*** The Quetta News ***

                  19 Feb.1993                    

 きょう、紀元前数性器、ではなかった数世紀の耳掻きとつま楊枝を見た。
現代の耳掻きとつま楊枝がほとんど進化していないのがよく分かった。
今日は金曜日で、イスラム教国のパキスタンでは金曜日と土曜日が休みで日曜日から仕事が始まるので、今日はパキスタンへ来て最初の休日だったのです。
仕事の時間は、今は朝8時から3時半で、暑くなると7時半から3時までになるそうな。
 いつも霧がかかり、美しく、静かで、荘厳なる、法と秩序の街、ジュネ−ブからカラチ空港に着いた瞬間、目の前が真っ暗になった。あらゆる騒音、嬌声、阿鼻叫喚、悪臭、腐臭、群衆、混沌と無秩序の中に一人ポツンととり残されていた。
500人は乗っていたはずの僕と同じ飛行機の他の乗客はいったいどこ行ったんだ、シェラトンホテルのバスはどこだ、なんて考えているうちに僕の荷物は全部無くなっていた。
何人ものパキスタン人がすたこらさっさと僕の重い荷物を平気な顔して見事なチ−ムワ−クで1台のタクシ−まで運んで行ってしまい、僕は蒼い顔をして、「待て、タクシ−はいらない、どこ行くんだ、オレの荷物に触るな!」と叫びながら追掛けたけど、こういう時だけ英語が分からないふりをしやがって、結局、僕は彼らの月収分くらいの料金を請求されてタクシ−に乗ってホテルへ行くはめになった。
しかし、ホテルに着くとベルボ−イが走りこんできて「そんなに払うな」と云って、運転手とけんかをし始めて、もう僕はどうでもいいから早く解放してくれ的気分になってベルボ−イのいう金額だけ払って、やっと法と秩序の世界、ホテル内に避難した。
『だから、カラチで一泊なんてイヤだったんだ、イスラマバ−ドへ直行すれば良かったんだ、誰がこんなスケジュ−ル作ったんだ、一生恨んでやるからな』なんてブツブツ考えながら部屋に着くと僕は腰を抜かした。
なんてでかい部屋なんだ、パキスタン人は無駄ということを知らないのか、オレは一人だぞ、どうするんだ、こんな大きな部屋で迷子になったらちゃんと助けに来てくれるのか・・・ちょっと大げさでした。
しかし、ベッドだけで四畳半はありそうだった。
イスラム的浪費だな、これが。と納得してその日は四畳半ですやすやと眠った。
 次の日、イスラマバ−ド空港に着き、僕は王様になった。
空港にはずらっと国連専用機が並び、国連の公用車が僕を迎えに来ていた。
ホテルには向かわず、鉄条網に囲まれ、パラボラアンテナがそびえ立ち、警備隊が厳重に警戒する要塞のような事務所に向かい、着くといきなり会議が始まり、何が何だか分からないうちに激しい論戦の渦中に、僕はまた一人ポツンと取り残されていた。
とにかく誰でもいいから僕の仕事はいったい何なのか教えてくれないか、そう叫びたい気持ちだった。
ジュネ−ブでのブリ−フィングは一般的で範囲が広過ぎて直接仕事にはあまり役にたたないものだった。
ともかく、初日になしくずしに仕事になだれ込まされ、いろんな人に会ううちに「ジュネ−ブからリ−ガルオフィサ−がやってきた」という他人の話し声を何度か聞いて、そして自分のすわっている部屋の表にリ−ガルセクションという表札がついてるのを糞をしにいった帰りに発見して、やっと自分のポジションを僕は理解し始めた。
なんて呑気なことを云ってられたのは初日だけで、仕事の内容を知って僕は戦慄と恐怖と興奮と狂喜に包まれてしまった。
でも内容はややこしいので書かない。
その代わりにマイケル・ジャクソンの"Heal the World"のビデオ・クリップでも見てください。
 この日から、何人ものチョ−美人の秘書、助手、メイドなどに何もかやってもらって自分のすることといったら、耳クソをとったり、鼻クソをほじくったりすることしかなくなった。
