、山道だから丸一日かかるけれどもね。」

「信じられない。それで羅臼温泉では何してたの?」

「テントを張って毎日自炊していた。キャンプ場から沿岸の街まで四キロ位はあるから、買い物に行くだけでも半日はつぶれたよ。午後からは釣りをしていた。最初に行った年に、キャンプ場で知り合った友達がくれた釣竿でね。随分長い間使ったけど、最後には折れてしまった。」

「何が釣れるの?」

「オショロコマって言ってね。岩魚の一種らしい。でも、素人でもこれくらいのが釣れるんだ。」

 彼は両手の人差し指で二十四、五センチくらいの大きさを示した。

「もちろん、こんなのは滅多に釣れない。それに、鱒を釣りに来ている人たちは、雑魚扱いして見向きもしないんだけれどもね。」

「で、そんな風に毎日を過ごして楽しいの?」

 きいた後で、馬鹿なことを尋ねたと瑤子は思ったが、彼は満面に笑みを浮かべて答えた。

「もの凄く楽しかった。全然退屈しなかったよ。夕方になったら、河原中を歩いて薪を拾い集めて、夜は夕食を作った後の焚き火を眺めて過ごすんだ。誰かと一緒のことも多かったけれど、一人でいても時間を持て余したりなんかはしなかったよ。真っ暗な中で、燠火が風に合わせてイリュミネーションみたいに光るんだ。」

「ふうん。」

 瑤子にはそのような経験はなかったが、楽しげに話す彼の顔を見ていると、自分にもそれは愉快な生活に違いないと思われた。

 

「そうやってさ、毎日拾うものだから、とうとう行きつけの河原には薪がなくなってしまったこともあった。で、仕方がないから川を遡って行ったんだ。すると、上流にどうしてそうなったのかは分からないけれど、河原の石を一面に敷き詰めた運動場みたいな場所に出たんだ。川は真ん中辺りを流れていて、他の部分に水はないんだけれど、普段はきっとその場所全体が水に浸かっているんだろうね、ところどころに生えている木がみな真っ白になって枯れているんだ。小学生の時、木も生きていると聞いて不思議に思ったけれど、その時には、本当に樹木も生き物なんだと思ったよ。表皮が全て剥がれて真っ白に枯れた白樺の木は、骸骨そのものだった。じっと見てると気味が悪いほどだった。」

 瑤子は立ち枯れた木の林立する人気のない荒野を思い浮かべた。空は今にも雨粒を落とし始めそうな具合に黒く曇っている。聞こえてくるのは川の流れる音ばかりだ。

「ところが、しばらくじっとしていると、なんだか落ちついて来るんだ。時間のない世界――永遠の世界に来たみたいで。それで呆然としていると、ふと思い出したのが、教科書か何かで見た龍安寺の枯山水だった。」

「ああ、岩と波模様を描いた砂しかない庭のことね。」

「そう。それで、それまで単に奇をてらった意匠くらいにしか考えていなかった、あの石庭が本当はリアリズムの極致なんだと分かった。人間が表象し得る限りの永遠、もしくは死を表現したのがあれだと思った。その時僕は初めて芸術の凄みを感じたんだ。あれから僕は猛烈に勉強を始めた。」

「日本庭園の? でも文学の先生だったんでしょ。」

「いや、日本庭園への興味じゃなく、自分が当時少しづつ読み始めていた文学への関心が高まって勉強し始めたんだ。常に死への恐れをはらんだ生活を営んでいた中世ヨーロッパの人々の文学にね。まあ、日本庭園じゃ自分にはとっかかりがなかったのが一つの理由だろうけれど、それともう一つ、枯山水には死への恐れがなかった。そこに僕は突き放すような冷たさを感じたんだ。余りに超然としすぎているんだ。むしろ、信仰を堅く保ちながらも、仲間の死をひどく悲しんだり、自分が死ぬのを心底恐れたりする、中世ヨーロッパの登場人物の方が自分には近しいものと感じられたんだ。」

 瑤子には、荒れ果てた河原から枯山水へ、そしてそこから中世ヨーロッパの文学へという流れは良く理解できなかった。けれども、河原で彼が感じた妙な落ちつき、というのは分かるような気がした。そして、自分ならその河原から永久に出られなかったのではないかとも思った。少なくとも、十代のある時期にそうした光景に出くわして、彼の感じたような落ちつきを感じたとしたら。瑤子はぞくりとしたものを背中に感じて言った。

「で、その河原でどうしたの。」

「どうもしないよ。それだけだ。急に人声がして振り返ると何人かの釣り人たちがやって来てね、何にもしないでぼんやりしている自分が急に恥ずかしくなって、ふと足下をみると、石の間に間に流木の破片がいっぱい詰まっているのが見えたんだ。で、ポケットからスーパーの袋を取り出して薪拾いをして帰った。すっかり乾ききっていたから良く燃えたよ。」

 瑤子は、彼がその場所を抜け出し得たことに心底ほっとしながら言った。

「そこ、まだあるかしら。行ってみたいわね。」

「むろん行ってみるよ。オリジナルがいるかもしれない。」

 瑤子はあっと声をあげそうになった。話に没頭するあまり、「彼」がコピーだと言うことを忘れていた。なぜ、自分が「彼」と網走行きの飛行機の中に居るのかなどということを反省してみることさえなかった。彼と二人で河原に赴き、十代の自分の経験を語りたい、そんなことを考えていたのだ。オリジナルとの間に感じる波長のシンクロナイズをコピーに対して感じている。瑤子は不安になった。

 飛行機は既に機首を下げ始めている。