八、

 

 実際、眠るどころの騒ぎではなかった。斜里から海沿いの道に入ると、前方が見えるのは常に数百メートルほどだ。その先は、道が急激に折れ曲がる。車に弱いということはないが、疲れと機内で食べた遅い昼食が祟ったのだろう、瑤子は横断道に入る前に二度までも車を止めてもらい、路肩に嘔吐しなければならなかった。二度目には、彼女の背をさすりながら、「彼」が「今日は宇登呂温泉までにしよう」と言った。けれども、タイム・リミットのことを考えると、時間が惜しい。瑤子は「大丈夫」とだけ答えた。だが、宇登呂温泉に着いて、「彼」が一時間ほどの休憩を取ろうと言うと、もはやそれを受け入れざるを得なかった。三度目に吐きに行った喫茶店のトイレの鏡に映った顔は絵に描いたような土色に塗られていた。あの頃の私……。瑤子は脂汗を流して席に戻った。

「ここで一泊しても良いんだよ。もう四時だ。本格的に彼を探せるのは明日になるからね。今日できるのはキャンプ場を探すくらいのことだよ。」

「大丈夫。それに彼が移動してしまうことも考えられるでしょう。時間はいくらあっても足りないわ。」

 実際、瑤子は嘘をつかずにすんだ。酔い止めと胃腸薬を飲んで一時間も休憩すると体調はかなりましになった。横断道は更にカーブの多い道だったが、車を止めてもらうことはなかった。窓外の景色を見る余裕が出てくると、瑤子は遠景を眺め始めた。起伏に富んだ濃密な森がそこには広がっていた。

「この道はね、原生林を切り開いて造ったものなんだ。だから、数百メートルほども木々の間を分け入れば、そこは誰も踏み込んだことのない土地ということになる。人間が暴力的に自然に介入した典型例がこの道だと言えるだろうね。」

 瑤子は景色を眺めるうちに、先に彼が話していたような樹木のスケルトンが緑の木々に交じってそびえ立っているのに気付いた。真っ白に脱色され小枝を払われてしまった樹木の亡骸は、精力的に青々と繁茂する潅木や喬木の間に忽然として現れている。

「排気ガスの影響かしら?」

 瑤子は樹木の骨格標本の一つを指さして尋ねた。

「それもあるかも知れないけれど、どんな茂みにも立ち枯れて雨にさらされた木は見られるものだよ。木々も世代交代するからね。」

「生き生きとした樹木の間に、あんな風に真っ白になった木が立っているのは異様な雰囲気ね。」

「案外、木々たちにとってはメメント・モリ的な存在かも知れないよ。」

「でも、木は死を思い出しても仕方ないでしょう。よりよく生きる努力をしようがないんだから。根を張った環境でせいぜい長生きできることを祈るしかないんじゃない?」

「あは。確かにそうでないと樹木たちは人間の猛威を恐れて、宇宙ロケットでこの地球から逃げ出すかもしれないね。これは我々には困る。」

「この前のテロでアマゾンの森がかなり広範囲に焼かれたりもしているものね。」

 数年前、地下に潜ったネオナチの手によってシュヴァルツ・ヴァルトに火が放たれた。そのためドイツは今、二酸化炭素の排出量圧縮に苦しまねばならず、経済は失速状態にある。外国人労働者排斥の動きが先鋭化しているらしい。そしてその「成功」以来、テロの矛先は自然にも向けられるようになった。アマゾンに大量のナパームをばらまいたのは、国際麻薬組織だ。

「タンカーを爆破する奴もいるから、魚たちがメメント・モリしても大変だ。」

「鯨が乗れるようなロケットを開発するには時間がかかるでしょうけど。」

「それを言うなら、屋久杉の乗れるようなロケットを造るのも大変だ。結局、与えられた環境から逃げ出せない、木や魚たちはメメント・モリする意識がないのが唯一の救いかもしれない。よりよく生きる努力をしようがないからね。」

