−混沌の隙間に秩序がある−

 

< The Quetta News >

 

  クエッタにおける運転で、最も重要なことは《威嚇》である。

  威嚇なしでは前に進めない。冗談ではない。「アッ!危ない!」と思ったら、も

う負けである。「アッ!危ない!」と思わせたら、前に進める。

  ド−ンとセンタ−ライン(そんなものどこにも無いんだけど、あるとして)をオ

−バ−して対抗車線側に目一杯自分の車を露出させて、こっちに向かって疾走してく

る対抗車に、こちらの覚悟と決意のほどを知らしめる。相手は、もちろんクラクショ

ン鳴らしまくり、フラッシュたきまくりの多忙しである。それでも敵もさるもの、な

かなかスピ−ドを落したり、道を譲ったりなんてそぶりは決して見せない。というの

は、度胸があるからではなく、そんなことしたら、彼はどんどん後の車に追い抜かれ

るだけだからだ。そして、僕にとっては、対抗する相手が変わるだけの話である。そ

う、彼はきっちり窮地に追い込まれる。後の車には追い抜かれたくない、しかし、前

から来る車ともぶつかりたくない。どうだ、危ないだろ、えっ?えっ?

  彼に残された選択肢は、一つだけである。すなわち、僕とぶつかる瞬間までぎり

ぎりに我慢して、「ぶつかる!」という瞬間に少し道を譲るのである。そうして、後

から抜かれることも、僕とぶつかることも避けることができる。僕は、センタ−ライ

ン(あるとして)の真上あたりをそのまま疾走していくことができる。もちろん、か

なり、ギリギリに接近してすれ違うはめになることもある。どのくらいギリギリかと

いうと、すれ違った瞬間、ガゴンという音がして、ぶつかったかなと思ったら、ミラ

−が無くなっていたということがある。

  なぜ、こんなことをしなければならないか。それは簡単である。僕がしなければ

、相手がするからである。窮地に追い込まれてどぎまぎしながら運転するよりは、追

い込んだ方がずっと楽で、しかも安全!なのである。状況を支配した方が、いつも選

択肢が豊富で安全なのは、自然社会の一般原則である。

  しかし、そもそも、たかが車の運転でどうしてこんな陣取りゲ−ムのようなこと

をしなければいけないのか。それは交通ル−ルというものがないからである。ほんと

に何にもないのだ。僕は最初のころ、いろんな人にここの道路交通法をおおざっぱで

いいから教えてくれと頼んだ。しかし、みんな笑って、「そんなものない」とか「あ

るとしたらそれを破ることだ」なんて答えるだけで、誰もまじめに僕の質問を受け取

らなかった。

  で、僕は「常識」にしたがって運転することにした。結果は、悲惨であった。マ

ナ−の良い運転は良い餌食であったのだ。威嚇されまくり、窮地に追い込まれ、その

度に危険を脱出するのに忙しく、とても普通の精神状態で出勤もできず、僕は運転す

る度に怒りまくっていた。こいつら、みんな気違いか!と。

  ムチャクチャなのだ。推定人口100万以上という都市に信号が二つしかない、

という事実だけでも恐ろしくないか?しかも、5000年前インダス文明で使われて

いたのとまったく同じ形態のロバ車(博物館のパンフレットがそう言っていた)が道

路の半分を占領しているのだ。このロバというのは異様にのろい動物で、しかもそれ

が牽く二輪車は明らかに手製、木製のガタガタの車でヨタヨタと蛇行して真直ぐ進ま

ない。もちろん、急発進も急旋回も急停車も出来ない。

  そして、リキシャ。これがまたうっとおしい。やたらとこの数が多くて、うじゃ

うじゃと昆虫のように道をうずめつくしているのだ。これは三輪車で、オ−トバイに

幌をかぶせたようなもので、タクシ−として営業している。この運転手ども(リキシ

ャワ−ラ−と呼ぶ)が、クエッタ道路上で最もたちが悪いという点ではすべての人の

意見が一致する。彼らは、停止した状態からでも真横にひょいと進めるという三輪車

の特性をフルに悪用して、隙間を見つければ、まったく前後のことを考えずに突っ込

んでくるのだ。そんな所に入ってきたらにっちもさっちも行かないじゃないかという

所に必ず入ってくる。そして、回りの交通全てが前にも後にも進めなくなり、馬はい

ななき、ラクダは地団駄を踏み、羊の群れは右往左往し、ロバ車の運転手は拍子木の

ようなものでインダス文明の遺産をガンガン叩きまくって自己主張し、自動車もバス

もダンプもクラクションを鳴らしまくり、満員のバスの窓からも屋根からも乗客はわ

めくわ、叫ぶわ、それでも自転車はこれでもかとほとんど最後の隙間に車体を詰め込

もうとする、というように毎度大騒ぎをするのである。外国人から見れば、お前ら、

まったくバカじゃないか、と言いたくなる。ル−ルを作れい!

