◆◆◆ 女性の保護 ◆◆◆

ある日、イラン人でバハイ教徒の女性が一人、UNHCRの事務所に保護を求め てやってきた。
イスラム教徒に性的虐待を受け、家族の名誉を汚さないためにたった 一人で、パキスタンまでやってきたという。
もちろんパスポ−トもなんにもない。
この辺の国境には、国境を違法に越える手配をすることを生業にしている者がいくらでもいる。
彼女もそういう輩の手を借りて密入国バスに詰め込まれ、パキスタンに入った。
彼女は20代前半で、小さくて、伏し目がちで、決して視線を合わせようとしなかった。
時々、震えているように見えた。
インタビュ−をする。
残念ながら、国際法上の難民と認定するのは非常に難しいケ−スだった。
不幸な目にあったことは確かなようだけど、それは本来その国家(イラン)の手によって救済されるべきもので他国や国際機関が干渉するべきものではない。
しかし、彼女の災難が、イランという国家が組織的にある種の宗教、ある種の政 党などを迫害した結果の出来事だとしたら、その国家はいくつかの条約に違反しているし、彼女は国際法上の難民の定義に入ることになる。
いったん、難民と認定される と彼女はまず法的に保護され、次に物質的にも精神的にも様々な援助が与えられる。
しかし、難民と認定されないと、彼女はただの不法入国者である。
いつ逮捕されるか分からない。
強制送還されれば、イランのような国では数年は監獄で性的にも肉体的にも虐待(強姦、拷問)され、なぶり殺しにされる可能性が高い。
結局、難民と認定されなかったおかげで、今度は本当の難民になってしまうのだ。
しかし、難民になる可能性が高いから、予め難民と認定するなんてことはできない。
ここで苦しいディレンマに陥る。
予防的措置、予防的保護などに関してはジュネ−ブやニュ−ヨ−クで盛んに議論されているけれど、いつになったら結論が出るのか分からない。
待ってられない。
今何かしなければいけない。
だんだん、インタビュ−をしながら焦りが出てくる。
何かないだろうか、何か条約上の定義にひっかっかるようなことはないだろうか、何とかうまく解釈して難民と認定できないだろうか、といろんな角度から質問をしてみるけれど、いい結果が得られない。
普通はインタビュ−は僕と通訳の二人でするけれど、この時はたまたま出張に来ていた、もう一人の法務官を加えて三人でやっていた。
三人ともため息しか出てこなくなる。
みんな無力感でイライラしている。
我々が焦るには、もう一つ、イスラム教国特有の事情がある。
それは、イスラム社会では独身の女性が一人で生きるということはとても危険なことだということ、ほとんど不可能だということである。
イスラム教国では女性は家にいるものなので、街で見かけるのはほとんど男である。
特にクエッタのようなアフガニスタンとイランの国境に近い、部族支配の保守的な街では、女性を見るとしたら、外国人か、乞食か、家族で移動中の一員か(ベ−ルで顔を隠している)で、それ以外はまずない。
こういう所で一人の女性が街に出ると集団セクハラに会ってしまい、収拾が着かなくなる。
もちろんさっさと逃げないと挙げ句の果てに強姦されるのは間違いない。
要するにイスラム社会では一人の女性は生きていけないのだ。
難民となると、夫が戦死し、たくさんの子供をかかえた女性であることが多いので、さらに悲惨なことになる。
未亡人の多くは夫の兄弟と結婚させられる。
結婚とはいうものの、西欧人や日本人のような非イスラム教的感覚で言えば、性的奴隷である。
未亡人が生活の糧を得るにはそれしか手段がないのだ。
それでも、第何番目かの夫人としての、一応の安定的地位を得られるというのは、ましなのかもしれない。
ただ 、強姦されるだけで、国連に援助された食物まで奪われてしまう女性も少なくない。
こういうイスラム社会の特殊な事情を国連も考慮し、専門官を創設して女性と子供の保護には特に力を入れるようになってきている。
僕もジュネ−ブで、性的虐待を受けた女性や、情緒不安定な子供のインタビュ−の仕方、難民キャンプでの女性と子供に 対する援助方法に関して等、その他色々、心理学や社会学の専門官からブリ−フィングを受け、例のごとく女性と子供の保護に関する大量の文書を読まされた。
そして、フィ−ルドに来て、法律と現実の間で身動きがとれなくなった。
難民以前の女性の保護に関しては、どうするんだ・・・・?