後はただひたすらドキュメントの山を片っ端から読んで頭に入れるだけという、まったく大学院に戻ったような気分です。
朝は運転手が迎えにくるまでムシャムシャと部屋で朝食を食ってる。
ここのホテルの部屋もまた、だだっ広く、ベッドが三つあり、フル・応接セットとフル・ダイニングセットに四畳半のバスル−ムがある。
テレビはCNNもBBCもMTVも見れる。
夜はパキスタン料理も英国料理(?)も中華料理もなんでも作って部屋まで持ってきてくれる。
パンツも靴下も洗濯してくれる。
荷物を自分で運ぶということが無くなった。
僕がイスラマバ−ドでしなければいけないことと言えば、クエッタに行くまでの2週間、これまでの記録をすべて読んで、全部頭に入れることだけだ。
例えば、1)アフガニスタンの政治状況:各政党の力関係、リ−ダ−の政治力、派閥の勢力関係、各ゲリラの思想的傾向、リ−ダ−の名前、抗争の経緯、イスラム各宗派の闘争状況、思想の違い、少数派宗教の人権剥脱状況など。
2)これまでの難民に関するデ−タ:出身地、構成、キャンプでの状況、増減など、
3)法律:難民に関する条約、国連決議、判例、関連する各国法、人権に関する条約・各国法など。
4)これまでのUNHCR の活動状況と現在の活動について:現金や食料援助のプログラム、第3国へ送り出すプログラム、難民受け入れ国の基準・手続き、難民認定のためのインタビュ−の方法、職業訓練プログラムなど。
ジュネ−ブの1週間でたまった書類は積み上げたら1mぐらいになったけど、ここではそれとは比較にならない。
まったく国連名物の書類の洪水です。
みんな内容はおもしろいけど、多すぎる、時間が足りない!中には翻訳して日本でも読めるようにしたいと思う資料もあります。
 しかし、拷問、強姦、集団リンチ、暗殺、銃撃、空爆、なんでもあり、の毎日で僕の頭はマヒしつつある。
インタビュ−の途中で吐き気がすることもある、思わず溢れそうになる涙を懸命にこらえたけど言葉が出なくなったこともある。
ここでは、時々、嵐のような雨がふる。
そんな時、道でごろごろしていた人達は今どうしてるんだろう、って思うけど、僕はビジネスクラスに★★★★★のホテルに護衛と運転手つきの生活だもんね。
いったい、僕は何しに来たんだろう。
暗澹とする、このとてつもない生活の格差。
 ところで、パキスタン人の悩みを一つ知ったので教えてあげよう。昔はウンコ(糞、ババ、ウンチ、大便 etc. )をした後、土の中にある粘土(と思う)で拭いていたそうだけど、都会に人が集まるに連れて、だんだん粘土が無くなってきて、あるいは人の使った粘土をもう一度使ってしまうというおぞましいことが起き始め、とうとう水を使うようになったそうだ。
それもそんなに遠い昔の話ではなくて、せいぜい100年以内のことだって。
しかし、この水でケツを拭くというのが、結構大変らしくて、まず、爪が肛門の柔らかい部分にあたって、傷つけやすく、うっかり、痛い思いをすることも頻繁らしい。
第二に、ウンコを指を使って水で洗い流した後、懸命に石鹸で手を洗うのだが、やはり爪の間に詰まったウンコは完全にはとれないので困るらしい。
以上を説明してくれたパキスタン人は自分でキタナイ、キタナイと云って笑っていた。
しかし、食事は右手で、ウンコは左手だから、大丈夫だろうって僕が云ったら、右手で食べようと思っても左手で押え付けなければ引きちぎれないものもあるので、時々左手も使うのだそうだ。
それに比べて、アフガニスタン人はもっと厳格でどんなものも右手だけで引きちぎって食べてしまうそうで、パキスタン人は感心していた。
指が強い、と。
というわけで、僕は右手だけで紙を引きちぎる練習をしばらくするはめになった。
なるほど、コツがあるのがよ−く分かった。
パキスタン人の悩みを解決するウオシュレットを輸出すれば大金持ちになれるぞ。