  止めの一発は通行人である。彼らは必ずこの痴呆的渋滞に参加したがるのだ。言

うまでもなく、この野次馬の集団は事態をいっそう悪化させる。観客各自が勝手に思

いついた意見をそれぞれ別の乗り手に指示するものだから、もう混沌としか言いよう

がない。−−−ああ、お前がそっちに動いたら、あっちが動けないだろう、あああ、

そんなとこに入りこむわけ、あんた?−−−というような感じで、もうほとんど運転

を放棄したくなる。実際、街中を絶対に自分で運転せず、必ずパキスタン人に運転さ

せるというアメリカ人もいる。彼はクエッタに到着して最初の2週間に3回事故を起

こした。

  しかし、5分から10分もすると不思議なことが必ず、起るのだ。世界もこれで

終わりかと思われた、この悲観的状況が、するするともつれた糸がほぐれるように解

消していくのである。そして、また、何事も無かったように、ロバ車はよたよたと世

間に迷惑をかけながら、一路邁進し、羊の群れはトットットッと横に脹らんだり、縦

に伸びたりしながら、草を求めて移動し、リキシャは相変わらずミズスマシのように

クルクルと無秩序に動き回ってあらゆるドライバ−を激怒させ、バスはやんややんや

と陽気に騒ぐ乗客を屋根の上に乗せて驀進し、ラクダは終始、無関心であったかのよ

うな表情のまま歩き去る。

  何なんだ、これは?確かに完璧な混沌である。ル−ルは無い。しかし、動いてい

る。自然の混沌の中には秩序が発見される、らしいけど、これもその一つかねえ。原

始状態に近い混沌。これがホッブスの言う戦争状態ですか。ロ−ルズのいう、無知の

ベ−ルに包まれた状態って、これのこと?というように古典を読みなおすと、大学の

先生は怒るかもしれないけど、おもしろいかも。

  外国人は全てこの気違い沙汰に怒りまくり、呆れ返るのだけど、やはり一様に、

どうして事故がこんなに少ないのかと不思議がる。これは僕にとってもまったく不思

議でどうにも解せない。このクエッタ交通の混沌が話題になる度に、「ル−ルが無い

方が安全なのか?」という結論に達してしまう。でたらめ、無秩序、無謀で、世界的

に有名な、ニュ−ヨ−クや大阪やロ−マの交通事情を知っている外国人も多いけど、

そういう都市と比較してもダントツにクエッタがひどいという点では誰も異論はない

にもかかわらず、クエッタの事故は少なすぎる。ほとんど無い。

  この謎を解釈する一つの方法は、我々外国人がル−ルという視点からのみ見るか

ら、混沌しか見えないだけで、実はクエッタ人にとっては、ちゃんと秩序が見えてい

るのかもしれないということだ。そう言えば《威嚇》も秩序だったのかもしれない。

  まあ、そういうわけで、毎朝、僕は秩序発見の旅に出るわけでもあります。

  ところで、クエッタ道路事情にも例外が一つだけある。それはムジャヒディンを

満載したトラックである。これだけは話にならない。黒い炎が疾駆する、という感じ

である。周りの風景が一瞬暗く氷り着くような殺気を降り巻きながら、一切のものを

無視して猛烈なスピ−ドでどこへやら駆け抜けていく。同車線であろうが、対抗車線

であろうが、一般の交通は一瞬絶句して停止するしかない。唖然として殺気が通り過

ぎるのを見送る。トラックの荷台にはマシンガンが林のように立っている。黒い炎に

包まれたムジャヒディン達がそれを支えて、疾風にびくともせずじっと座っている。

殺気というのはほんとに感じるものなのですよ。彼らは、このまぬけなクエッタの日

常とは隔絶した世界に住んでいるのでしょう。ともかく、おそらく、クエッタにおけ

る交通ル−ル第1号がこれだ。

  『ムジャヒディンがやってきたら停止せよ』。