九、

 

 二人はキャンプ場と街の間に位置する温泉付きのホテルにたどり着いた。別々のスイート・ルームをとる男女を訝しげに見ながらフロント係は

「お食事は同席でよろしいですか。」

 と尋ねた。瑤子は「彼」が食事を必要としないと考えたので、返答に窮したが、「彼」はあっさりと「それで結構です」と答えた。

「では、お荷物を部屋に置いてすぐに食堂に行って下さい。」

 その言葉に従う。そして、「彼」は平然と夕食を平らげた。瑤子は驚いたが、周囲をはばかって何も尋ねずに食事を済ませた。

「あなた食事もするの?」

 人気のないロビーで瑤子は向かいに腰を降ろした「彼」に小声で尋ねた。

「むろんだよ。ちゃんと消化して排便もするよ。それに栄養摂取もする。皮膚や筋肉を養わないといけないからね。僕の体の80パーセント以上は有機体なんだ。」

 何と言うことだ。それでは人間と変わらないではないか。瑤子は喉まででかかったその言葉を呑み込んだ。「彼」は「食事もするの」という問いに少し顔色を変えたからだ。自尊心を傷つけられたのだろう。だが、彼自身その自尊心を冷笑するかのように続けた。

「機内で昼食を食べなかったのは普段からの習慣なんだ。僕の体には人工臓器技術がふんだんに使われている。体の内外の有機物を養うのに呼吸器、消化器、循環器系統は全て備わっているよ。それに肝臓は本物だ。これはまだ技術でカヴァーできない領域だからね。」

「本物って?」

「オリジナルの肝臓の一部を人工培養したんだ。もの凄く金がかかった。まあ、だから未だに生体肝移植の方がよく用いられるんだけれど。技術的には心臓や腎臓も人工培養できるんだが、人工臓器を使ったり、あるいは、ドナーの臓器をもらった方が安上がりだというわけだ。」

 「彼」は相手の沈黙を遅蒔きながら感じとって黙った。瑤子は奔流のように溢れ出す思考の波に溺れそうだった。お休みの挨拶もそこそこにロビーを離れ、自室で一人になる。そして、考え始めた。

 そう。肝臓が人工培養できるように、脳だって培養できる。もちろん、法律では禁止されているけれど。でも、それは不可能じゃない。もし、脳を培養して、「彼」の記憶をそこに移し入れたとしたら、「彼」は一体人間とどこが違うのかしら? いや、現在、電力と磁力によって記憶が維持され、思考を超高性能のCPU の力で行っているとしても、「彼」は一体人間とどこが違うのだろう?

 瑤子は「彼」が自分に助けを求めたことに関して、寺尾が言った言葉を思い出した。

「無意識の選択までがそこに含まれている」 それは正しいだろう。「彼」は瑤子がオリジナルのことを愛していると知っている。だから、そのコピーである自分の機能停止をも妨げてくれる、そう考えたのだ。もちろん、それはおかしな論理だ。コピーはコピーである時点でオリジナルとは違うのだから。オリジナルを愛する瑤子がコピーを助けるとは限らない。実際、「彼」の機能停止に関して意見を求められれば、彼女は賛成はしないとしても、反対もしなかっただろう。そして、コピーにしても、意識のうえでなら、瑤子のそうした態度を予見できたはずだ。だが、「彼」は無意識に彼女の善意を前提した。だからこそ、仙台に連れていってくれるよう頼んだ。本来なら、寺尾に電話をかけるだけで事足りたのだ。

 そうした無意識をも備えた存在であるコピーは人間とどこが異なるのか? 瑤子は再度自問した。だが、答えは既に出ていた。コピーはコピーである時点でオリジナルとは違うのだ。ロートレックのリソグラフは紛れもなく芸術だが、そのカラー・コピーは決して芸術ではない。オリジナルにそっくりだというまさにそのことが、コピーの全ての価値を剥奪してしまうのだ。もちろん、コピーを本物と間違うことはある。現在のカラーコピーは極めて精度が高いから、肉眼ではオリジナルのロートレックと見分けがつかないかも知れない。だが、それは事実誤認に過ぎない。インクの性質を調べてコピーだと分かれば、全く価値のないものになることは変わりがない。時には本物と取り違えられるかも知れないが、所詮コピーに過ぎないのだ。

 瑤子は次第強くなる眠気に身を任せ、そのまま意識を失っていった。