もう一人の法務官、グアテマラ出身のラモンが聞いた。
「その男は正確には何をしたんだ。
性的虐待というけれど、それは強姦なのか」
すでに我々は周囲の状況、時刻など克明に聞いていたし、家族の名誉を守るために国を捨てる直前に彼女が家族と交わした会話の内容も聞いていたので、僕はそれが強姦であることを確信していた。
しかも、彼女の精神的動揺は今も続いているように 見えたし、それにそれが強姦であったか、ただの性的嫌がらせであったか等は、もうその段階では法的解釈にほとんど影響を与えないように思われた。
しかも、そういう 具体的な質問は避けるべきであるとジュネ−ブは指示している。
僕はすでに相当イライラしていたので、くだらない質問にムカッとして、かなりきつい口調でラモンを遮った。
「そんなこと聞く必要はないだろう。強姦であることは明白じゃないか」。
通訳 のモハメッド・アリも僕に同意した。
「強姦ですよ。これは」。
ラモンは自分の質問が遮られたことに腹を立てた。
そして、僕とラモンは、インタビュ−の最中に決してしてはいけないことを始めてしまった。
−−聞かなければ分からないだろう!、聞かなくても明白だ!、一度は聞くべき だ!、彼女の心理的動揺を見ろ!−−みたいな言い合いを始めてしまったのだ。
そしてとうとうラモンが思い出して云った、「今、彼女の目の前で言い合いをするのは良くない」と。
そうだ、その通りだ、僕は興奮を抑えて黙った。
そしてモハメッド・アリは通訳してしまった。
「その男は正確には何をしたんだ」と。
僕は下を向いた。
「そんなこと、言えるものではありません・・・」。
三人とも黙った。
僕はこのケ−スが難民と認定するには絶望的に難しいと思いながらも、彼女の動揺の具合がひどく気になっていたので、精神的状態の鑑定と事情把握という名目で、翌日、彼女を女性カウンセラ−のもとへ送ることにし、カウンセリングの予約をとった。
すぐに難民と認定されなくても、そうやって国連の監視下に置かれているかぎり、事実上、彼女は保護されている状態になる。
彼女の居場所を確認し、何か危険を感じたらいつでも戻ってくるようにと云って、『現在、彼女は国連の関心の下にある。
官権の保護を与えられることを期待する』という、1ヵ月間有効の証書を発行し、帰ってもらった。
そして、彼女が部屋を出た瞬間に、僕もラモンもいきなり椅子から立ち上がり、再び激しい議論を始めてしまった。
大声でスペイン語なまりと日本語なまりの英語で 言い合いをしている二人のUN Legal Officers を5〜6ヵ国語がぺらぺらのパキスタン政府から出向中のモハメッド・アリはあっけにとられて見ていた。
国連の法務官は こんなにがらが悪かったのか、という顔をして。
僕とラモンはしばしばこういう激しい口論をする。
僕はこんなに気が短かったのかとここへ来て自分で驚いている。
ラモンは典型的ラテン系で顔を真っ赤にして、熱狂的に執拗に議論する。
彼は法律家としては優秀だけど、いかにも法解釈家らしく杓子定規な考え方をする。
そこで僕とぶつかる。
しばしば、視野が狭いのではないかと思うこともある。
しかし、彼は僕より階級が一つ上なのだけど、そういうことで議論を正当化しようとは決してしないフェア−な人間である。
そもそも今日の議論の真因は二人とも何とか救いはないかと焦っていたことにある。
こっちも彼の強引さに敗けずに執拗に主張を繰り返せば、聞く耳を持っているし、自分の頭でもう一度考えてみ ようとする。
しかも非常に仕事熱心で、強靭な持久力を持っている。
そして頭が強い。
毎日一人でオフィスに残って遅く迄仕事している。休日もしばしばオフィスに出て一人で仕事している。
彼はニカラグアやエルサルバドルという革命、軍事政権、ク−デタが繰り返される激戦地を経験してやってきた。
しかし、そういうことで権威を示したり、「現実はそんなもんじゃないんだ」みたいな無教養な物知り的態度も全く持っていない。
彼は大学生の頃、反政府運動に関わっていた。
ある段階でどういうわけか運動か ら身を引いたが興味を失ったわけではなかったらしい。
卒業後弁護士になったが、その間にもなんどか革命騒ぎが繰り返され、グアテマラだけではなく中央アメリカは難民だらけの状態に入っていった。