 瑤子は「彼」を見た。自分のことを話しているのだ。死を恐れながら、つまり意識をもちながら、与えられた環境から逃げ出すことができない、メメント・モリをする樹木、魚とは「彼」のことではないか。しかも、枯山水のような死への恐れを超越した諦観を持ち得ないという点では、彼はオリジナルの心性を受け継いでいるのだ。瑤子は、恐ろしいものをかいま見たような気がした。

 タクシーはもう下り坂にさしかかっている。海とそれをとりまく漁港が見え隠れし始める。急斜面の山肌に張り付いた橋のような道が何度も折り返すため、うまく谷間を見下ろせる場所に来たときだけ下界が見えるのだ。海沿いの村の向こうの水面に浮かんでいるのは国後島だろう。瑤子は島の上に飛ぶ海鳥の群が見えたような気がした。だが、本当に見えたのかどうかが分からないうちに、タクシーは斜面を降り切ってしまい、もはや海も島も見えなくなってしまった。

 でも、メメント・モリする木とは私自身のことでもあるんだわ。ふと瑤子は思った。十代の経験を未だに乗り越えられずにあがき続けている面が彼女自身にも確かにあった。普段どんなに忘れたふりをしていても、彼女もまた与えられた状況から逃げ出すことができないでいるのだ。瑤子は暗澹とした気分になった。急に黙り込んでしまった瑤子に「彼」はもはや話しかけず窓外を眺めている。こういうところは本当に島田そのものだ。相手の言葉に何かのヒントを得ると一気に自分にまつわる思考を展開させて黙り込んでしまう、そういう瑤子に苛立ちとか不安を感じることなく、ただ待ってくれる。同じ性癖をもつ人間として。瑤子自身、島田が沈黙すると次に彼が口を開くまで黙っていたものだ。

 

 やがて、タクシーは大きなコンクリート作りの橋を渡り始めた。山間をまたぐその橋の下には川が流れている。橋を越え緩やかなカーブを曲がったとたん、再び海と島が見えた。タクシーは道路に面した山肌に幅の狭い階段が造られている場所で停車した。木に似せたコンクリートづくりの柱に、「羅臼国設キャンプ場」の文字が読めた。

「受け付けがないから泊まり客の名前は確認できないけれど、この時期にテントを張っている人は少ないと思うよ。」

 「彼」の言葉通りに、黄昏たキャンプ場には十数張のテントしかなかった。ところどころに携帯用ガスコンロの青い炎と、それに照らされたテント、学生とおぼしき年代の若者たちが見える。

「夏休みが終わると、急に寂しくなるね、ここは。」

 二人は順番にテントを見て廻った。島田がテントを張っているならすぐに分かるはずだ。「彼」によれば、キャンプ用品はとっくに処分してしまったので、新品を買うしかないからだ。だが、どのテントも古びているか、島田が使うにしては粗末すぎるものばかりだった。

「どうやら居ないようね。」

 六時をまわり、西側を山に閉ざされたキャンプ場はもう真っ暗だ。

「明日もう一度来て、皆に尋ねることにしよう。」

 

 瑤子たちは街まで降りて、聞き込みを始めた。真っ先に行ったのはキャンプ用品を扱う街で唯一の店だ。「彼」が一卵性双生児の兄を捜しているということにして、自分とそっくりの人間がここ二三日の間にテントを買わなかったかと尋ねた。店の主人は今シーズンにはテントが一張も売れなかったとぼやきつつ、「彼」とそっくりの人間も見覚えがないと言った。周辺の店にもあたってみたが、はかばかしい成果はなかった。

「ここには来てないのかしら。」

「そんな筈はないと思うよ。客の顔をあまりしっかりと見てないんだろう。それに、テントなら途中で買うこともできるからね。ともかく今日はもう遅い。ホテルに行こう。」