ある日弁護士を辞め、何も仕事をせず革命で交替を繰り返す国家の法的連続性に関する研究を一人で始め、半年かけてまとめてどこかに投稿したらしい。
その後グアテマラの難民を援助するために国連がやってきて何かのきっかけで国連に採用され、自分の国の難民を援助することになった。
何度か革命が 繰り返された結果、現在のグアテマラ政権は興味深いことに彼の支持していた党派が握り、自分の友達が若くして重要なポストを占めているということになった。
そして、彼のもとにもしばしば重要なポストの申し出があるが、彼は断り続けている。
どう してなんだ、せっかく自分の希望していた政権ができたのに、と僕は聞いてみた。
−−−革命闘争の過程で現政権も様々な不正−暗殺、買収、陰謀−を働いてきたのを自分は知りすぎている。
そういうことを知りながら現政権に協力することは僕に はとても難しい。
分かるだろう?正義の問題だ。
色々問題はあるけど、この仕事(UNHCR)の方がいい仕事だ−−−。
彼は、そう答えた。
しかし、遠い将来にはどうなるか自分でも分からない、と付け足していた。
何か考え続けている。
結局のところ、僕とラモンは一番激しい議論をするけれど、一番仲良く仕事をしている。
私的思惑があって議論をするわけではない。
共通の目的達成のためにお互いのベストを尽くす結果が議論なのだ。
朝食も昼食も食べ損ね、遅く迄二人で事務所に残ってしまい、事務所の帰りに道端で串焼(シシカバブ)をむさぼり食う頃には、もう小学生になった気分で愉快に話に熱中している。
パキスタンへ来た当初はどうなることかと思ったけど、今では、皿の上や食物の上の砂も埃も土も泥も虫もゴミも何にも気にせず、ああ、おいしいなあと素直に思いながら、食べてしまう。
下痢も終わってしまった。
乞食も気にならなくなった。
寄ってくる乞食に一瞥もせずに串を一本やりながら、僕とラモンは会話を続けている。
乞食は串一本で当然のごとく納得して帰 っていく。
これは社会システムなのだ。
乞食という職業には串一本をもらう権利があり、お金を払って1ダ−スの串を食べれる人間には、乞われた場合にはいつでも遅滞なく乞食に串一本を提供する義務があるのだ。
このシステムがよいかどうかは別にして、ともかくこうやってこの社会は安定を維持している。
この安定を破壊して代わりに導入するに足るほど価値がある社会システムがいまだかつてあったのかどうか疑問に思ってしまう。
例えば、自由とか平等とか公正とか民主主義とか、これらが串一本 交換社会より優れた社会をどこかで構築したことが人類史上あったのだろうか。
今迄に住んできた街は、多かれ少なかれ同じ種類の規範に基づく、最も先進的と思われている所(大阪、ニューヨーク、ロサンゼルス、オックスフォード、ロンドン、東京)だったけど、この7番目、8番目(イスラマバード、クエッタ)の街より優れていただろうか。
現代の社会哲学者、アンガー、ロールズ、ハイエク、パーフィット、井上 達夫、A.K.セン等がクエッタみたいな街に数年住んでみたらどんな論考を発表するだろうか。
おもしろいだろうなあ。
な〜んて夢想は事務所に入るとぶっとび、目の前の悲惨を西欧近代の産物、国際法で救うことに忙殺される。
翌日、カウンセラ−に電話してみた。
きのうのイラン人女性は女性カウンセラ−の前でずっと泣いていたらしい。
我々の前では涙一つ見せなかったのに。
レポ−トにして送ってくれ、再考する、と云って電話を切った。
といっても、現状の法解釈では 彼女を救う道はないのはよく分かっている。
唯一の道は、法解釈を変更することだ。
僕はイランから逃げてくるバハイ教徒に関しては、もはや個別にいちいち認定する必要はないのじゃないかと思っている。
彼女のような例はあとを断たない。
イラン政府がシステマティックにバハイ教徒の人権を侵害していることを示す情報はかなり蓄積されている。
彼らには公正な裁判の機会が与えれていない。
教育の機会も彼らにとって不平等だ。
就業の自由も制限されている。
パスポ−トも発行されない。
彼らに対する蔑視、差別は公認されている。
そして拷問、裁判なしの処刑。
しかし、それらを証明する決定的な証拠はまだ不十分なのだ。
アムネスティ・インターナショナルの レポ−ト、国連人権委員会の92年のレポ−ト、まとまった報告書としてはこの二つだけである。
もし、イランのバハイ教徒に対する国家的迫害が明確になれば、保護を求 めてやってくるバハイ教徒は prima facie(法律用語。日本語忘れた。「それだけで 当然」というような意味)で難民として認定することができる。
現状では一人一人の事情を聞いて判断するのでよっぽど具体的に明確に主張してくれないとどうしようもない。
しかし、僕は数千人のバハイ教徒の過去のファイルを一つずつ開いてみて(ほとんど難民と認定されていない)、個々の主張はばらばらではあるが、系統的にあらゆる分野の細かい証拠を整理すればかなり強い証拠になるのではないだろうか、と思い始めた。
そしてこのファイルから統計をつくり、断片的に得られているイランの差別的立法とをつきあわせれば、国家的迫害を証明するのも不可能ではないかもしれない。
僕はラモンに話してみた。
ラモンも同意し、しばらくこれについて議論した。
もしこれが成功すると、国連が今まで間違った判断をしてきたことを証明することになる。
国連は非難の的になるかもしれない、と僕が云ってから一瞬ラモンと僕は顔を見合わせた。
しかし、もちろん、一瞬の沈黙の後、間違い続けるより悪いことはない、ということで僕とラモンは同意した。
次の懸念はそうなると大量のバハイ教徒を難民として抱え込むことになるが、彼らに保護と援助を与える予算が国連にもパキスタン政府にもないといいうことだった。
すでにパキスタンには300万人のアフガン難民をはじめ、イラク、イラン、ソマリア、ミャンマ−、タジクスタン等から続々と難民が流入している。
今年度の予算もまだ2割も集まってない。
ラモンはそれを危惧する。
正しい指摘なのだ。
しかし、それでも何かおかしいんじゃないか、そういう考え方は。僕はそう思う。
今、国連難民高等弁務官には3000人近いプロフェッショナルオフィサ−、それの数倍のロ−カルスタッフ、そして足りないとはいえ、気の遠くなるような巨額の予算が附いている。
しかし、1951年、国連総会で初めて難民高等弁務官が指名され、難民の地位に関する条約が結ばれ、それに基づき難民を認定し、国際的保護と援助を与える活動が始まった時、難民高等弁務官にお金はあっただろうか?
スタッフは?何にもなかったのだ。
机一つ、彼一人、そして新しい条約が実現するべき理想だけを持って、彼はたった一人で難民を認定し始めたのだ。
どうして今できない?
僕はラモンにそう云った。
法の原則に従うのが法務官の仕事だ。
予算に制約されて原則を変更するのは本末転倒だ、お金集めは我々の考えるべき問題じゃない、悪いけど、資金集め 部門(Fund Raising Section)に頑張ってもらうしかない。
ということで僕とラモンは一致した。
国連システムの中で最底辺にいる法務官が山奥の砂漠で考えることなど、ニュ−ヨ−クやジュネ−ブの政治力学に巻き込まれると抹殺されるだろう。
しかし、いつも 世界のどこかで、誰かが普遍的価値をもとめて働き続けていることを示す証は、膨大 な国連の官僚的文書の中にもしばしば光る結晶のように発見することができる
−それだけが、めまいと頭痛と肩こりと腰痛に堪えながら、文書洪水を懸命に消化している時の唯一の救い−。
どこかで誰かが途方もない非効率と無駄と浪費の中で懸命に抵抗している。
会ったことのない、どこかの誰かの努力を我々も無駄にするべきじゃない、ラモンと僕はそう結論した。
翌日、ラモンは山のような書類を抱え、クエッタ名産のりんごを木箱一箱持って イスラマバ−ドへ帰り、僕はリ−ガルセクションの秘書、助手、通訳を集めて、今ま でのバハイ教徒のファイルに含まれている全ての情報をコンピュ−タ−に入れること 、ロ−タス123を使って統計を整理すること、その他イラン国内立法等に関連する情報をできるかぎり収集すること等を伝え、統計の整理の仕方、グラフの作り方を教えて、みんなで世界で初めてのバハイ教徒に関する包括的な報告書を作成しようと云って解散した。
みんな初めての調査研究のような仕事に少しとまどい、興奮しているようだった。
そして、最後に僕はジュネ−ブにテレックスを打った。
  =至急、バハイ教に関する全ての資料、イラン国内立法に関する最新の情報を送られたし。SOQ/ISL/HCR.............。